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「厩戸」は太子を養育した渡来系氏族の名か:仁藤敦史「「聖徳太子」の名号について」

2021年02月10日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事は、何かと問題の多い「厩戸王」という呼称がらみでしたので、今回は聖徳太子の名号に関する最近の論文を紹介しましょう。

仁藤敦史「「聖徳太子」の名号について」
(新川登亀男編『日本古代史の方法と意義』、勉誠出版、2018年)

です。斑鳩宮を初めとする皇子宮や女帝などの研究で知られる仁藤氏は、早くから太子虚構説に反対してきた一人であり、この論文は、聖徳太子の名号に関する最も精細な最新の文献研究となっています。

 氏はまず、教科書で用いられるようになった「厩戸王」という呼称は、家永三郎が古書には見えないことを指摘し、石井公成が小倉豊文の推測した名称であることを示したとしたうえで、「ただし、『古事記』などに見える某王などの名称例からすれば、厩戸王であった蓋然性は高い」(479頁、注4)と述べます。高森氏と違い、私の指摘であることを明記してくださっており、有り難いですね。

 「厩戸王」であった可能性は高いとするのは、以後展開される氏の考察から導かれる結論に基づきます。氏は、聖徳太子という呼称については、『令集解』が、「諡」というのは、ある説によれば、上宮太子を聖徳王と称したような類だ、と述べている有名な箇所に注意し、「反対に言えば、「上宮」が生前に用いられていた名号の可能性を示唆する」(464頁)と述べます。これは賛成ですね。私も公式度の高い呼称は「上宮王」だったと考えています。

 そして、氏は「聖徳」の語の用例を『日本書紀』と他の諸文献に探り、死後の称号として用いられたことは確かであり、「遅くとも『日本書紀』の成立段階には「聖徳」号は用いられていたことが確認される」(466頁)とします。つまり、『日本書紀』の編者が見た資料には「聖徳」と呼んでいたものが既にあった、ということです。

 そして、『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命」と称しており、この段階で既に「上宮・厩戸・豊聡耳」の三要素が揃っていた以上、虚構説のように『日本書紀』の(最終)編纂段階で潤色する前から、少なくともこれらの名号は存在していたのであって、これらの名号のいわれを説明するために伝承的な話が作られていったという道筋を確認します。

 氏は具体例をあげておられませんが、この説によれば、「厩戸」という名であったので、そのいわれを説明する厩戸誕生説話が語られ、「豊聡耳」という名であったため、耳の良さに関する伝承が膨らんでいった可能性があるということになります。これは重要な観点ですね。

 次に「上宮」については、『日本書紀』の記述から見て、斑鳩宮とは別であったとし、太子の死後もその一族について「上宮」の語が用いられているため、生前からの特殊な称号であったとします。

 「厩戸」については、諸説を検討したのち、飛鳥戸氏など、「べ」とも読まれた「戸」の字を含む十七氏族の多くが渡来系であるとする岸俊男氏の指摘に基づき、用明天皇と関わる「橘戸」、道祖王に関わる「道祖戸」、他戸親王と関わる「他戸」などの存在に注意します。よく知られているように、当時の王族の名は養育した氏族の名に基づくものが多いためです。

 そして、古代日本の馬の文化は百済経由であり、「馬官」の「厩戸」で誕生したとされる聖徳太子当時は、馬の養育に携わる「馬司」が存在したこと、斑鳩近辺には馬に関わる地名が見られることなどから、史料には見えていないものの、馬に関わる渡来系氏族、それも飼育担当の馬飼部とは異なる交通関連の役割を担当した「厩戸(馬屋戸)」氏に養育されたとする推定も可能だろうとします(蘇我氏・聖徳太子と馬の関係については、前にこのブログでもとりあげました。こちら)。

 上記の事柄について詳細な検討を重ねた後で、氏は「おわりに」で、

近年の伝承と史実を断絶させる議論とは異なり、できるだけ同時代的において矛盾の少ない名号の起源を探求してみたが、推測に及ぶ部分が多く、ご批判をいただければ幸甚である。(478頁)

と述べてしめくくっています。空想と断定を重ねておりながら「学問的な反論は皆無」だとして批判を一切認めない虚構論者と違い、綿密な文献の検討をおこなってきた後での言葉だけに、謙虚で誠実な姿勢が好ましく思われます。

 ただ、この推定の問題点は、やはり、文献に「厩戸」という氏族が見えないことですね。天皇候補となる立場の皇子の養育を担当するとなれば、それなりに有力な氏族であったはずです。また、他戸親王にしても道祖王にしても8世紀の人物であって、『日本書紀』では「~戸皇子」という名の皇子は他にいません。『古事記』では、若日下部王のように「~部王」と称する例は数例あり、聖徳太子の母も「間人穴太部王」と呼ばれていますが、「~戸王」と表記する例は見えません。法隆寺系の早い資料には、「厩戸皇子」やこれに近い呼び方をした例が見えないことも気になります。

 これに対して「厩戸皇子」という呼称は、『日本書紀』では守屋合戦のところで、つまり四天王寺建立説話において強調して用いられていることを見ると、四天王寺系統の厩戸誕生伝説とセットになった呼称であるようにも思われてきます。『日本書紀』に見える厩戸誕生伝承は、仏伝に基づいて話をふくらませてあることについては、私の本やこのブログ(こちら)で説いた通りです。

 つまり、「厩戸皇子」という呼び方は、厩戸誕生伝承と結びついて四天王寺などで呼ばれるようになった名であって、それが『日本書紀』に取り入れられた可能性もあるように思われるのです。「馬耳東風」という言葉もありますが、「六月晦大祓祝詞」が良く聞く動物の例として馬に言及していることが示すように、かつての日本では、馬は耳聡い動物の代表とされていたことも見逃せません。「厩戸」と「豊聡耳」は容易に連合して、名前の由来説話をふくらましうるのです。いかがでしょう。
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