聖徳太子研究の最前線

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法大王・法主王・上宮・豊聡耳・厩戸など聖徳太子の名号に関する論証不足の説:古市晃「聖徳太子の名号と王宮ー上宮・豊聡耳・厩戸ー」

2021年05月11日 | 論文・研究書紹介
 前々回の記事では、河合敦氏が聖徳太子の研究状況について概説する際、その種々の名号について論じた古市晃氏の論文を引用して紹介していることに触れました(こちら)。

 河合氏は、古市氏の「聖徳太子の名号と王宮」(『日本歴史』第768巻、2012年5月)を取り上げ、「上宮は生前の太子に対して冠せられる名号」ではなく、「太子の逝去を契機として、太子とその遺族に対する一種の名号」であり、「豊聡耳は聡敏な人を指す名号一般と理解せざるを得ず、それ以上の意味を求めることは、現状では困難」であって、生前の個人名としては「厩戸」が用いられていた可能性が高いいとする古市氏の説を紹介しています。

 これに続く後半の論調から見て、河合氏は、「聖徳太子」や「上宮」は太子没後の呼称であり、「豊聡耳」も一般的な名称であって個人名ではないのに対し、「厩戸」は太子の宮が置かれた厩坂の地名に基づくものであって生前の名であるとする古市氏説を評価しているように思われます。

 しかし、この古市説については、先の記事で「学界では賛同者は見かけないように思います」と書いたように、批判が目立つのです。たとえば、渡里恒信氏は、「上宮と厩戸ー古市晃氏の新説へ疑問と私見ー」(『古代史の研究』第18号、2013年3月)という論文を書き、「氏の史料批判・分析の仕方」そのものを批判しています。この論文については、かつてこのブログで紹介しました(こちら)。

 今回は、こうした批判を受けてその後、補訂されているかと思い、『日本歴史』所載の論文ではなく、最新の古市氏の著書の該当部分を取り上げて検討してみることにします。

古市晃『国家形成期の王宮と地域社会ー記紀・風土記の再解釈ー』(塙書房、2019年)の「第九章 聖徳太子の名号と王宮ー上宮・豊聡耳・厩戸ー」

です。

 古市氏は「はじめに」の3行目で、

また「法大王」「法主王(『上宮聖徳法王帝説』、『日本書紀』用明元年(五八六)正月壬子朔条)などの仏教に基づく名号が、太子が仏教興隆策を主導したとする伝承にちなんだ没後の名号であることは疑いない。(295頁)

と断言しています。仏教系の名号が生前に用いられていなかったことについては、「没後の名号であることは疑いない」の一言で終りであって、以後も論証していません。

 むろん、没後の呼称である可能性もありますが、氏は「上宮」「豊聡耳」「厩戸」については、いろいろな文献を引いて独自の解釈を示しており、「厩戸」については地名に基づく生前の名であると論じてその由来を説いているのですから、仏教系の名号についても何らかの検討が必要でしょう。

 「疑いない」と切り捨てたのは、「法大王」や「法主王」といった名号を、ローマ法皇の「法皇」などのような公的な地位を示すものと解釈したためと思われます。しかし、古訓から見て「法大王」は「のりのおおきみ」であって、説法する上位の皇族といった程度、「法主王」は「のりのぬしのみこ(皇子)」であり、経典講義が巧みな皇子という程度の意味でしょう。

 「法主」は、漢訳経典では釈尊を指すことが多く、また中世以後の日本では巨大宗派の頂点に立つ「法主(ほっす)」のイメージが強いですが、中国の僧伝や史書では、『続高僧伝』僧旻伝が「僧に勅して三十僧に局(かぎ)り、華林園に入りて夏に講ぜしむ。僧正の旻(梁の三大法師の1人である僧旻)を法主と為す」と記していることが示すように、講経に巧みである者で「講経の責任者、担当者」といった意味での用例が目立ちます。

 厩戸皇子は、『日本書紀』では『勝鬘経』と『法華経』を講義したとされ、その作と伝えられる『勝鬘経義疏』と『法華義疏』が伝えられており、この二部は梁の三大法師の注釈を種本としていて古くさい釈風であることが知られていました。さらに、諸説あった三経義疏はきわめて似ていること、花山信勝氏が多少指摘していた和習が実際には非常に多いことは私が指摘しました。

 古市氏が、講経は史実でない証拠を示し、『勝鬘経義疏』と『法華義疏』が厩戸皇子の作でないことを論証するなら良いですが、「疑いない」ですますのでは議論にならないですね。

 こうした断定がなされるのは、「神格化」は没後になっておこなわれるという現代風な思い込みがあるためではないでしょうか。中国の史書を読んでもらいたいのですが、皇帝権力が強かった北魏では、僧の法果が皇帝を礼拝して「当今の如来」と称していたことは有名ですし、皇帝の顔に似せた仏像がいくつも作られており、南朝でも崇仏皇帝として知られた梁の武帝は「菩薩天子」と呼ばれていました。

 前の記事で触れたように(こちら)、廃仏の後に出て仏教を復興した隋の文帝も、自らの出生を仏教にまつわる奇跡の話で飾り、インドのアショカ王と自分を重ね合わせる演出をやっています。また、東南アジアの国王たちは、ヒンドゥー教の神や密教系の観音などを守護神とし、さらに自らをそうした神や観音と同一視させることによって権威を得ていました。古代はそれが普通なのです。

 なお、「上宮」については、古市氏は、『日本書紀』推古紀が、父の用明天皇が厩戸皇子を愛して「宮南上殿」に住まわせたためそう称すると記しているのを否定し、「上宮」とは斑鳩宮を指すのであって、太子の生前は太子に関する名号ではなく、没後になって太子と斑鳩宮に住むその遺族を指すようになったとしています。

 ただ、氏は、「上宮」は仏典に見える皇帝の居場所、あるいは東宮を指すとする説を批判したものの、斑鳩の宮がその地名通りに斑鳩宮と呼ばれず、「上宮」と呼ばれたことを説明できず、「説得的な見解を提示することは難しい」(300頁)と認めたうえで、斑鳩寺の東に位置するため「上=東」と考えられると述べています。

 これは苦しいですね。普通、住む宮の建築を始めてから横に寺を建てるんじゃないですか? あるいは同時に建設に取り組んだとしても、なぜ寺の方が方位の基準となり、しかも北でなく東が「上」になるのか。古市氏の議論は、こうした根拠の弱い推測が目立ちます。

 古市氏は三経義疏には触れていませんでしたが、梁の武帝の時代の三大法師の注釈を種本として書かれた三経義疏のうち、『法華義疏』の冒頭では、奈良時代頃の別人の筆で「上宮王」の「私集」と記されていました。この三大法師たちは、大乗に似た面のある小乗仏教の『成実論』の法相を用いて『涅槃経』などの大乗経典を解釈する僧たちであって、いわば成実涅槃学派とも呼ぶべき人たちです。

 そして、「憲法十七条」の第一条に見える「無忤(さからわない)」というのは、この成実涅槃学派の系統の僧尼の間で尊重されていた徳目だということを、私は早くに指摘しました(こちら)。つまり、「憲法十七条」と『法華義疏』は、ともに梁代ないしそれに続く陳など江南の仏教の影響下にあったのです。

 日本に仏教を伝えた百済は、この梁や陳などの中国南朝を手本とし、仏教教理や造寺造像の技術を導入していたのですから、「上宮」という言葉についても、南朝の用例を調べてみるべきでしょう。その南朝における皇太子の地位を論じ、「上宮」に触れているのが、

岡部毅史「梁簡文帝立太子前夜ー南朝皇太子の歴史的位置に関する一考察ー」
(『史学雑誌』第118編第1号、2009年1月)

です。この論文については、このブログの2011年8月30日の記事(こちら)で紹介してあります。

 岡部氏は、南朝における皇太子のあり方について検討し、『宋書』巻17・礼志四によれば、「大明三年(459)」において、皇帝がおこなうべき太廟と皇太后廟の祭祀を皇太子が代行することと、第八皇女の服喪期間中に祭祀をおこなうことの可否を皇帝が礼官に諮問した際、服喪期に「皇太子の入りて上宮に住するは、事において疑いあり」と記され、皇太子が皇帝が住すべき「上宮」で執務するとされている点に注意します(23頁)。また、六朝期において「上宮」の語が「皇帝の所在を示す語として用いられる例」として、『南斉書』巻21の文恵太子伝をあげています(注21、32頁下)。

 さらに、梁の武帝の長子で皇太子となった昭明太子については、『梁書』巻8、昭明太子伝に「太子元服を加えてより、高祖(武帝)すなわち万機を省せしめ、内外百官の事を奏せし者は前を墳塞す。太子は庶事に明るく繊毫といえども必ず暁(さと)し。奏する処の謬誤および巧妄あるごとに、みなすなわち就きて弁析し、その可否を示して……」と記されているとします。

 武帝は、経典の講義をし、家僧(家庭教師の学僧)に支援されつつ注釈を多数著したことで有名であり、昭明太子も若いころから秀才として知られ、文人や僧たちに囲まれており、経典の見事な講義をしたほか、仏教教理について多くの僧や知識人と問答のやりとりをして三大法師の光宅寺法雲に絶讃されていたことは、拙著で簡単に触れました。

 『日本書紀』などに記される厩戸皇子のあり方が、こうした南朝の皇太子のあり方に似ていることは事実ですね(近いうちに、ブログで書きます)。日本の史料だけであれこれ推測するのではなく、どこまでが編集の際の中国史書などによる文飾なのか、それとも実際に厩戸皇子が南朝のそうしたあり方を真似ようとしていたのかを、検討していく必要があるでしょう。

 なお、「豊聡耳」については、古市氏は「聡敏な人を指す名号一般と理解せざるを得ず、それ以上の意味を求めることは、現状では困難」(303頁)と述べますが、それを言うなら、妃が太子をこの語で呼んでいる「天寿国繍帳銘」は後代の作であることを論証する必要があるのに、触れてないですね。

 問題の「厩戸」については、古市氏は「ト」と「サカ」の語は通用するとし、「厩戸」は「ウマヤサカ」と同じだとし、「大和国古市郡の厩坂に他ならないと考える」(309頁)と述べ、さらに次のように論じます。

蘇我氏の影響力が強く及ぶ軽の地に、斑鳩宮移転以前の太子の王宮が存したとする推定は、一定の説得力を有すると考える。厩坂の王宮はまた、太子の生育の地としても考えることができるであろう。(313頁)

 これも論証不足ですね。太子の名号について論文を発表している仁藤敦史氏(このブログでも紹介しました。こちら)は、この本の書評(『歴史評論』838号、2020年2月)でこの部分を疑問視して反例をあげているほか、溝口優樹氏の書評(『日本歴史』862号、2020年3月)でも批判的に評しており、佐藤長門氏の書評(『日本史研究』697号、2020年9月)では「ウマヤサカがウマヤトと呼ばれた史料的事例があるわけではないし、すべてのサカがトに入れ替わるわけでもない以上、この説明だけで納得するのは難しい」(54頁)と率直に述べています。

 古市氏は、上記の部分に続けて、『日本書紀』では、舒明天皇は舒明11年(639)7月から百済宮の造営に着手し、12月に伊予温湯宮に行幸して翌年4月に帰還して厩坂宮に居し、10月に百済宮に移っていることに注意します。古市氏は、これは岡本宮が火事になった際、田中宮に仮住まいしたのと同じ状況だとし、厩坂宮は既存の宮を改修して利用した可能性があり、それが太子の宮だったと想定するのです。

 しかし、そのように論じるのであれば、古市氏は太子の伊予温湯行きとその碑文(かつてこのブログでとりあげました。こちらと、こちら)をどう考えるのか、また伊予には法隆寺の荘園が多いことなどにも触れるべきでしたね。舒明天皇は、太子の長男である山背大兄との競争に勝って即位しているものの、意外にも聖徳太子とのつながりがあることは、このブログで鈴木明子氏の論文を紹介した通りです(こちら)。

 なお、古市氏は「舒明すなわち田村王は……非蘇我系の王族である」(313頁)と述べていますが、それは『日本書紀』がそのように描いているだけであって、実際には蘇我氏の血が入っているとする説も出ています。

 古市氏のこの本は、地名の検討に力を入れた点に関しては学界である程度の評価を得ている部分もありますが、これまで見てきたように、聖徳太子の名号に関する氏の主張は根拠が弱くて問題が多いです。