聖徳太子の事績として賞賛されてきたのが、長らく分裂が続いてきた中国を統一した隋に「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや」という大胆な呼びかけをし、大国と対等の外交をおこなったという話でしょう。
国書については、『隋書』に記されているため信頼性は確かですが、倭国の誰が主体となって国書を送ったのか、文面の解釈はどうか、隋の煬帝の反応と、それを知った倭国側の反応はどうだったか、などについては諸説様々です。そのうち、対等外交を意図して書かれているのかという問題を再検討しているのが、
河上麻由子「日出ずる処の天子--遣隋使の真の目的は仏教だった」
(『歴史街道』385号、2020年4月)
です。『歴史街道』は、一般向けの歴史雑誌であって学術論文誌ではありません。ただ、河上氏のこの記事は、中国を中心としたアジア諸国の仏教外交を明らかにした画期的な『古代アジア世界の対外交渉と仏教』(山川出版社、2011年)や、それを踏まえて刊行された『古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで』(中公新書、2019年)に基づき、わかりやすく論じていますので、論文に準ずるものと見て良いでしょう。
(河上さん、某テレビ局の「聖徳太子特集」番組では、出演解説を押しつけてしまい、申し訳ありませんでした)
河上氏は、『宋書』に見える五世紀に宋に使者を派遣して冊封を受けた五人の倭国王の後、中国への使節派遣がなかったのは皇位をめぐる争いが続き、安定した政権でなかったからだとし、欽明天皇の時に「仏教公伝」がなされたのは、ようやく皇位が安定した時期であるとします。そして、「公伝」というものの、実際には倭国が百済に求めて「導入したものであった」と述べます。
氏は続いて、隋への国書のうち、「日出処天子」の前の部分に注意すべきだとします。そこには、「海西には菩薩天子[隋皇帝のこと]がいて、重ねて仏法を興隆させていると聞き及んでおります。そこで、[使者を]派遣して[菩薩天子に]見(まみ)えて拝礼させ、さらには沙門数十人を遣わして仏教を学ばせたい」と書いてあります。氏はこれこそが派遣の主な目的であったとします。
そして、この国書を見て煬帝が怒ったとされていますが、文献による限り、「不快」になったのであって、激怒したのではないと論じます。実際、倭国の沙門たちが追い返された記録はないため、彼らは留学生活を送り、日本に帰ってきたのでしょう。ところが、近代になると、煬帝が激怒するほどこの国書は国威を示したといった点が強調されていくようになったというのが、氏の見方です。
1920年発行の教科書に「支那の国主これをみていかり」とあり、この頃から煬帝激怒というイメージが広がっていくのであって、「対等」の語が教科書に見えるのは1934年の教科書、「国威をお示しになった」は1940年の教科書ですが、明治初期の教科書には遣隋使は「我が国第一の文明開化なり」とある由。時代によって、イメージが変わっているのです。
氏は、当時の倭国は様々な制約の中で「可能な限り情報を収集し、それを綿密に分析し、そしてアジアにおける日本の立ち位置を把握しながら、中国と交渉していたことがうかがえる」と述べ、それは「きわめてクールでスマート」な態度だったと評価しています。
氏は、あくまでも国家間の外交のあり方の研究に努めており、当時の倭国の権力体勢を明らかにすることが目的ではないため、国書を作成させた者については言及しません。ただ、上記のような指摘は、「国書はこれこれだから太子のはずがない」とか、「高句麗の慧慈のアドバイスによる太子の立案だ」といった議論をする前に、国書とその前後の文章を当時の国際的な状況の中で正しく読むことがまず第一であることを示しています。
なお、氏が説くように、国書を添えて留学僧たちを派遣したのは、隋のことを仏教を復興させ、菩薩天子が統治する強大国として尊重し、仏教を導入させてもらうためであって、対等の外交関係をめざすのが目的ではなかったでしょうが、東の「天子」が西の「天子」に「書を致す」という書き出しは、隋を兄貴分扱いしたものであって、当時の倭国の国力を考えると、中国皇帝に対する敬意が足りない書き方であることも事実ですね。私はこの点は倭国の認識不足であったと考えていますので、いずれ関連論文を紹介する際に触れることにします。
国書については、『隋書』に記されているため信頼性は確かですが、倭国の誰が主体となって国書を送ったのか、文面の解釈はどうか、隋の煬帝の反応と、それを知った倭国側の反応はどうだったか、などについては諸説様々です。そのうち、対等外交を意図して書かれているのかという問題を再検討しているのが、
河上麻由子「日出ずる処の天子--遣隋使の真の目的は仏教だった」
(『歴史街道』385号、2020年4月)
です。『歴史街道』は、一般向けの歴史雑誌であって学術論文誌ではありません。ただ、河上氏のこの記事は、中国を中心としたアジア諸国の仏教外交を明らかにした画期的な『古代アジア世界の対外交渉と仏教』(山川出版社、2011年)や、それを踏まえて刊行された『古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで』(中公新書、2019年)に基づき、わかりやすく論じていますので、論文に準ずるものと見て良いでしょう。
(河上さん、某テレビ局の「聖徳太子特集」番組では、出演解説を押しつけてしまい、申し訳ありませんでした)
河上氏は、『宋書』に見える五世紀に宋に使者を派遣して冊封を受けた五人の倭国王の後、中国への使節派遣がなかったのは皇位をめぐる争いが続き、安定した政権でなかったからだとし、欽明天皇の時に「仏教公伝」がなされたのは、ようやく皇位が安定した時期であるとします。そして、「公伝」というものの、実際には倭国が百済に求めて「導入したものであった」と述べます。
氏は続いて、隋への国書のうち、「日出処天子」の前の部分に注意すべきだとします。そこには、「海西には菩薩天子[隋皇帝のこと]がいて、重ねて仏法を興隆させていると聞き及んでおります。そこで、[使者を]派遣して[菩薩天子に]見(まみ)えて拝礼させ、さらには沙門数十人を遣わして仏教を学ばせたい」と書いてあります。氏はこれこそが派遣の主な目的であったとします。
そして、この国書を見て煬帝が怒ったとされていますが、文献による限り、「不快」になったのであって、激怒したのではないと論じます。実際、倭国の沙門たちが追い返された記録はないため、彼らは留学生活を送り、日本に帰ってきたのでしょう。ところが、近代になると、煬帝が激怒するほどこの国書は国威を示したといった点が強調されていくようになったというのが、氏の見方です。
1920年発行の教科書に「支那の国主これをみていかり」とあり、この頃から煬帝激怒というイメージが広がっていくのであって、「対等」の語が教科書に見えるのは1934年の教科書、「国威をお示しになった」は1940年の教科書ですが、明治初期の教科書には遣隋使は「我が国第一の文明開化なり」とある由。時代によって、イメージが変わっているのです。
氏は、当時の倭国は様々な制約の中で「可能な限り情報を収集し、それを綿密に分析し、そしてアジアにおける日本の立ち位置を把握しながら、中国と交渉していたことがうかがえる」と述べ、それは「きわめてクールでスマート」な態度だったと評価しています。
氏は、あくまでも国家間の外交のあり方の研究に努めており、当時の倭国の権力体勢を明らかにすることが目的ではないため、国書を作成させた者については言及しません。ただ、上記のような指摘は、「国書はこれこれだから太子のはずがない」とか、「高句麗の慧慈のアドバイスによる太子の立案だ」といった議論をする前に、国書とその前後の文章を当時の国際的な状況の中で正しく読むことがまず第一であることを示しています。
なお、氏が説くように、国書を添えて留学僧たちを派遣したのは、隋のことを仏教を復興させ、菩薩天子が統治する強大国として尊重し、仏教を導入させてもらうためであって、対等の外交関係をめざすのが目的ではなかったでしょうが、東の「天子」が西の「天子」に「書を致す」という書き出しは、隋を兄貴分扱いしたものであって、当時の倭国の国力を考えると、中国皇帝に対する敬意が足りない書き方であることも事実ですね。私はこの点は倭国の認識不足であったと考えていますので、いずれ関連論文を紹介する際に触れることにします。