聖徳太子研究の最前線

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Wikipedia「聖徳太子」記事における石井説記述の誤りの数々(訂正版)

2021年07月23日 | その他
 Wikipediaの「聖徳太子」記事は、研究者ではない古代史ファンの人たちが書いているようで、学術的でなく問題だらけであって、最新の研究状況を反映していない点は変わっていませんが、論調はこの10年ほどでかなり変化しました。

 当初は、「聖徳太子はいなかった、実在したのは厩戸王だ」説が正しいとする立場を柱としていたものの、最近は虚構説には反論が多いこともとりあげており、ネット上で読むことのできる私の説も紹介してくれています。

 たとえば、2021年7月22日現在のWiki記事では、

用明天皇紀では「豊耳聡聖徳[注釈 1]」や「豊聡耳大王」という表記も見られる[7]。『厩戸王』という名の初出は更に30年下った『懐風藻』であり[5]、歴史学者の小倉豊文が1963年 の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく……

と書かれており、注7と注5で出典として私の発表をあげています。

 しかし、問題が多いですね。まず、「豊聡耳大王」ではなく、「豊聡耳法大王」です。また、書名ではなくて人名なのですから、厩戸王を二重括弧でくくって『厩戸王』と記するのはおかしいでしょう。

 そのうえ、注7では出典として、

石井公成「藝林会第五回 学術大会「聖徳太子をめぐる諸問題」 問題提起 聖徳太子研究の問題点」『藝林』第61巻、藝林会、2012年。


と記していますが、論題表記がおかしいです。

石井公成「問題提起 聖徳太子研究の問題点」、『藝林』第61巻、2012年。

などとすべきでしょう(researchmapにあげてあるPDFは、こちら)。

 また、「厩戸王」は『懐風藻』が初出とあるのは、「「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出」の誤りです。つまり、『懐風藻』の編者と推測され、歴代の天皇たちの漢字諡號を定めたとされている淡海三船が用いたのが現存文献では最初であることは講演で述べ(その講演録の紹介は、こちら)、このブログでも簡単に触れました(こちら)。

 そもそも、「厩戸王」というのは、従来のイメージに縛られまいとして小倉が戦後になって仮に想定した呼称であって、現存する古代の文献には見えないということは、Wikiが出典としてあげているその発表やこのブログを初めとして、私があちこちで強調してきたことです。

 どう評価するかは人それぞれでかまいませんが、こうした重要な事実について石井の説として間違ったことを書かれるのは、研究者としての信用に関わります。まして、前回の記事で、聖徳太子の事績を疑うこれまでの研究の全面的な見直しを迫る諸発見を報告したばかりですので(こちら)、このような間違いは大迷惑です。

 Wikipedia は、自分自身に関する記事の執筆や訂正はできないはずですので、記事作成や訂正に関わっている人がおられたら、訂正をお願いします。

【付記】
2021年7月22日に「Wikipedia「聖徳太子」記事における石井説記述の誤り」という題名で公開し、その後で説明不足の点を修正しましたが、Wikipediaの記事を読み直したら、不適切な箇所が他にもあったため、大幅に書き換えて訂正版を再公開することにしました。私の研究者としての信用に関わると書きましたが、Wikipediaそのものの信用にも関わる誤りです。
【付記:2021年7月30日】
上記の記事で指摘した Wikipedia記事における誤りが修正されていました。訂正してくださった方に感謝します。まだ問題点は多いのですが、この太子記事については、全体の統一をはかる中心メンバーがおらず、複数の人たちがバラバラに追加訂正しているようですね。
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