聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

救世観音像は釈迦三尊像より古い?:三田覚之「美術から見える聖徳太子とその時代」

2021年07月08日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 先の記事では、法隆寺東院の救世観音像に関する五島勉氏のトンデモ説をとりあげ(こちら)、五島氏に影響を与えた梅原猛の有名な『隠された十字架』に触れました。この本でも、救世観音像については、現物を見ていないどころか写真すら見ずに妄想した珍説が説かれていましたね(こちら)。そこで、そうした扱いをされている気の毒な救世観音像に関する最新の美術史の研究成果を紹介しておきましょう。刊行されたばかりの、
 
三田覚之「解説:美術から見える聖徳太子とその時代」
(『芸術新潮』聖徳太子特集、2021年7月号)

です。

 この「解説」はインタビュー記事であって、三田氏は、7月13日から「聖徳太子と法隆寺」展が開催される東京国立博物館の主任研究員です。氏の研究については、このブログでは、これまでも「天寿国繍帳」などに関する優れた論文を紹介してきました(こちらこちら)。

 この「解説」では、三田氏は、真偽や成立年代について論争が多い法隆寺の仏教美術品について、「物を見ている美術史の人間」ならではの立場で説明をしています。仏像は、写真ではカラーでも実物とは印象がかなり違ってしまいますし、造像銘にしても「天寿国繍帳銘」にしても、実物を間近で見ず、印刷本で活字で読むだけ、しかも最初から疑いの目をもって眺めるだけだと、疑問に思われる点ばかり目についてしまうのです。

 三田氏は、若草伽藍で聖徳太子が拝した本尊は救世観音であったかもしれないと説きます。この像は、美術史では、重病となった太子の延命ないし浄土往生を祈願して建立された釈迦三尊像より後の作とされてきましたが、釈迦三尊像より日本最初の仏像である飛鳥寺の釈迦像に近く、小さな金銅仏を手本にして造られたことによる不自然な部分があるのに対し、釈迦三尊像はそうした点が解消されているため、救世観音像の方が先行する可能性があると見るのです。

 また、三田氏は、銘文では重病となった用明天皇自身の誓願に基づいて推古天皇と厩戸皇太子が建立したと銘文で記されているものの7世紀後半の作と推定されてきた薬師如来像については、釈迦三尊像以後の作ではあるものの、あまり時代の違いはないとします。そして、太子の長男であった山背大兄一家が滅亡されているため、その追善のために作成され、後になって寺の権威づけのために、用明天皇の発願だとする銘文が追刻されたのではないかと推測します。

 もしこれらの推定が正しいとなると、またいろいろ考え直さなければならない問題が出てきます。薬師像銘と同様、「天皇」の語が見えることを理由として後代の作とされることの多かった天寿国繍帳銘については、三田氏は既に推古朝のものと見て良いとする論文を発表していました。

 このように、様々な説が出されてそこで止まっているように見えた法隆寺関連の文物についても、現物の精密な調査によって見直しが始まっていることが注目されます。

 近いうちに発表しますが、私自身、「憲法十七条」、『勝鬘経』講経(『勝鬘経義疏』)、遣隋使の関係について、自分でも驚くような発見をしたばかりですので、聖徳太子・法隆寺の研究は、この1400年遠忌の年に大きく変わるかもしれません。