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聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子が亡くなった飽波葦牆宮の旧跡に建てられた飽波宮:平田政彦「称徳朝飽波宮の所在地に関する考察」

2021年05月14日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、伊予の温泉から帰ってきた舒明天皇が仮住まいした厩坂宮は、斑鳩宮に移る前に厩戸皇子が住み、その名の由来となった厩坂の宮を改修したものだろうとする古市晃氏の説を取り上げました(こちら)。

 この説については文献の扱いについて批判が多かったのですが、厩戸皇子が晩年に住んでいた宮について、発掘による考古学的な調査に基づいて論じた研究があります。先に紹介した聖徳太子シンポジウム(こちら)に参加していた平田政彦氏の論文です。

 26年も前のものですが、以後は継続しておこなわれている発掘調査に関する簡単な報告しか発表されておらず、基本的な考え方は変化していないようですので、紹介しておきます。

平田政彦「称徳朝飽波宮の所在地に関する考察ー斑鳩町上宮遺跡の発掘調査からー」
(『歴史研究』33号、1995年)

です。

 上宮(かみや)遺跡は、法隆寺の東南方向に約1.2キロ行ったあたりの遺跡で、古墳時代から江戸時代に至る遺物が出ているところです。平田氏は、「カミヤ」は、おそらく「カミツミヤ」がつづまったものであり、かつての地名も「大字法隆寺 字上宮」となっていることが示すように、聖徳太子と関係が深い土地であったとします。平田論文がかかげている下の図を見ると、そのことがよくわかります。



 この図の斜め左上が法隆寺です。駒塚古墳は、先のシンポジウムで平田氏が語っていた太子の愛馬を埋葬したという伝承がある古墳、その右下が、その愛馬を世話して太子にお仕えしたという伝承が後に生まれた調子丸の墓と伝えられる調子丸古墳です。

 このあたりは、中世になって太子の神格化の動きの中で強調されるようになった伝承の世界ですが、問題は図のうち、上宮遺跡とその左下に位置する成福寺であって、ここは太子が子を八人も生んだ愛妃の膳菩岐岐美郎女とともに過ごし、ともに病気となって1日違いで亡くなった「飽波葦牆宮」(『大安寺伽藍縁起』)の旧跡に建てられたとする伝承を持つ寺です。

 平田氏は、称徳天皇が飽波宮に行幸した際、法隆寺のたちに賞を与えていることから見て、上宮遺跡は称徳天皇の行宮であった飽波宮だと推測し、その発掘調査の結果を報告したのち、成福寺の飽波葦牆宮の伝承について検討していきます。

 まず、この土地で発見された柱穴は、奈良時代の上宮遺跡の遺構と違い、北から西に20度触れており、これは斑鳩宮や斑鳩寺と同じであって、古い土器も発掘されており、しかも焼けた跡も発見されていると述べます。

 そこで平田氏は、太子と妃とその子たちが住んでいた飽波葦牆宮は、太子と妃が亡くなった後、子の長谷王によって管理がなされていたと見ます。そして、蘇我氏の一員でありながら山背大兄の天皇即位を支持して蘇我蝦夷と対立した境部摩理勢は、飛鳥を離れて斑鳩の「泊瀬王宮」に移り住んだものの、泊瀬王が亡くなると蝦夷の攻撃を受けて自殺したと『日本書紀』にあるのは、この長谷王の飽波葦牆宮だったと推測するのです。

 また、蘇我入鹿の軍勢が斑鳩を襲って斑鳩宮が焼失した際、その玄関となる飽波葦牆宮も燃やされたのであって、それがこの焼け跡だろうと氏は説きます。

 氏は、以上については文字資料が出ていないため、「考古学サイドからは断定できず、推定の域を出ない」(26頁)としつつも、「近い将来必ず明らかになるものと信じ」ると述べて終わってます。これは発掘調査によって飛鳥時代から奈良時代の遺構・遺品を多数目にしたうえでの発言ですので重みがあります。

【追記】
平田氏の名を誤記してましたので、訂正しました。