聖徳太子研究の最前線

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浪曲・講談・落語調まじりで「講演」ならぬ「口演」:石井公成「『日本書紀』の守屋合戦こそが絵解きの前段階?」

2023年05月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、龍谷大学の龍谷ミュージアムで親鸞聖人の生誕600年、立教開宗550年記念として「真宗と聖徳太子」展が開催されており、貴重な聖徳太子絵伝や太子像、親鸞の聖徳太子信仰に関わる文献などが展示されています。

 その一環として4月30日にすぐ横の龍谷大学で「聖徳太子絵解きフォーラム:太子絵伝と絵解きの継承」が開催されました。

このように、絵解きの実演がなされました。私も最後に講演したのですが、ポスターを見たら、「特別口演」となってますね(^^;

 まあ、芸能続きの催しですので、私も、

旅~ゆけば~ぁ~、飛鳥の道に血のけむりぃ~と、二代目広沢虎造なら歌ったことでございましょう。推古天皇の前後の時代は、天皇の跡目をめぐり、血で血を洗う争いが繰り返されておりました。かかる争いは、いにしえよりとりどりにこそありしかども、守屋との合戦において、四天王像を刻んで髪に置き、誓願を立てて守屋の軍勢を打ち破りたまへる廐戸の皇子の御ありさま、伝へ承るこそ、心も言葉も及ばれね。頃は崇峻天皇二年秋七月、パパーン!(張り扇を響かせる)」

といった形で始め、漢文の引用のところはこの調子で語り、語りものには笑いがつきものということで、最後は、

毎度皆様お馴染みの、あの聖徳太子に異名が多いが、生まれついての馬嫌い、乗るのはいやだと泣いたので、付けたあだ名が「馬やだ王」とて、ほんとの名前(なまい)は豊聡耳……

と初代相模太郎の「灰神楽三太郎」風で笑わせるなどしてお話した次第です。

 合戦で劣勢になったため、これは誓願でないと難しかろうというので、まだ少年だった廐戸皇子が四天王像を手早く刻んで誓願すると、守屋の軍勢に打ち勝つことができた、というのが話の筋なのですが、その部分については、厩戸皇子に「するってえと何かい。このままじゃ負けるってことかい。ここはひとつ誓願を立てにゃあなるめえ」など江戸弁で語らせたりしながら(これは落語調ですね)解説しました。

 ただ、戦いがおさまった後、太子は四天王寺を建て、馬子は法興寺を建てました、ということで終わって良さそうなものですが、『日本書紀』ではまだ話が続いています。

 つまり、守屋の部下であった捕鳥部万の奮戦が軍談調で描かれ、万が戦死すると、その愛犬が死体を守ったため、朝廷は万の一族に命じて万と犬を葬らせた、という話になっているのです。『日本書紀』ではさらに、戦死した桜井田部連膽渟についても、同様に忠義な犬の話を載せています。

 これは四天王寺建立由来譚とは関係がなく、厩戸皇子の超人ぶりを強調する『日本書紀』編者の姿勢とはまったく異なっていますので、守屋合戦以後、四天王寺に所属させられた彼らの一族が語り伝えた話が、四天王寺における聖徳太子伝のひとコマとして盛り込まれたものですね。語られた物語ですので、『日本書紀』の記述については、浪曲・講談・落語調をまじえて「語りもの」として再現し、「『日本書紀』守屋合戦の段、これにて読み切りといたします。パーン!」と張り扇で叩いてしめくった次第です。お粗末!

 まあ、私はものまね芸の歴史の本(こちら)を出している芸能史研究者でもあって、むしろそっちの方が得意なので。

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