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「憲法十七条」は法家の書である『管子』に基づく:山下洋平「七世紀の日本における中国思想の受容と『管子』」

2020年11月01日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」については、CiNiiなどで検索すると、偏った視点で褒めまくるばかりで内容がない論文(というより、太子礼賛の形で自分の思いを連ねる文章)が多数ヒットします。そうした中で、文献に基づいてしっかりした検討を加えているのが、

山下洋平「七世紀の日本における中国思想の受容と『管子』-憲法十七条・時令思想・鍾匱の例を中心に-」
(『九州史学』172号、2016年3月)

です。山下氏は古代東アジアにおける儒教思想、特に礼のあり方などについて研究している若手研究者です。

 『論語』の文句を記した七・八世紀の木簡がいくつも出土していることが示すように、古代の日本では儒教の受容が進みつつありました。『論語』や『礼記』が説く「和」重視を冒頭に掲げる「憲法十七条」についても、儒教の影響が指摘されています。ただ、「憲法十七条」については、儒教と仏教以外に、法家や道家などの思想の影響も見られることが早くから指摘されてきました。

 その「憲法十七条」については諸説百出であって、真偽論争がいまだに続いています(2007年までの論文の主なもののリストは、こちら)。

 山下氏は、それらの諸説を検討したうえで、「厩戸王、慧慈や覚哿(五経博士か)といった渡来系知識人のもと、一連の施政方針および訓戒書が作成され、後世、その内容を少なからず伝えた原史料が存在し、『書紀』編者はその原史料の観点や論旨を多分に尊重しつつ、文書の体裁整理や潤色を行ったものと推測する」と述べ、「憲法十七条」については、「推古朝前期における中国思想の受容程度を一定程度伝えたものと仮定」します(4頁下)。その前提で、雑家的な性格をもった法家の書である『管子』の影響を指摘してゆくのです。

 諸説を紹介する際、私の論文「「憲法十七条」が想定している争乱」(こちら)を引用して評価してくださっているのは有り難いのですが、これは古いものですので、『孝経』の影響を強調した論文も参照してくださると有り難かったところです。もっとも、これは韓国の雑誌で発表したものなので、目につかなかったでしょう(PDFは、こちら)。
 
 山下氏は、「憲法十七条」に対する『管子』や『韓非子』など法家の影響が指摘されている箇所を再検討して私見を加え、また、これまで見過ごされてきた『管子』の影響を指摘していきます。

 まず、第一条冒頭が強調する上下の「和」については、『論語』や『礼記』など儒教の書に基づくとされ、仏教の「和合」の影響も指摘されてきました。しかし、山下氏は、『管子』「君臣下篇」が君臣の上下の区分を強調するとともに、上の者が寛大であって下の者が従って恨まないようにすれば、「上下和同して礼儀有り」(以下、訓読はブログ主の私意)という状態になると説いている箇所にも注目すべきだとします。

 第三条が「君は天であり、臣下は地である」として区分を強調している箇所については、『管子』「明法解」の影響が指摘されていますが、山下氏はむしろ『管子』「任法篇」が「それ君臣は天地の位なり」とし、「上令せば下応じ、主行わば臣従う」(訓読はブログ作者の私意)などと論じている箇所を主に参照したと見ます。

 「憲法十七条」の特徴とされる賢人登用の主張についても、『管子』が盛んに説くところだとして、その例をあげています。

 こうした指摘をいくつも重ねた後、氏は、「憲法十七条」の構想段階において「基盤的役割を果たした資料は、やはり儒・道・法を含む現実的実際的な政治思想の書である『管子』であったと考える」(14頁)と結論づけます。

 そして、朝鮮三国における中国思想の受容の様子について述べ、儒教重視の高句麗・百済と違い、『管子』のような諸子百家も学んでいたのは新羅であったとして、古代日本は新羅のそうした学風の影響を受けた可能性を指摘します。また『日本書紀』奏上の2年後となる養老6年には、儒教を尊重する詔が発せされていることに注意し、この頃から儒教優位が進んで『管子』などへの関心が薄れていったのではないかと推測します。

 「憲法十七条」に対する『管子』の影響を論じた箇所には、やや強引と思われるものもありますが、おおむね適正な指摘と思われるものが多く、現実的な方針として『管子』が重視され、仏教や儒教その他も併用されたとする氏の見方は「憲法十七条」に対する新しい見方として高く評価できるでしょう。
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