聖徳太子研究の最前線

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古代史学の主流派による最新の聖徳太子説は馬子につぐ活動をした天皇候補:佐藤信『列島の古代』

2021年05月19日 | 論文・研究書紹介
 「厩戸王」という語を使っているからといって、最近の学界では支持者が皆無に近い大山誠一氏の太子虚構説を支持しているとは限らないということが、一般読者には理解できていないようですが、そのような実例の最新のものを紹介しておきましょう。

佐藤信『列島の古代』「三 飛鳥の朝廷」
(『日本古代の歴史6 列島の古代』、吉川弘文館、2019年)

です。

 佐藤氏は、聖徳太子を尊崇してその意義を強調する古代史パラダイムを打ち立てた黒板勝美・坂本太郎、そして客観的に見ようとした井上光貞などが活躍した東京大学の文学部や大学院で日本古代史を教えてきた主流派です。高校の日本史教科書中で圧倒的なシェアを誇り、「厩戸王(聖徳太子)」という表記を用いていることで知られる山川出版社の『詳説日本史B(改訂版)』にも編者として関わっています。

 その佐藤氏の最新の著作が、上記の本であって、「飛鳥の朝廷」の章の冒頭となる「1 飛鳥の宮々」では、馬子の活動に触れたのち、次のように書かれています。

この推古天皇の時代には、国際的緊張を背景に、大臣の蘇我馬子を中心に、推古の甥の厩戸王[うまやどおう](聖徳太子)も力を合わせて、国家組織の形成が進められた。六〇三年には冠位十二階、翌六〇四年には憲法十七条が定められたという。……ともに、王権のもとに官司制の政治機構が形成されることに対応している。(52-53頁)

以上です。

 「厩戸王」の語を用いるなら、せめて「うまやとのみこ」という訓にしてほしかったですが、「うまやどおう」となってますね。それはともかく、冠位十二階も「憲法十七条」も、馬子が主導して厩戸王が助力したような書き方になってます。つまり、聖徳太子主導説を否定しており、「皇太子」という言葉は用いていないものの、馬子につぐ権勢の持ち主として描いています。

 佐藤氏は、これに続けて外交などについても概説したのち、宮の説明に移り、皇子宮については、次のように書きます。

推古天皇の時代に、天皇の甥で有力な皇位継承候補であった厩戸王(奈良時代には「聖徳太子」として神格化される)は、飛鳥から西北に二〇キロほど離れた斑鳩の地に皇子宮(みこみや)である斑鳩宮を営んで、そこから斜行する太子道を使って飛鳥の大王宮に通ったのであった。……斑鳩寺宮と斑鳩寺(若草伽藍)は、仏法を信仰する厩戸王によって一体として営まれたのであった。斑鳩宮は、もし厩戸王が即位したならば、大王宮になったことと思われる。(55頁)

いかがでしょう。「厩戸王」の語は用いているものの、国政に関与する力のないぱっとしない王族にすぎなかったとする大山説とは大変な違いです。

 佐藤氏は、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説:注釈と研究』の仏教関係の注釈には不適切なものが目立つことが示すように、仏教についても詳しく研究されていた井上光貞氏の学風は継いでおらず、仏教関連の事柄について自らの説を示すことはできないためか、「憲法十七条」の仏教尊重の立ち場、あるいは三経義疏の真偽などについては触れられていません。

 それはそれで見識ですが、物部守屋と蘇我馬子の争いについては、仏教受容の是非だけが問題点ではなかったらしいと述べた箇所で、「近年は、物部氏の地盤の地にも寺院遺跡がみつかり、物部氏が仏教排除一辺倒ではなかった可能性も指摘されるようになった」(57頁)という箇所は、適切でないですね。このブログで書いたように、「~指摘されていたが、近年は物部氏が建てた寺ではないことが明らかになっている」とすべきところです(こちら)。

 さらに驚くのは、次の記述です。

この蘇我・物部戦争(「丁未の乱」)は、五八七年に、蘇我馬子が、厩戸王の活躍もあって、激戦のすえ物部守屋を河内国渋川郡の居館に滅ぼして決着した。(58頁)

これだと、『日本書紀』に見える守屋合戦の場面が説くような太子のはなばなしい活躍を認めないまでも、太子がかなり重要な役割を果たしたように見えます。

 しかし、『日本書紀』の守屋合戦の記事では、14歳の太子は、有力な皇子たちの三番目に記され、それも軍勢の最後に従っていたと書かれているだけです。穏健派としては、行き過ぎではないでしょうかね。ありうるとしたら、太子の配下の軍勢がそれなりの働きをしたあたりでしょう。斑鳩寺のすぐ西の平隆寺は平群臣神手が発願した寺と伝えられ、『日本書紀』では馬子・太子の側の軍勢の中に神手の名が見えており、『上宮聖徳太子伝補闕記』では、神手は厩戸皇子の近臣とされています。

 私は、太子については周辺では釈尊に近い存在として尊崇されており、生前から神格化が始まっていたと考えていますが、守屋合戦での太子の働きぶりの記述は、四天王寺お得意の太子伝説と見ています。

 ただ、古代の東アジア諸国にあっては仏教の誓願は威力ある最新技術であって、古代日本では大勢でやるほど威力がますと考えられていたようであるため(この問題については、いくつも論文を書いてます)、拙著の『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』では、太子が仏教信者である馬子やその他の者たちとともに戦勝を願って仏教式の誓願をしたとしても不思議はないと述べましたが、「活躍」したなどとは書きませんでした。

 という状況であって、佐藤氏は全体的には『法王帝説』が記していたような太子・馬子共同補弼説を穏健にしたような立ち場に戻ったという感じです。

【追記:2021年5月21日】
太子自身の大活躍ではないとしても、太子の近臣の軍勢が重要な役割を果たした程度であれば考えられるとする部分を付け加えました。