聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子という呼称を最初に用いたのは誰か、「厩戸王」と呼ぶのはなぜまずいのか

2022年11月23日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「聖徳太子 最近の説」と入力してあれこれ検索していたら、ヒットしたうちの一つが、

宮﨑健司「″和国の教主″としての聖徳太子」
(真宗大谷派教学研究所編『ともしび』第817号、2020年11月)

でした。PDFで読めます(こちら)。

 宮﨑氏は真宗大谷派の大学である大谷大学の教授であって、古代の写経について綿密な研究をされている研究者です。この文章は、2020年1月の東本願寺日曜講演をまとめたものである由。ですから、最近の聖徳太子論の一つですね。

 宮﨑氏の所属と講演の性格上、当然のことながら、熱烈な聖徳太子信者であった親鸞が読んで影響を受けた聖徳太子伝、つまりは『聖徳太子伝暦』と盛んに作られたその注釈の話を中心としつつ、聖徳太子研究の現状について簡単に紹介しています。

 宮﨑氏は、聖徳太子という呼称については、751年の『懐風藻』に見えるため、「八世紀なかばを上限として成立したといえるかと思います」とし、767年に称徳天皇が諸寺を巡行し、聖徳太子の寺におもむいた際に、同行した淡海三船の漢詩があり、南岳慧思の転生説が詠まれていると述べていました。

 「上限」というのは、この時期から広がり始め、以後、盛んに使われるようになり、「聖徳太子信仰」と呼ぶべきものが盛んになった、という意味でしょう。ただ、「聖徳太子」という呼び方がそれ以前に成立していて、それが751年の紀年がある『懐風藻』の序に見えているのだ、という成立史の立場から言うと、751年はむしろ「下限」ということになります。

 この講演録は、2020年1月の講演を編集したものが11月に刊行されたものですので、無理もないのですが、この年の8月には、まさに大谷派の雑誌である『教化研究』が刊行されており、そこで私が「聖徳太子」の名の由来を論じています。「聖徳太子といかに向き合うか」という題名ですので、お説教風な内容と思われ、あまり読まれてないのかもしれません。

 その講演では、『懐風藻』を編纂したのは淡海三船と推測されているため、「聖徳太子」という呼称を作ったのは淡海三船だろうとしました。そして、天台教学を重んじていた鑑真とともに来日した弟子の思託が、太子は天台大師の師である南岳慧思禅師の生まれ代わりだと説いており、三船はその思託と親しくしていたため、『懐風藻』以後は、この呼称を慧思後身説と結びつけて用いていたことを指摘しました。

 つまり、「聖徳太子」という呼称は、慧思後身説と一緒に広まったのです。この件については、このブログでも紹介しました(こちら)。もっとも、『日本書紀』段階でも「聖徳」と「太子」の語を用いているため、これを組み合わせれば「聖徳太子」という語はできるのですが。

 三船は、歴代天皇の漢字諡号を定めたとされる文人です。ですから、「聖徳太子というのは、没後の名なのだから用いない」というなら、用明天皇とか推古天皇といった名も没後の諡号、それも奈良時代半ばすぎに定められたものなのに、聖徳太子という名はなぜいけないのか、という話になります。もっとも、天皇は漢字諡号を用いるものの、皇太子については生前の名で呼ぶという史学の習慣はあるわけですが。

 問題は「厩戸王」です。この名については、広島大学の小倉豊文が、聖徳太子のイメージに縛られずに客観的に研究するために戦後に想定した名であって、古代中世の文献には出てこないということは、このブログを含め、あちこちで書いてきました。

 現在、高校の教科書の多くは、「厩戸王(聖徳太子)」などとしています。それは、実在したのは「厩戸王」だと大山誠一氏が主張した影響も多少はあるでしょうが、太子について客観的に検討しようとする古代史学者たち(大山説に明確に反対している研究者たちもいます)が、小倉と同様に、「厩戸皇子」の「皇子」は律令制の呼称であって、それ以前は大王の子については「王」と呼んでいただろうと見ているためです。
 
 律令制以前に大王の子を漢文では「王」と記していたとする推定は、おそらく正しいのですが、問題は、「厩戸」と「王」の結びつきです。九州大学教授であった古代史・仏教史の研究者であった田村圓澄が、広く読まれた中公新書の『聖徳太子』(1964年)において、小倉が生前のものと想定した呼称を説明無しで用い、信仰上の人物は「聖徳太子」、歴史上の人物は「厩戸王」と使い分け、これが定着したことは、これまであちこちで書いてきました。

 しかし、「厩戸王」については問題があるのです。「厩戸王」というのは、用明天皇と間人皇后の間に生まれた子が、馬を怖がり、乗馬の練習をするたびに「馬やだよ~」と泣いていやがったため、「馬やだ王」と呼ばれたのが由来だとする、あやしいネット記事も出ています(こちら)。

 まあ、その記事は、石井なんとかさんという人が冗談で書いたのですが、この時は、このブログの「珍説奇説」コーナーでとりあげた、妄想好きな梅原猛大先生や井沢元彦大先生の霊が降りて来ていて、イタコ状態で書いたものを4月1日に公開したような記憶があるそうです。

 それはともかく、「厩戸王」という呼称を想定して用いようとした小倉豊文については、私は高く評価しており、このブログで特別コーナーを作ってあるうえ、私の聖徳太子本も「(太子を)凡人として過小評価することも……非凡人として過大評価することも」慎まねばならない、という小倉の言葉を巻頭に掲げているほどです。しかし、「厩戸王」という語については賛成できません。

 聖徳太子について触れた確実な文献で最も古いのは『古事記』であって、「上宮之厩戸豊聡耳命」と呼んで尊重しています。「上宮」というのは、太子が住んでいた場所であり、三経義疏の撰号も「上宮王」となってますね。

 これが少なくとも晩年の正式な名であった可能性は高いです。アメリカ大統領の見解を「ホワイトハウスは~」という形で述べたり、落語の桂文楽を「黒門町は~」と呼ぶようなもので、尊重されている人、親しまれている人を住んでいる場所の名で呼ぶことは諸国でよく見られるものです。

 「豊聡耳」については、『日本書紀』も一名としてあげていますし、「天寿国繍帳銘」も、「等已刀彌彌乃彌己等(とよとみみのみこと)」と呼んでおり、『古事記』とも合うため、これが本名であった可能性が高いでしょう。

 ただ、近代以前では、同じ人でも名前は一つではありません。幼い頃の名、成人してからの名、壮年になっての名が変わったりするだけでなく、相手に応じて自称を変えたり、また相手からの名の呼び方が変わったりします。特に漢字表記は、最澄と論争した会津の「徳一」が「得一」と記されたり、空海の「海」も「毎」の下に「水」を書く形もあったりで、様ざまです。

 大王の子の名は、漢字を用いるようになってからは、男女とも「王(みこ)」が良く用いられたようですが、そうした呼び方の場合、養育した氏族の名や彼らの本拠であった地名が付けられるのが通例です。

 推古天皇が『日本書紀』で「額田部皇女」とされているのは、「皇女」は律令以後の表記にせよ、斑鳩の南西にあたる額田の地を本拠とした額田部氏が養育を担当したからですね。この地には、額田部氏の氏寺と考えられている額田寺もありました。

 ところが、「厩戸」については、そうした氏族も地名も知られていません。ということは、厩戸で誕生したという伝承に基づいて呼ばれていた可能性もあるということでしょう。

 ジャズのトランペットの名手であるハリー・エディスンは、甘い音色が有名であって、渾名を付ける名人であったレスター・ヤングが、ハリー・"スウィーツ"・エディスンと呼んだため、「スウィーツ」が愛称となり、親しい人はこの名で呼んでいました。こうした通称の例は、生前にせよ没後にせよ、古今東西たくさんあります。

 『日本書紀』が異名としてあげる「法大王(のりのおおきみ)」や「法主王(のりのぬしのおおきみ)」(いずれも講経が巧みな王子の意)、釈迦三尊像銘に見える「法皇(のりのおおきみ)」(こちらは、講経の巧みな[准]大王)などは、そうした例でしょう。

 「厩戸」はそのような名の一つ、それも、早い時期の法隆寺では用いられていなかった名なのではないか。

 『古事記』の「上宮之厩戸豊聡耳命」や『日本書紀』の「上宮厩戸豊聡耳太子」の場合、住所である「上宮」と、妃の橘大郎女も称している「豊聡耳のみこと」は、聖徳太子の生前の名の一つであるのは確実ですが、「厩戸」は果たしてそう言えるのか。

 そうなると、残る問題はどの氏族が養育を担当したかです。「豊聡耳のみこ」「豊聡耳のみこと」が、斑鳩近辺を本拠地とし、法隆寺再建にも関わったらしい膳部氏とか山部氏などが担当し、膳部王とか山部王などと呼ばれていたなら分かるんですけどね。それとも、厩戸というのは、いずれかの氏族の別の名だったのか。

 いずれにせよ、文献であれ碑銘などであれ、確実な資料が出てこない限り、「厩戸王」という呼称は避ける方が無難でしょう。

【付記:2022年11月25日】
「厩戸」という呼び名は、厩戸誕生伝承に基づいて後に生じた可能性があると書きましたが、それを言うなら「豊聡耳」にしても、耳の良さ、記憶力の良さで回りが驚くようになってからの名であって、生まれた時に付けられた名ではない可能性が高いということになりますね。とにかく、聖徳太子の名は、その別名の多さも含め、いろいろな意味で特別です。

【追記:2022年12月5日】
誤解を避けるため、文章の一部を訂正してわかりやすくしました。論旨は変わっていません。

この記事についてブログを書く
« 『日本書紀』編者が用いた便... | トップ | 聖徳太子は背が高かった?:... »

聖徳太子・法隆寺研究の関連情報」カテゴリの最新記事