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「憲法十七条」に関する最良の論考は戦時中の村岡典嗣の講義ノート

2024年01月28日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、「憲法十七条」の本を執筆中のため、いろいろ読み直してますが、最良の注釈は、やはり、村岡典嗣(1884-1946)が戦時中に東北大や東大で講義した際の講義ノートですね。 

村岡典嗣『日本思想史上の諸問題(日本思想史研究Ⅱ)』「憲法十七条の研究」
(村岡典嗣著作刊行会編、創文社、1957年)

です。理系と違い、文科系、特に古典に関する研究では、最新の論考より、幅広い学識を備えていた戦前の学者の著作の方がすぐれている場合もあるのです。特に、研究者としての訓練を受けていない人の書いた「憲法十七条」論は、東洋の伝統や推古朝当時の状況を無視し、自分の思い込みを反映させただけの粗雑な解釈が目立ちます。

 研究者でなければ駄目というわけではありません。研究者にしても最近の人は、昔の学者が備えていた漢籍・仏典・日本古典の素養が無く、狭い専門だけやっている人が多いのが実状です。

 また、大学院などで専門教育を受けていなくても、すぐれた業績をあげた人はいくらでもいます。私が尊敬する幸田露伴などは、小説で有名となった後、中年時に京都大学に迎えられて国文学の講師となり、和漢の素養に基づ講義によって学生の人気は高かったものの(すぐ退職しており、理由については、京都では魚釣りができないためだと冗談を言ってます)、学歴としては、中学校中退で電信技師の学校を出ただけです。

 東北帝国大学に設置された日本最初の「日本思想史学科」の教授となり、日本思想史学を確立した村岡にしても、同様です。村岡は、早稲田の哲学科を卒業した後、独逸新教神学校に進み、外字新聞の記者となって活動するうちに日本思想史の研究を始め、評価されるようになって広島高等師範の教授となり、さらに東北大に迎えられた、という異色の経歴の持ち主なのです。

 上記の本は、その村岡の没後にその知友や弟子が講義ノートを編集したもので、このうち、「憲法十七条の研究」は、戦争のさなかの昭和18年(1943)における東北帝国大学法文学部日本思想史特殊講義、および東京帝国大学文学部倫理学科における講義ノートです。

 第一節 憲法十七条の本文と研究文献
 第二節 憲法十七条の問題
 第三節 憲法十七条本文の解釈
 第四節 憲法十七条の日本思想史上の意義

の四節から成っています。昭和になると聖徳太子を持ち上げ、「憲法十七条」を明治憲法の先駆ということで「十七条憲法」と呼ぶことが増えていましたが、村岡は『日本書紀』に出る通りの「憲法十七条」という表記を用いています。

 刊行会の編集後記によれば、第四節の「日本思想史上の意義」の部分は、それ以前に書かれたものを挟み込んであり、この部分の成立年代は不明である由。

 戦時中のことですので、国家主義・軍国主義が吹き荒れていた時代ですが、村岡は、「憲法十七条の研究」の冒頭では、「憲法十七条」が「神」に触れていないことについて、平田篤胤が神道をないがしろにするものであって「余りといへば御不埒でござる」と批判したことなどを紹介した後、「日本思想史上の意義」では、「憲法の作者は真に日本国家の為に教化を考へた有識者であつたので、所謂日本主義の宣伝家ではなかつたのである」と言い切ってます。

 「所謂日本主義」については、石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)の「総論 日本主義と仏教」でその歴史について概説しておきましたが、愛国を唱えるものの  ~ism の訳語である「主義」の語を用いていることが示すように、実際には西洋の影響を受けた近代的なものなのです。

 村岡は、日本の神々を世界の創造神と位置づけた篤胤の思想は、実は中国で出版された漢文のキリスト教文献の影響を受けていることを指摘した研究者ですので、偏狭な「日本主義」は本当の日本の伝統に基づくものでないことを知っていたのですね。 

 「日本思想史上の意義」は著書の一部、あるいは論文として公開されたものではなかったとはいえ、この当時、こうしたことを言えば、津田左右吉が講師として東大法学部に出向いておこなった講義に右翼学生たちが集まって質問を重ね、授業後も部屋におしかけて長時間論難したような事態がおこりかねませんでした。

 村岡のこの論述は、国家主義を推進していた文部省主導の研究会で、「性急に聖徳太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」と述べた小倉豊文の発言(こちら)とともに、学問の立場を守った言明として高く評価すべきでしょう。 

 他にも驚くのは、冒頭で「憲法十七条」の注釈書について概説する際、篤胤などによる批判を紹介した後、そうした批判に対する弁護として「一種の両部神道の立場からして太子神道ともいふべき」立場から「憲法十七条」を改竄した『先代旧事本紀大成経』にも触れ、その特質について説明していることです。

 「憲法十七条」を考証した文献を列挙する際、このブログでも紹介した徧無為(こちら)の『通蒙憲法』の解釈もあげてあります。

 津田左右吉の後代作説については、『日本書紀』の他の部分は中国文献を抜き書して書き換えたような箇所もあるが、「憲法十七条」はいろいろな文献の言葉を用いて独自の主張をしているため、独自の作品と見るほかないとして反対します。

 そして、「憲法十七条」には儒教の言葉が多いことを認め、また法家の影響があることを認めたうえで、基調は仏教だとします。これは見識ですね。ただし、太子信奉者の僧侶のような礼賛はしません。むろん、法家の影響にも触れています。

 太子研究が進んだ現在にあっても、読んでいて違和感を感じることがないのは、さすがと言うほかありません。バランスがとれている点で出色の出来です。61才で亡くなったのは本当に残念なことでした。

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