聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子が出会った片岡山の飢人が禅宗の達摩とされた理由:伊吹敦「聖徳太子慧思後身説の変化とその意味」

2021年05月17日 | 聖徳太子信仰の歴史
 前回の記事では、「片岡山の飢人伝承」に関するシンポジウム(こちら)に参加していた平田政彦氏の論文を紹介しました。太子が片岡山で出会ったという飢人については、実は禅宗の開祖である菩提達摩(Bodhidharma)だという説が後に生まれますので、その点に関する最近の論文を紹介しておきましょう。

 なお、その飢人の墓を寺にしたとされる達磨寺の名が示すように、一般には「達磨」という表記が広く使われていますが、この表記は、中国で唐代後半あたりから見えるようになり、伝説化が進んだ宋代に広まったものであって、中国でも日本でも、早い文献では「達摩」と記しています。

 このため、禅宗史研究では、実在人物ないし禅宗史の初期の伝承に見えるインド僧については「達摩」と記し、唐代以後になって伝説化された禅宗開祖は「達磨」と表記する習慣になっています。 

 さて、聖徳太子に関する伝説のうち、初期で重要なのは、天台宗の開祖とされる天台智顗の師、南岳慧思(515-577)が転生して日本の王家に生まれたのが太子だとする慧思後身説です。この伝説については、多くの論文が書かれていますが、研究をさらに深め、「飢人=達摩」伝説の成立過程の解明に取り組んだのが、

伊吹敦「聖徳太子慧思後身説の変化とその意味」
(『東洋学研究』52号、2015年)

です。私の大学の後輩である伊吹さんは、若い頃は朝から晩まで敦煌写本中の禅宗文献を眺めており、写本の破片を見ると、某国の某図書館が所蔵する某破片がこの破片に接続する片割れだと分かるといった、すさまじい敦煌写本オタクでした。現在は、世界でも有名な禅宗史研究者です。

 その伊吹さんが、この数年、聖徳太子研究についてもかなりの数の論文を書くようになっています。これは、片岡山で太子が出会った飢人は達摩だとする伝説の成立時期が、日本で禅宗のことが知られるようになった時期はいつかという問題と関わるからです。

 上記の論文によれば、この伝説の展開順序は以下の通りです。

 鑑真(688-763)は受戒師として日本に招かれ、754年に弟子の思託ら(生没年不明)とともに来日したものの、彼らは戒律以上に天台宗の布教を目的としており、思託は鑑真没後に、慧思が六代にわたって転生したという伝承を利用し、七度めには日本の王家に生まれたのであって、それが聖徳太子だとする説を広めた。

 唐から渡来した北宗禅の僧である道璿に師事していた大安寺の敬明は、『慧思七代記』を編集する際、慧思後身説を採用しつつも、天台宗に対する禅宗の優位を説くため、慧思を超える聖者として菩提達摩を登場させ、慧思が日本に転生したのは達摩の指示によるものだったと主張した。

 『慧思七代記』に接した鑑真門下は、その内容を否定するため、『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」では六代転生説を改めて三代説とし、それを示す碑文が中国にあると主張した。

 しかし、『慧思七代記』は魅力的であったため、明一の『異本上宮太子伝』その他に取り込まれて広まり、『異本上宮太子伝』は、最澄にも影響を与えた。

 平安時代に歴史の考察が進むと、慧思は聖徳太子が生まれた後になって亡くなっていることが明らかになり、太子の前世を、慧思以外の南岳の僧に求めるようになった。

 ただ、天台教義を柱としつつ、北宗禅の系譜も受け継いでいて、禅や大乗戒や密教なども含む総合的な天台教学を構築しようとしていた最澄が固執したのは、達摩が登場する『慧思七代記』だった。

 こうした状況のため、慧思後身説は次第に消えていった。

以上です。

 伊吹さんはこの論文では触れていませんが、現存資料で見る限り、最も早い時期に「聖徳太子」の語を用いたのは、思託と親しくしていて思託が提供した資料に基づいて鑑真の伝記を書いた淡海三船(722-785)であり、三船は慧思後身説を強調しつつ「聖徳太子」の語を用いていたことは、私が昨年出た講演録で詳しく説明しておきました(こちら)。つまり、聖徳太子という呼称は、太子の慧思後身説と結びついていたのです。

 還俗僧であって大学頭となり、奈良時代中期から後期にかけて文人の筆頭と称された三船は、歴代の天皇の漢字諡號を定めたとされる人物ですので、太子研究にとってはきわめて重要な存在です。

 三船が聖徳太子を尊崇したのは、太子が三船と同様、在俗の居士だったからというのも一因ですね。三船は、還俗して居士となって活躍した新羅の元暁(617 - 686)を敬愛しており、その孫が外交使節として日本に来た際は、大歓迎しており、その孫は帰国すると三船の礼賛の言葉を刻んだ元暁の碑を建てています。

 この元暁の著作と唐・新羅の華厳宗の文献の影響を受けて、龍樹作と称する『釈摩訶衍論』が新羅で作られ、日本に持ち込まれた際、偽作だとして厳しく批判したのが、仏教の素養に富んでいた三船でした。最澄なども偽作としています。ところが、空海は何も言わず、顕教と密教を区別する重要な論拠としてこの『釈摩訶衍論』を用いました。その空海について、聖徳太子の生まれ代わりとする説が中世に生まれるのですから、歴史は面白いものです。