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遣隋使となった小野妹子およびその小野氏について検討:大橋信弥『小野妹子・毛人・毛野』

2021年07月25日 | 論文・研究書紹介
 倭国の外交を支えた立役者の一人である小野妹子を取り上げ、その一族について検討した研究書が出ています。

大橋信弥『小野妹子・毛人・毛野』
(ミネルヴァ書房、2017年)

です。構成は以下の通り。

 はじめに
 第一章 遣隋使小野妹子-「大徳小野妹子、近江国滋賀郡小野村に家せり」
 第二章 妹子以前の小野-「滋賀郡」の古墳時代
 第三章 小野氏と和邇氏の同族-和邇氏同祖系譜の形成
 第四章 和邇部臣から小野氏へ-「和邇部氏系図」をめぐって
 第五章 妹子の後継者-毛人と毛野
 第六章 古代貴族小野朝臣家の軌跡-奈良・平安時代の小野家の人々
 参考文献 
 おわりに
 小野氏略年譜
 人名・事項索引

以上です。

 第一章では、『隋書』『日本書紀』その他の文献を見直し、隋との外交における妹子の事績が検討されています。その特徴は、妹子以外の当事者であったであろう推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子については、いさぎよいと思えるほど切り捨てており、まったく触れていないことです。

 ただ、本間氏は、文献に即して考えるよう努め、想像はできるだけ控えたと述べているものの、妹子自身については推測している部分も少なくありません。その最大の例は、『隋書』には見えるものの、『日本書紀』には記されていない開皇20年(600)の遣隋使について、「妹子がこの時の使節であった可能性もあるとみている」と述べていることでしょうが、論証はされていません。

 本間氏は、倭国の政治の仕方を隋の文帝に「はなはだ義理無し」と呆れられたというこの時の遣隋使を、「礼」や「楽」を導入するためと見る説を批判します。この派遣がきっかけとなって倭国の政治・制度の改革が進んだのは事実であるものの、それは「結果論」であって、それを目標として派遣したのではないとするのです。

 派遣については、百済の要請による新羅征討を考慮してのものであって、本格的な外交の準備、情報収集のためと見ます。『日本書紀』に記していないのは、文帝に呆れられて訓戒されるという情けない結果となったうえ、新羅征討が中止に追い込まれたためではないかとするのです。

 そして、大業3年(607)の二度目の遣隋使に応え、翌年に来日した隋使がもたらした国書が、倭国を朝貢国扱いして「朝貢」とか「徳化」といった言葉を用いているにもかかわらず、『日本書紀』推古紀がそのまま載せているのは、それが推古朝時の認識だったためであって、対等の外交などは考えていなかったのではないかとしています。

 これは興味深い指摘ですね。これが事実なら、推古朝期に既にそうした立場で事柄をまとめて記録したものがあり、『日本書紀』の推古紀における外交記事はそれを潤色して日本の位置を高める形で編集し直したものの、そのまま残って使われている部分もあるということになります。

 氏は、「日出処天子」「日没処天子」「恙無きや」といった表現で問題となったこの時の倭国の国書については、外交に関する生半可な知識に基づいて作成したためではないかとしています。

 これについては、私が先日の学会発表で示したように、「仏教復興をやっている菩薩天子仲間」といった意識に基づいてのものであったことも考慮すべきですが(こちら)、戦前の教科書が説いていたような、対等ないし対等以上の気概を示したといった解釈が当たらないことは、このブログでも以前紹介した通りです(こちら)。

 小野妹子が遣隋使に選ばれたことについては、本間氏は、近江で育ったことが関係していると説きます。最初の遣唐使となった犬上御田鋤も、近江北東部の豪族であり、それ以前の継体朝の末年に百済と新羅の加耶国介入を阻止するため安羅加耶に派遣された近江臣毛野も、名が示すように近江育ちで滋賀の坂本あたりを本拠としていたことに注目するのです。

 つまり、近江の諸地方に進出して志賀漢人(あやひと)と総称される渡来人集団との関係を重視するのであって、このことは、第2回の遣隋学問僧の中に志賀漢人恵遠がいることによって立証されるとします。これは説得力がありますね。

 そこで、本間氏は、小野氏の来歴、および妹子の後継者と子孫の動向からそうした背景を検討していきます。着実な方法と言えるでしょう。 

 なお、第一章では厩戸皇子や馬子にほとんど触れていませんでしたが、妹子の後継者を論じた第五章では、「推古朝の政府は、推古の主導の下、次期の王位を約束されていた厩戸皇子と馬子の二人が動かしていたとみられる」と簡単に述べています。

 また、本間氏は、妹子は「大礼」の身分で隋に派遣されて役目を果たして以後は、『日本書紀』には登場しなくなるものの、天武朝に仕えて677年に亡くなった孫の毛人の金銅製の墓誌が京都の祟道神社の裏山の石室から出土しており、「大徳冠(律令制の正四位上に相当)妹子」としていてこれが妹子の最高位と思われるため、妹子は隋から帰国後は大夫(まえつきみ)の一員として政府の中枢で外交政策に関与し、晩年は故郷の近江にもどって小野村で余生を終えたと推定しています。

 となると、『日本書紀』では国書紛失問題が大きく取り上げられていますが、ここには記述の混乱か『日本書紀』編者の意図的な歪曲があるのであって、実際には、多少の問題はあったにせよ、妹子は使者の役割をきちんと果したとして評価されていたということになりますね。

 遣隋使の時は「大礼」であって冠位十二階の第五位ですから、没後に加階されたものだとしても、生前にかなり上位に任じられていないと、いきなり最上位の「大徳」にするのは無理でしょう。

 今回はほんの一部しか紹介できませんでしたが、本間氏のこの本は、推古朝について、さらには古代日本の外交を考えるうえでの基礎作業として有益な本です。
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