聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

推古天皇の小墾田宮に厩戸皇太子の東宮があったか:西本昌弘『日本古代の王宮と儀礼』

2021年07月01日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』敏達5年条では、敏達天皇と皇后(推古天皇)の間に生まれた皇子・皇女たちについて記す際、「其一曰菟道貝鮹皇女。更名菟道磯津貝皇女也。是嫁於東宮聖徳」と述べています。長女は「東宮聖徳」、すなわち厩戸皇子に嫁いだとするのです。

 これは議論のある箇所であって(というか、聖徳太子に関わる文献・文物はすべて議論がありますが……)、『日本書紀』は皇太子については、単に「皇太子は~」「皇太子に~」などと記すだけであるのが普通であり、「〇〇皇太子」とか、「皇太子〇〇」などといった呼び方をすることは稀です。

 そもそも『日本書紀』で「東宮」という言葉が見えるのは、ここが初出です。「東宮〇〇」という呼び方は、以後、舒明天皇の崩御記事に「東宮開別皇子、年十六而誄之」とあり(天智天皇ですね)、天智紀では「東宮大皇弟」「東宮太皇帝」(天武天皇)という言葉がそれぞれ1度づつ登場するだけですが、これも議論のある部分です。

 それはともかく、敏達紀のこの記事を重視し、推古天皇の小墾田宮には厩戸皇子が執務する東宮があったと論じたのが、

西本昌弘『日本古代の王宮と儀礼』「第三篇第一章 七世紀の王宮と政務・儀礼」
(塙書房、2008年)

です。氏は、皇極紀の「或本」が「東宮南庭之権宮」への移御と述べ、小墾田宮の東宮の南の仮の宮に移ったとしているのは、小墾田宮には東宮が設置されていて南庭があったことを示すとし、これは東宮であった厩戸皇子の宮であったとして、以下のような造りになっていたと論じます。



 この本については書評がいくつも書かれており、どの書評も西本氏の研究の意義を認めつつ、この東宮論については疑問視しています。

 というのは、小墾田宮が中国風な儀礼をおこなうために建設された画期的な宮であったことは、どの研究者も認めているものの、『日本書紀』に見える宮中での外国使節関連の儀式などに関する記述は簡単であるため、宮がどんな構造になっていたかは諸説様々であり、推古天皇が居した正宮の隣に東宮が並んで設置されていたとする説は無いためです。

 たとえば、皇子宮研究で知られる仁藤敦史の書評(『歴史学研究』856号、2009年8月)では、『日本書紀』の上の記事に見える「東宮」は「東宮開別皇子」、つまり中大兄の皇子宮を指すとします。そして、その場所については不明であるものの、皇極紀では中大兄が嶋大臣、すなわち蘇我馬子の家に接して宮殿を建てたとあることから見て、嶋宮と見るのが妥当と論じています。

 どんなものでしょうか。私は、「東宮」や「皇太子」という言葉は用いられていなかったにせよ、厩戸皇子はそれに相当する役割を果たしていたと考えていますが、小墾田宮に正宮に匹敵するような東宮が並んで設置され、そこで厩戸皇子が政務をとっていたとは考えにくいです。

 所在地がほぼ特定されている小墾田宮の発掘がなされないと結論は出せませんので、発掘に期待しましょう。