聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「法王」は地位でなく、『日本書紀』では日本仏法の最初は蘇我馬子:兼子恵順「初期太子観の形態について」

2021年05月25日 | 論文・研究書紹介
 このブログは、「聖徳太子研究の最前線」と名乗っているため、ここ数年から10年以内くらいの最新の研究成果を主に紹介しています。ただ、最近の論文やネット記事を見ていると、ずっと前に、時には数十年も前に指摘されていることを知らずに同じ誤りを繰り返し述べている例が目につきます。

 花山信勝・望月一憲・渡部孝順・金治勇などのように、聖徳太子を崇拝して生涯をその研究に捧げるようなタイプの学者がいなくなった現在、聖徳太子や法隆寺に関わる史学・仏教学・美術史・建築史・考古学などの諸分野の論文を最も幅広く読んでいるのは、熱烈礼賛派でも完全否定志向派でもなく、距離を置いたうえで客観的に検討しようとしている私でないかと思います。このブログでも200以上の論文や本を紹介してきました。

 ただ、その私にしても、太子研究だけを専門としているわけではなく、アジア諸国の仏教と文化を中心としてあれこれやっており(こちら)、雑多なことに首をつっこんでいるからこそ聖徳太子関連で気づく場合もしばしばあるものの、様々な分野にわたる太子関連研究の状況を完璧に把握するなどというのは、まったく不可能です。

 読んでいるのは数多い論文や本の一部にすぎないうえ、読んだ場合でも内容を完全に忘れてしまった論文や、うろ覚えしてはいるもののコピーが紛失していて見当たらない論文などもたくさんあります。そうした中には、重要な事実を指摘していたり、興味深い見方を提示していたりするものがかなりあるのです。

 今回はそうした一例として、先の記事で取り上げたように(こちら)、古市晃氏が没後の呼称と決めつけていた仏教系の名号に関する論文を紹介します。なんと、40年以上前に発表された、

兼子恵順「初期太子観の形態についてー「法皇」「法王」に関する田村圓澄氏説の検討ー」
(『仏教史研究』14号、1980年11月)

です。

 兼子氏は、「厩戸王」と「聖徳太子」の語を使い分け、聖徳太子研究に大きな影響を与えた田村圓澄氏が、「法皇」や「法王」などは太子没後しばらくして神格化が進んでからの呼称であって、太子を「日本の釈迦」とみなしたものだと説いていることに異論を唱えています。

 田村氏のそうした見方は、親鸞の和讃の「和国の教主、聖徳皇」などに引きずられたものですね。「法王」は確かに釈尊を意味することが多いのですが、アショカ王を描いた『阿育王経』では、多くの塔を建立して「仏法を守護」した阿育王のことを、世間の人が「法王」と称したと記されています。そうした用法もかなりあると兼子氏は指摘するのです。

 そして、『日本書紀』にしても『法王帝説』にしても、太子を日本の釈迦、日本仏教の開祖のような存在として描いておらず、推古天皇のもとで馬子とともに仏法興隆に努めた存在として位置づけているとします。そして、『日本書紀』の敏達13年条では、「馬子宿爾、亦た石川の宅において、仏殿を修治す。仏法の初め、これより作(おこ)る」と記しており、太子ではなく馬子を日本仏法の最初と明記していることに注意をうながします。

 この記述などは、馬子を賞賛した伝記が既に書かれていてそれを利用したかと思われる箇所ですね。「横暴な豪族馬子 対 皇室の権威を守る聖徳太子」といった戦前風な図式では説明がつかないところです。

 このブログでも再々書いてきたように、六世紀後半から七世紀の初めにかけては蘇我氏の時代であって、蘇我稲目の血を引いていない天皇(大王)は出ていないうえ、聖徳太子は父方も母方も蘇我氏の血を引いている初めての天皇候補者でした。しかも、蘇我馬子の娘を妃としており、馬子から見れば太子は義理の息子です。

 兼子氏は、「法皇」については「仏教界における天皇」と見る説があることに触れたうえで、「四天皇寺」といった表記が示すように、「王」と「皇」は通用する場合が多いとします。

 ただ、釈迦三尊像銘では、太子を「法皇」としつつその妻子を「王后」「王子」と呼んでいるため、特別な用法である可能性も検討する余地はあると認めています。なお、兼子氏は、釈迦三尊像銘については、金堂再建時に国家の支援を得るためと見ていますので、成立は天武朝から持統朝頃と考えています。

 さらに氏は、太子の病気に際して誓願された法隆寺金堂の釈迦三尊像銘では、釈迦の像を造ることによって太子の病気が治ることを願っており、太子は釈迦のような威力ある存在とされていないことに注意します。

 釈迦三尊像銘の成立時期以外は、いずれも穏当な見解ですね。三尊像銘では「上宮法皇」とありますが、そのすぐ後に「尺寸王身」とあって「王」の字を用いていますし、「法主王」については、先のブログ記事で、中国では講経に巧みで担当する人、責任者を「法主」と称する事例を紹介し、そうした「法主」である「王(みこ)」という意味であることを論じました(こちら)。「法王」も同じような意味でしょう。

 『日本書紀』敏達紀が「東宮聖徳」と称しているうち、「東宮(皇太子)」は地位ですが、「法王」「法皇」「法主王」などは地位を示す語でなく尊んだ呼び方であることは、用明紀が「廐戸皇子。更名豊耳聡聖徳。或名豊聡耳法大王。或云法主王」と記し、異称として扱っていることからも明らかです。「法大王」の「大王」にしても、当時は上位の皇族を指して呼ぶ場合がしばしば見られます。

 また、中国の史書や漢訳経典を見れば、皇帝のことを尊重して「聖皇」などと呼んでいる例を良く見かけますが、これは聖人である皇帝、聖人のような素晴らしい皇帝という意味での尊敬した呼び方であって、「聖皇」という地位についていたわけではありません。

 「法皇」「法王」「法主王」などの称号を、ローマ法皇の「法皇」のような特別な地位とみなしたうえで、太子はそうした地位にあったとか、そんな地位に就任したはずがないからこうした呼称は後代に生まれたものだなどと論じるのは、そろそろやめにしてほしいですね。

 なお、中国の北朝では「皇帝=如来」とされた時期もありましたし、南朝では梁の武帝以来、「菩薩天子」の伝統が続きました。南アジアや東南アジアでは、deva-rāja(神王)、すなわち、ヒンドゥー教の神と同一視された国王 はたくさん出ていますし、カンボジアやベトナム中部のチャンパのように仏教も広まっていた地域では、密教系の観音を崇拝し、そうした観音と同一視された国王も出ています。国王ないしその後継者が生前からそうした見方をされたり、そのような表現でたたえられても不思議はありません。

 太子がこの先、何度か生まれ代わったのちに釈迦のような仏となる存在と見なしている法隆寺釈迦三尊像銘の場合、「法皇」は、説法に巧みなことで有名な「天皇に準ずる」存在のことであり、湯岡碑文の「我法王大王」は、「我が」で親しみを示し、『維摩経』が説く奇跡を起こす「法王(釈尊)」のような存在と誇張して称えている(こちら)、というあたりが実際のところでしょう。 

【追記:2021年5月26日】
釈迦三尊像銘が「法皇」「王身」と記しているのは、「法皇」が「ほうこう」でなく「ほうおう」と呉音で訓まれていたためでしょう。律令制で定められた「皇后」「皇太子」などは「こうごう」「こうたいし」であって「皇」は漢音の「こう」で訓まれているため、「てんのう(おう)」と呉音で訓まれる「天皇」の語は律令制以前に成立していたとする森田悌氏の『推古朝と聖徳太子』 (岩田書院、二〇〇五年)などの指摘を考慮すべきですね。