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推古朝・舒明朝の位置づけと天皇・蘇我氏の墓:塚口義信「『古事記』の書名と三巻構成の意味するもの」

2021年11月18日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事で、巨大な小山田古墳は「大陵」と称された蘇我蝦夷の墓であって破壊され、蝦夷と入鹿は小さな宮ヶ原1・2号古墳に埋葬されたとする小澤氏の論文を紹介しました(こちら)。この説を早い時期に唱えていた研究者がいます。

 『古事記』の巻の編成を論じて蘇我系と非蘇我系の王族たちのあり方を検討し、その墓の問題にもちょっと触れている、

塚口義信「『古事記』の書名と三巻構成の意味するもの」
(『古事記年報』第54号、2012年1月)

です。

 『古事記』上巻が、神話による天皇の権威化をめざした天武天皇の遺志を受けて神々の物語となっており、中巻が神武天皇で始まって下巻が推古天皇で終わっているのは、その頃までが古い時代とみなされていたため、とするのが通説です。問題は、応神天皇と仁徳天皇の間で中巻と下巻を分けていることです。

 推古朝までが古い時代とされ、舒明朝からが新時代とされたことは、墓の形の変化からも推測される、と塚口氏は説きます。7世紀後半から推古天皇に至る蘇我系の天皇や蘇我氏の有力者は、方形の古墳を採用していることが多く、次の非蘇我系の舒明天皇の古墳から八角形となるためです。

 塚口氏は、これを対比した表では、石舞台古墳は馬子の墓の可能性大とし、宮ヶ原1号墳・2号墳を蝦夷・入鹿が実際に埋葬された墓の可能性有り、としています。巨大な小山田古墳を、「大陵」と称されたという蝦夷の墓と見ての見解です。

 蘇我氏系と非蘇我氏系の違いについては、塚口氏は「皇祖(すめみおや)」という語に注目します。この語を付して呼ばれた人物の中心は、蘇我氏の血を引いていない敏達天皇と息長氏系の広姫の間に生まれた押坂彦人大兄皇子であって、「皇祖大兄」と呼ばれています。

 そして、その押坂彦人大兄皇子と結婚して舒明天皇を生んだ糠手姫皇女は「嶋皇祖母命」と呼ばれ、彦人大兄の子である茅渟王と吉備姫王(皇祖母命)の間に生まれたのが宝皇女(皇極・斉明)であって「皇祖母尊」と称され、舒明天皇と皇極天皇の間に天智天皇と天武天皇が生まれ、この二人の系統が『日本書紀』編纂時まで続きます。

 つまり、その系統の祖先が「皇祖」と称されているのであって、用明・崇峻・推古など蘇我氏系の天皇とその系統の皇族はそのように称されることはありません。ですから、それまでの蘇我氏系の天皇の方形の古墳と違い、押坂彦人大兄皇子の子である舒明天皇から八角の古墳となるのは、王統が変わったことを天下に示したものと塚口氏は説くのです。

 この指摘は重要ですが、完全に非蘇我系とは言い切れない面もあります。それは、「皇祖母命」と称されている吉備姫王は、蘇我稲目の娘である堅塩媛と欽明天皇の間に生まれた第六皇子である桜井皇子の娘であるためです。したがって、吉備姫王の子である宝皇女(皇極・斉明)と孝徳天皇は蘇我氏の血を引いているのであって、その宝皇女と舒明天皇の間に生まれた天智天皇も天武天皇も、実は蘇我氏の血が流れているのです。

 乙巳の変で蘇我本宗家が亡びた後も、蘇我倉山田石川麻呂その他の蘇我氏の人間が高位についており、それは天智朝でも同様でしたし、天智の皇女である持統天皇の母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘です。古代史を「天皇家 vs. 蘇我氏」という図式やその変形の図式でとらえるのは、適切でありません。そもそも天皇を強大にしたのは蘇我氏でしたし。

 なお、「皇祖」の語を用いるかどうかについては、前々回の谷川論文(こちら)が天群と地群の違いとしてあげており、天群と地群は別の王朝であった証拠の一つであることを示唆していましたが、『日本書紀』の巻による語句の偏りには、このような事情に基づく場合もかなりあるのです。

 さて、舒明の系統に王統が変わるのは、蘇我氏の専横がひどくなったためと解釈されてきましたが、塚口氏は蝦夷・入鹿に関する記事には「疑わしい点」があるとし、「蘇我氏は大王家の外戚として繁栄を築こうと考えていた氏族であり、また当時の政治形態である、大王(天皇)を中心とした大臣や大夫たちによる合議制という枠内で政治を主導していた氏族であって、何でも好きなようにできた、というわけでは決してなかった」と考えられると述べています。

 この点、論証が十分でないのですが、私も蝦夷までについては、この見方で良いと考えています。これについては、別の記事で取り上げます。

 問題であった『古事記』の中巻・下巻の分け方に戻ります。塚口氏は、中巻は天下った天孫の血統を継ぐ天皇たちが日本の各地を平定し、新羅と百済を服属させたことを語ることが重点だったとします。

 そこで、『宋書』が録している倭王武の471年の「上表文」が、倭国は東の毛人の五十五国、西の衆夷の六十六国、海外の九十五国を平定したと述べ、申請してあった百済が除かれた諸国を監督する官爵を得ているため、国数の信頼度はともかく、当時はそうした物語群があったと考えられるとし、また中央の大和平定が述べられていないことに注目します。大和平定が述べられていないのは、そこが前からの本拠地であって「自明の前提であったから」と見るのです。

 そして、五世紀には、仁徳を始祖と仰ぐ履中系の王統と、応神を始祖とする允恭系の対立があったとし、中巻が応神で終わって下巻が仁徳で始まっており、しかも中巻最後の応神天皇の段では仁徳に関する話が多く、中西進氏によれば「仁徳前史」ともいうべきものになっているのは、そのためと説きます。

 この説の是非はともかく、『日本書紀』では聖帝と絶讃されている仁徳に始まり、仁徳→仁賢→手白香皇女と来て、その手白香皇女を后とした継体天皇→欽明天皇に至る系統の正統性を強調する伝承が早い段階で既にあった、とする指摘は重要です。

 この系統は、宣化天皇の皇女である石姫と欽明天皇の間に生まれた敏達天皇から押坂彦人大兄へと続く系統と、蘇我稲目の娘である堅塩媛・小姉君と欽明天皇の間に生まれた蘇我系の諸天皇の系統に分かれます。

 ここからは、塚口論文をきっかけとした私の見解となりますが、豪族の娘であるその堅塩媛が推古20年に「皇太夫人」と称され、盛大な儀礼によって欽明天皇の檜隈大陵に改葬されたことは、蘇我氏の堅塩媛を欽明天皇の正式な后とみなしたことを示しており、当時の蘇我氏の権勢の盛んさを物語ります。しかも、この改葬の際、馬子は同族(弟)である境部摩理勢に、蘇我氏の「氏姓之本」を読み上げさせていました。

 そうなれば、欽明天皇の子の世代から始まる蘇我系の天皇たちの正統性を強調する記録・史書が作成されるのは当然でしょう。「天寿国繍帳銘」も、欽明天皇と蘇我稲目の娘である堅塩媛を祖とする系譜が銘文の前半をすべて占めているほど、この点を強調して書かれてますしね。

 となると、そうした記録・史書は、非蘇我系とされる皇族たちにとっては歓迎できないものとなるはずです。対処法は、焼いてしまうか、「焼けた」と称して隠し、自分たちに都合良く書き換えることですね。そう言えば、厩戸皇子と蘇我馬子が作成したとされる記録も……。
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