聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「聖徳太子と法隆寺」展の図録が示す最新研究状況(1):東野治之「聖徳太子ー史実と信仰ー」

2021年07月16日 | 論文・研究書紹介
 奈良の国立博物館で開催されていた「聖徳太子と法隆寺」展が、東京に移り、13日から上野の東京国立博物館で開催されています。こうした場合の常として、カラー写真をふんだんに用いた学術的な図録が会場で販売されていますが、前の記事で書いたように、今回はとりわけ充実しており、大判で厚さ3センチ、重さ1.5キロです。

奈良国立博物館・東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編『聖徳太子1400年遠忌特別展記念特別展 聖徳太子と法隆寺』
(読売新聞社・NHK・NHKプロモーション、2021年4月)

巻頭は、東野治之「聖徳太子ー史実と信仰ー」(東野先生より、事前にコピーを送っていただきました。有り難うございます。以後、「氏」と記します)。

 後代の作とする説もあった金堂釈迦三尊像光背銘については、間近で明るい照明のもとで調査して知られたこととして、銘文が光背、さらには像と一体のものとして作成されているため、後代の追刻と見る必要はないと説いた部分を初めとして、東野氏がこれまで書いてきた内容をまとめたものですが、銘文にあるように「法皇」としてあがめられていたことは疑いないとするなど、これまでより明確に述べられていた点もかなりあり、新しい発見や見解が示されています。

 この「法皇」については、釈尊その人のような悟った存在ではなく、「のりのおおきみ」であって、説法に巧みな上位皇族といった程度の意であることは、これまで指摘してきました。やがて釈尊のようになる存在、天皇に準ずる存在として崇敬されていたことは事実でしょうが。

 次に『法華義疏』については、手にとって調査した結果、明らかになった点について詳しく述べています。こうした巻子本の場合、表紙は見るたびに広げたり巻いたりするため傷みやすく、長く保存しようとする場合は別の紙や布を表紙として補強するのが普通です。ところが、立派とも豪華とも言えない素朴な体裁の草稿である『法華義疏』は、本文に用いた紙をそのまま表紙とし、別な紙を貼り付けて補強してある由。

 題名部分だけ切り取ったように見えるのは、「補強した紙に窓が開けられ、下の標題がみえるように」してあったためだそうです。つまり、現存の『法華義疏』は、素朴な形の写本であるにもかかわらず元の形を保存しようとする姿勢が強く見られるのであって、これは太子が筆をとった自筆本だという認識があったためであり、実際、そう考えて良いというのが氏の判断です(自作自筆説は三田覚之さんも同様なので、真撰説という点は同じでも側近筆写説である私とは意見が分かれる点です)。

 次に、再建法隆寺については、五重塔の柱の年輪測定の結果、推古2年(594)伐採のヒノキが使われていることに注意します。この年は、推古天皇が太子と馬子に命じて三宝を興隆させた年ですんで、用材の備蓄がなされて不思議はないとするのです

 そして、若草伽藍が670年に焼失すると、上宮王家は滅亡しているうえ、若草伽藍大化3年(647)に施入された食封は天武天皇8年(679)に停止されているため、再建するのは困難だったとするのが通説ですが、氏はこれに反対します。

 法隆寺は多くの資産を持っていたうえ、焼失した若草伽藍と同じ大きさで再建する際、聖徳太子の熊凝精舎を受け継ぐとする伝承のある舒明天皇の寺、百済大寺の寺院配置が採用され、また再建途上であった法隆寺に天武天皇・持統天皇室から寄進がなされ、国家的な法会をおこなう寺の一つとされていたのは、朝廷が支援していた証拠であって、これは薬師寺の造営過程と類似すると説くのです。

 聖徳太子一家は全滅したと思われがちですが、これは伝説が誇大化したためであり、実際に滅んだのは太子の子供のうち、山背大兄の一家だけであって、再建法隆寺のために豪華な幡を寄進したのは、太子の娘である片岡女王であった可能性が高いとします。

 天武天皇も寄進していたとするのは、資財帳に鈴がついた繍帳を寄進したと記される「浄御原御宇天皇」は、天武朝の最後に定まった「飛鳥」の語を冠していないため、「飛鳥浄御原御宇天皇」と称される持統天皇でなく天武天皇と見るためです。

 そしてこの繍帳は、古い繍帳に基づいて高級織物によって新たに作成したものであって、現存の「天寿国繍帳」と想定するのです。これは、銘文に見える「天皇」の号は推古朝以後と見る氏の説とも関わる部分ですが、「天寿国繍帳」は推古朝作とする説も有力ですので、議論が分かれるところです。

 なお、法隆寺再建に少し遅れ、太子ゆかりの法輪寺、中宮寺、法起寺などが同じ様式・同系の瓦当笵によって建立されていくのは、斑鳩の地域ぐるみで「太子の聖蹟化が図られた」ものと見ます。

 上述した点は、720年の『日本書紀』完成よりかなり前のことですので、『日本書紀』の最終編纂段階になって、ぱっとしない皇族の厩戸王を聖人<聖徳太子>としてでっちあげたという虚構説など論外であることが分かります。

 このように、東野氏の研究の特徴は、太子関連の遺物を実際に間近で調査していること、また正倉院の文献などを丹念に調査し、単に「どの文献に出ている」などと説くのではなく、その写本の特徴、背景、欠落部分などに注意して考察していることでしょうか。初めから結論が決まっている目で活字印刷された諸資料だけ見ると、自説に都合の良い部分だけを拾い出しがちですが、東野氏はそうした点に注意するのです。

 今回の東野氏の解説では、「おそくとも亡くなった時点で、すでに神格化されていたおもむきのある太子」と記しています。この「おそくとも」という点が重要ですね。