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津田左右吉が憲法十七条や三経義疏を疑った背景:大井健輔『津田左右吉、大日本帝国との対決』

2021年07月12日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 「憲法十七条」の聖徳太子撰述を疑った最初は、江戸の狩谷掖斎であって、近代になってこれを推し進めたのは津田左右吉であることは、良く知られています。

 津田は、『日本書紀』の神話や伝説には中国文献を切り貼りして作った部分や、後になって机上で創作した部分が多いことを指摘し、聖徳太子の事績も疑いました。その結果、このブログの「津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち」コーナーで紹介している熱狂的な聖徳太子礼賛者である国家主義者たちによって非難攻撃され、起訴までされて裁判となり、大学をやめざるをえなくなったのです。

 その津田のことを、津田裁判と戦後の主張を詳細に検討することによって、時世に流されない学者、「真の愛国者」として描いたのが、

大井健輔 『津田左右吉、大日本帝国との対決ー天皇の軍服を脱がせた男』
(勉誠出版、1915年)

です。大井氏は、ハノイ在住の若い日本思想史家であって、日本の大学や研究所などに属していないためか、この本の書評は書かれていないようです。

 私は、ベトナム仏教研究者でもあり、ベトナム独自の文字である字喃(チュノム)とダラニの音写文字の関係を指摘した論文がベトナム語に訳されたことがきっかけで、ハノイ大学に招かれて日本文化について集中講義したこともあるため、ハノイ在住を選んでその地から日本の思想について考えている大井氏には何となく親しみを感じます。

 国内で考える日本と外から見る日本は大きく違います。私が社会判断の手本として仰いできた中江丑吉は、北京の地から日本の動向を見つめ続けた人物でした(こちら)。

 さて、津田は上記のように記紀の神話を大胆に疑ったのですが、実際は明治人らしいナショナリストであって、皇室に対する強い敬愛の念を持っていました。ただ、日本の皇室は他の東西の多くの国と違い、武力で征服して王となったのではなく、また圧政をしいて民衆に恨まれ反乱を起こされることなどなく、親しまれ愛されてきたと考えていたのです。

 このため、天照大神の天壌無窮の詔勅を日本の国体の根本とし、東征をおこなったとされる神武天皇に始まる皇室の伝統を強調して、天皇のことを軍隊を率いる「大元帥陛下」に仕立て、軍国主義を推し進めようとする傾向に早くから反対していました。

 大井氏は、その点について、裁判時の津田の言葉、「虚偽なことに依つて日本の皇室の起源が語られて居ると云ふことは、これはただ知識の上において疑ひを抱かしめるのみならず、もつと深いところにおいて人心を不安ならしめるものと私は考えました」という言葉に注目しています。中国文献を切り貼りして机上で作られた「虚偽」の神話を疑うべからざるものとして押しつけるのは、日本人に日本人としての本当の自信を与えることにならないというのです。

 さらに津田は、日本の文化は独自であって、インドや中国とは文化がまったく異なるため、東洋文化などとひとくくりにするのは誤りだと説いた『支那思想と日本』を、昭和13年(1938)に一般の人が手にしやすい岩波新書の形で刊行しました。
 
 この時期は、精神的・道徳的な文化を共有する東洋諸国を、東洋文化の精華を誇る大日本帝国が領導して西洋列強諸国と対決するのだと称して進められていた日中戦争のさなかの時期にほかなりません。まさに、国策を批判する勇気ある著作です。こうした姿勢が聖徳太子を尊崇する狂信的な国家主義者たちの怒りを買ったのです。

 津田は、このように大胆な時局批判をおこない、裁判においても自説をまったく曲げませんでした。大井氏は、陪席判事として裁判にあたった山下判事が、戦後になって津田について述べた言葉を紹介しています。

立派な人であつた。温厚篤学というのが、同氏の全体から受ける印象であるが、しかしまた、真理の探究のための勇気と気概にも燃えており、どうしてこうした人が刑事被告人として、われらの前に立たされたのかと、慨嘆したことであつた。

 津田は、皇室に対する不敬罪で告発されたものの、そうした意図はないが結果的に皇室の尊厳をそこなうことになったということで、出版法違反の罪に問われました。

 その結果、非公開でおこなわれたこの裁判は、こんこんと語る津田の講義のような形で長らく続いたうえ、昭和19年(1944)に「時効完成により免訴」ということになりました。要するに、裁判所側は結論を出さずに寝かしておき、うやむやのうちに終わらせたのです。

 ただ、津田は記紀の神話・伝承を政治的な創作と見て史実ではないと主張し続けましたが、大井氏が注意しているように、そうして創作された内容を「物語」とみなし、「物語」はそれを作り出した人々の心情・特性を反映しているとして、その価値を認めていました。中国の単純な模倣や明らかに政治的な作為は好まなかったものの、民衆の生活・心情が反映したような「物語」については重視していたのです。

 また、天皇制を擁護したとはいえ、津田は「愛国、愛国」と騒ぎたてて実際には日本を危うくするような狂信的な天皇崇拝者を嫌っていました。津田は大正15年の段階で、「我々は皇室の仁政のおかげによつて、即ちおなさけによつて生活してゐるとは思はぬ。我々は我々自身で、我々の自分の力、我々の独立の意志で生活してゐる。またしようとしている」と言い切っています。

 皇室については、無闇にあがめたてるのではなく、あくまでも国民団結の中心点であったというところに意義を見いだしていたのです。津田の皇室観は史実とは異なる点もありますが、皇室崇拝を進めようとする政府とそれに乗ってあおっていた人たちへの反発として評価する必要があるでしょう。

 ところが、戦後、マルクス主義が盛んになって天皇制否定の動きが出てくると、津田は、学会の指導的な立場についてもらおうとした左派の知識人たちの期待を裏切り、意外にも天皇制擁護を強く打ち出し、左派を攻撃し始めます。

 その結果、『古事記』『日本書紀』を批判的に検討する研究方法は史学に大きな影響を与えたものの、左派からは厳しく批判されるようになったのです。津田の著作から大きな影響を受けた家永三郎なども、戦後は津田の天皇制擁護の主張を思想的後退と見て批判的に検討した本を出しています。実際、津田自身も意見を多少変えている場合がありますが。

 その津田については、私は傑出した東洋学者として早くから尊敬してきました。そもそも私が学んだのは、津田が創設した早稲田大学の東洋哲学研究室であり、津田だけを手本としてきたわけではありませんが、津田を含め、幸田露伴、南方熊楠、内藤湖南のような東洋の文学・歴史に通じた学者になりたいと願ってきたのです。

 平安文学研究をしていた関係で、最初に読んだのは『文学に現はれたる我が国民思想の研究』、大学院の東洋哲学専攻に入ってからきちんと読んだのは必読書とみなされていた『道家の思想とその開展』であって、記紀研究を読んだのは博士課程になってからです。

 ただ、東洋全般、それも古代から近代にまでわたる津田の学問の幅広さに感嘆し、記紀神話を大胆に批判する論調に共感しつつも、国民文学論・皇室論・アジア認識その他個別の主張については反対することが多く、それを口にしていたため、「津田先生、津田先生」と持ち上げるばかりであった研究室の先輩たちの顰蹙を買っていました。

 しかし、私は津田を尊敬するのであれば、通説を大胆に疑った津田の学問姿勢をこそ学んで津田説そのものを批判すべきだと考え、論文でも「憲法十七条」と三経義疏は推古朝の作である可能性が高いと論じて津田説に反対してきたのです。

 大井氏は、近代日本思想が専門であるため、津田が訴えられるきっかけの一つであった聖徳太子事績批判などについてはほとんど触れていませんが、津田が「憲法十七条」や三経義疏を疑ったのも、上で述べてきたような背景によるものです。聖徳太子については、様々な伝説を否定して太子の真の姿を描きだすべきだというのが津田の立場でした。単純な「いなかった説」ではありません。

 その「憲法十七条」と『勝鬘経』講経(『勝鬘経義疏』他の三経義疏)、遣隋使について、私は最近、太子の仕事であることの確実な証拠を発見して津田説をひっくり返すに至りました(『駒澤大学仏教学部論集』第52号に掲載予定)。「憲法十七条」については、校注本と一般向けの解説本別々の出版社から出すことになっています。ただ、近代史学を推進した津田の功績は不滅であって、今回批判したのは津田の仕事の一部にすぎません。

 「憲法十七条」や三経義疏、さらには隋との外交も聖徳太子の仕事とみなして良いとする今回の私の発見が広く知られるようになると、聖徳太子礼賛が盛んとなり、津田が懸念していたような事態がまた起きる可能性があります。

 記紀の神話を復活させ、聖徳太子を戦前のような形で持ちあげて国家主義に利用しようとする傾向には、神話に基づく国家主義・軍国主義を日本を破滅させるものとして批判した津田と同様に、粘り強く警告してゆきたいと考えています。

 津田については、同じ勉誠出版から、新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』ー津田左右吉を読みなおす』(2011年)も出されていて有益ですが、こちらと違って大井氏のこの本は書評が書かれていないのが残念です。なお、大井健輔はペンネームであって、論文については本名の「児玉友春」で書いており、CiNiiなどで検索することができます。
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