聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子シンポジウムのネット公開:森博達氏の「憲法十七条」は飛鳥時代の原形をβ群作者が「潤色修文」した説ほか

2021年05月08日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 ふたつの聖徳太子シンポジウムが奈良県文化資源活用課のサイトでネット公開されていました。コロナ禍なので、こうした形にしたのでしょう。最初は、2020年12月18日に開催された「2021年聖徳太子1400年御遠忌 聖徳太子の実像と片岡の飢人伝承」であって、最初は、同課が共催した、

奈良県王寺町観光PR歴史講座
「聖徳太子の実像と片岡の飢人伝承」 
第1部 基調講演:「聖徳太子の実像と片岡の飢人伝承」 
講師 明治大学名誉教授 吉村武彦氏(動画は、こちら

第3部 パネルディスカッション:「聖徳太子の実像と伝承」
<パネリスト>
吉村 武彦 氏
澤田 瞳子 氏(小説家)
平田 政彦 氏(斑鳩町教育委員会参事)
岡島 永昌 氏(王寺町文化財学芸員)
<コーディネーター>
関口 和哉 氏(読売新聞大阪本社 橿原支局長)
(動画は、こちら

です。

 吉村氏は、聖徳太子虚構説が世を騒がせ始めた頃である2002年に岩波新書として刊行され、当時の研究成果を踏まえた穏健な聖徳太子像を示した『聖徳太子』の著者です。この本については、東野治之『聖徳太子ーほんとうの姿をもとめて』(岩波ジュニア新書、2017年)がきわめて高く評価していました。東野氏のこの本は、吉村氏も触れて評価していましたが、「ジュニア新書」とはいうものの、実際には学術的な内容であって、最近の研究成果に基づいた好著です。

 吉村氏は、大山誠一氏の聖徳太子虚構説については学説として相手にする必要無しと判断しておられたため、上記の岩波新書でも以後の論文などでも虚構説に対する詳しい反論などはされていません。この講演でも、厩戸皇子について、「法大王」と呼ばれているから天皇のような存在だったとする説や、いなかったとする虚構説などもあるが、両方とも極端すぎて誤りだとひと言触れただけです。なお、「法大王」については、このブログの次の記事でとりあげます。

 厩戸皇子については、「皇太子」は律令制度の語であって、それと同じではないだろうが、「太子」という呼称はあっても良いとし、また、当時の外交儀礼を説明した部分では、隋との交渉については、表に出ない女帝である推古天皇に代わって、厩戸皇子が対応したため、隋は男の王と考えたという立ち場です。

 「憲法十七条」については、君・臣・民の区分を定めたことに意義があり、『日本書紀』の潤色があるとしても、原形は推古朝にあって不思議はないとします。

 穏健でわかりやすい講演ですが、「没後に神格化が始まる」という前提はいかがなものでしょうか。中国で新王朝をおこした皇帝などは、当然ながら生前から神格化した伝説を国内に流して権威を高めており、北周の廃仏の後に仏教を復興して隋を建国した文帝なども、生前から仏教がらみの伝説を流しています。また、東南アジアでは、国王はヒンドゥー教の神や密教系の観音などを守護神とし、それと同一化することによって権威を得ていました。

 古代であれば、権力の頂点、ないしその近くにいて頂点に立とうとしている人であれば、何らかの神格化がなされても不思議はなく、没後にそれがさらに進展すると見て、数段階を考えても良いのではないでしょうか。権力者の神格化は、現代でも諸国で見られますし、日本でも戦前・戦時中はそうであったことを想起すべきでしょう。

 三経義疏については、吉村氏は井上光貞説に従っており、太子学団の共同制作説でした。最近の研究の進展は御存知ないようです。「法大王」や三経義疏に限らず、仏教面に関する踏み込んだ説明はありませんでした。

 なお、法隆寺金堂の釈迦三尊像の台座の木材の裏に書かれていた「尻官」と「書屋」のうち、「書屋」についてはあるいは図書館の最初かと述べておられました。その可能性もありますが、古い時代の資料に見える「酒屋」などの用例からすると、製作所と見るのが妥当であって、「書屋」は紙の製造所か、紙を綴じて巻物にする工房などではないでしょうか。

 第三部のパネルディスカッションでは、大学院では古代史を専攻して文献批判をたたき込まれたという歴史小説作家の澤田氏が、イメージが広まっている聖徳太子の書きにくさについて語りました。考古学調査をしていて太子の宮についても論文を書いている平田氏は、太子が愛したと伝えられる黒駒を埋葬したという伝承がある斑鳩町の駒塚古墳と太子が亡くなったとされる飽波宮の関係などについて語り、岡島氏は片岡山の飢人伝説や太子の愛犬その他の伝承について語ってます。

 平田氏と岡島氏は、伝承と実像を分けるべきことを説きつつ、太子や山背大兄王の時代の遺物が次々に発見されていることに触れ(入鹿の軍勢に襲われて焼失した斑鳩宮の跡では焼けた壁土が出ており、太子建立とされる西安寺遺跡では、若草伽藍と同笵の瓦が数年前に出ています)、実像があるからこそ伝承がふくらんでいくとして、伝承の重要さ、伝承を後代のものとして切り捨てずに検討していく必要性を語っています。

 この催しに続くのが、奈良県文化資源活用課が毎年開催しているシンポジウムであって、令和2年度は、2021年2月28日に「聖徳太子シンポジウム─聖徳太子信仰と伝承─」(こちら)という形で開催されており、内容は、

基調講演:
聖徳太子のこころと信仰  古谷正覚(法隆寺管長)

【パネリスト】
武田佐知子氏(大阪大学名誉教授)
森 博達氏(京都産業大学名誉教授)
瀨谷貴之氏(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)
【コーディネーター】
毛利和雄氏(元NHK解説委員)

です(動画は、こちら)。

 武田氏(かなり前に、ある聖徳太子シンポジウムでご一緒しました)の発表は、「唐本の御影」に関するものであって、このブログで少し前に紹介した内容です(こちら)。森さんの発表は「憲法十七条」の和習の問題、瀨谷氏の発表は中世の様々な聖徳太子信仰についてであって、このブログと特に関係深いのは、森さんの発表です。

 なお、コーディネーターの毛利氏は、数年前に上記と同様に奈良県庁主催で同じ企画会社が担当し、私がパネリストを人選した太子と芸能のシンポジウム(こちら)でも、コーディネーター役を務めておられました。今回も、司会進行にあたっていて私の本の内容を紹介してくださっていましたが、「いしい…きみなりせんせい」と言ってましたね。コウセイです。

 さて、『日本書紀』研究を画期的に進展させた森さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書、2013年)では、「憲法十七条」は倭習だらけであって、その倭習は推古紀を含めた『日本書紀』のβ郡の倭習と一致しているため、「憲法十七条」の制作時期は「少なくとも、書紀の編纂が開始された天武朝以後」(196頁)としていました。

 その後、森さんの研究に衝撃を受けて聖徳太子関連文献の変格語法を調べ始め、三経義疏の和習論文も発表するようになった私が、科研費による変格漢文の国際共同研究プロジェクトを始めた際、森さんに中心メンバーとしてご参加いただき、4年間、共同研究を重ねた結果、森さんの研究がさらに細かくなっていきました。

 つまり、私が三経義疏の和習を指摘したため、森さんも三経義疏の和習を調べるようになって、「憲法十七条」の和習や『日本書紀』全体の和習との共通性と違いに注意するようになり、いろいろな発見をされたのです。その結果、今回のシンポジウムでは、「憲法十七条」の原形は推古朝の作成であって、それをβ群の筆者が「潤色修文」したと説かれるようになりました。

 そうしたことについて、森さんがわかりやすく解説していますので、このシンポジウムの発表は必見であって、その内容が論文化されるのが楽しみです。 
【追記】
最初の講座のうちのパネルディスカッションについては、後で気づきましたが、動画を見たところ、何度やっても途中でとまってしまうため、紹介は書かずにいました。先ほど見直したら、最後まで見ることができたので追記しましたが、やはり動画が安定してないですね。