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天文記述などから森博達氏のα群β群説を補強し、α群中国人作説は批判:谷川清隆「『日本書紀』成立に関する一試案」

2021年11月12日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』研究を画期的に進展させたのは、森博達氏が『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店、1991年)で提唱し、さらに『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)で分かりやすく示して広く知られたα群β群の区分説でした。

 私もこの衝撃によって語法に注意するようになったうえ、森さんには変格漢文に関する国際共同研究に参加していただき、多くの学恩を受けました。このブログでは、中国人作説に反対する井上亘さんと森さんの論争がなされ、私も何度か発言しましたが、以後、論争はそのままになっており、私自身は音韻の知識がないため、それ以上踏み込めずにいます。

 そうした状況で、「森のα・β群分類の正しさを承認する」と述べて補強する一方で、α群=中国人述作説を批判したのが、天文学者である谷川清隆氏のこの論文です。

谷川清隆「『日本書紀』成立に関する一試案」
(『日本書紀研究』第30冊、塙書房、2016年)

 谷川氏の論文については、以前、このブログで紹介したことがあります(こちら)。氏は以後も研究仲間と発表してきた諸論文で、天文観測記録はβ群にあってα群には無いこと、β群の観測記録は職業的天文学者の存在を示しており、観測は7世紀に始まったことの他に、屋久島との交流記事の有無など国際交流の面、また様々の用語の面でも『日本書紀』は巻によって偏りがあることを示してきた由。

 そして、『日本書紀』の7世紀の巻について、天文観測記事を重視して天群、地群、泰群の3つに区分していますので、簡単にまとめておきます。

 天群 22巻 推古 天文観測あり β群 遣使記録あり(日中側とも一部記録)
 天群 23巻 舒明 天文観測あり β群 遣使記録あり(中国側も記録)
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 地群 24巻 皇極 天文観測なし α群 遣使記録なし(中国側記録なし)
 地群 25巻 孝徳 天文観測なし α群 遣使記録あり(中国側記録なし)
 地群 26巻 斉明 天文観測なし α群 遣使記録あり(中国側記録なし)
 地群 27巻 天智 天文観測なし α群 遣使記録あり(中国側記録なし)
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 天群 28巻 天武 天文観測あり β群 ー     (中国側記録なし)
 天群 29巻 天武 天文観測あり β群 ー     (中国側記録なし)
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 泰群 30巻 持統 観測1他予測 (α群に近い中間) ー (中国側記録なし)

 谷川氏は、持統紀の天文記事のうち、観測したと思われるのは1例のみで、他の6例は暦からの推測とします。音韻・倭習の面から分けたα群β群と見事に一致してますね。

 ここまで一致するなら、天・地・泰という新しい区分は必要なさそうに思われます。そうしないのは、森説が基づいた音韻と倭習以外の面の違いを重視し、またα群中国人述作説に反対するためであって、森説を以下のように要約します。

 唐人である続守言が巻14から始まるα群を書いて巻21の修了間際で倒れ、薩弘恪が巻24以後を担当して巻27まで書いて忙しくなって執筆を終えたたため、やむを得ず、還俗して文人となっていた山田史御方が巻1から巻13までと巻22・23、巻28・29を文武朝以後に書き、紀清人が巻30の推古紀を述作し、三宅藤麻呂がα群と巻30の潤色・加筆をおこなった。

 以上です。しかし、上のリストのうち、天文観測記事があるかどうか、屋久島関連の記事を入れるかどうかは、漢文の巧拙とは関係ありません。このため、谷川氏は、「α群とβ群の違いには、漢文の書き方の上手下手では片づかない深刻さがあることが見える」と説きます。

 また、α群の遣唐使は『旧唐書』の夷蛮伝では無視されており、β群の遣隋使・遣唐使は無視されていないことも、両者の違いを示すとし、これらは「史料の出どころが違う可能性があり得る」と論じるのです。

 森説の中国人述作説の理由は、正格漢文で書いており、清音と濁音の区別ができず、「妻」のことを「我が妹(いも)」と呼ぶなどの日本の習慣を知らない、というものでした。これに対して、谷川氏は、百済で補えられ、日本に送られた続守言は30年近く日本で暮らした以上、日本の事情にかなり通じるようになっていたはずであり、また唐に長年留学していた日本人なら正格漢文が書けたはずと反論します。音韻の面での批判ではなく、常識的な一般論ですね。

 森さんの中国人述作説のうち、特定の人物を同定した部分などについては、推測の部分も多いことは確かですが、妻を「わが妹」と呼んでいることを漢文で書くにあたって、「古の俗なり」と説明するならともかく、「蓋古之俗乎(蓋し古の俗か=思うに古代の習慣か)」と書くのは、そうした習慣になじんでいた白鳳時代から奈良時代初期の日本人としては不自然ですね。「中国人とは限らず、朝鮮から渡来して間もない人物の筆による部分があった可能性もある」などと論じるなら分かりますが。

 谷川氏はさらに、唐人が述作者であったなら、7世紀のα群の記事の日付を南朝の宋の元嘉暦で計算して記すのは不自然とします。しかし、元の資料が元嘉暦に基づいて記されていた場合、唐人の述作者は天文記事を含め、すべての月日を儀鳳暦で計算しなおす(しなおさせる)のでしょうか。

 倭習については、谷川氏は、『日本書紀』は推古朝頃の資料を起点として元正朝に完成するという長い過程をとったとする梅澤伊勢三の主張もあり、倭習は7世紀初めにまで遡るとする論者もいるとし、倭習に満ちたβ群を必ずしも文武朝以後としなくても良いはずと説きます。

 なお、倭習が目立つ三経義疏を上宮王の作と認めてよいことは、花山信勝が戦前から説いており、私がコンピュータ分析で確定し、倭習は7世紀前半にはあったことが確実になっています。森さんも三経義疏に倭習があることを認め、研究に取り組んでいますので、そのうち成果が発表されるでしょう。

 谷川氏は、天群と地群では、これまで指摘されたものにしても谷川氏などが発見したものにしても、語彙の違いが目立つとします。そして、泰群については、項目によって天群的であったり地群的であったりして中間の性格を持つと説きます。

 その他、いくつかの点を考慮し、谷川氏は次のような試案を提出します。

  天群の巻を書いた人々は独自の情報に基づいて記述した
  天群の倭習入りの文章ははじめから承知で書かれた
  地群は独自の情報で書き、足りない部分は天群の史料を借用する
  『日本書紀』では天群が主、地群が従である
  泰群の述作者は天群と地群の史料を見る立場にある

 この結果、森説ではα群が先でβ群が後だったが、この試案ではα群とβ群は前後関係になく、倭習入り文章の真偽判定は慎重におこなう必要がある、とします。

 谷川氏の論のうち、「地群の人々は屋久島との交流をおこなわなかった」とか「地群の人々の遣使は中国史書で無視された」などの点は、根拠不足の強引な断定と思われますが、違いがあることは確かですね。

 このため、谷川氏は、「『書紀』が少なくとも二つのグループの人々の歴史から成っていることを想定する」と記すのですが、どの程度の大きさのグループを考えているのか。編集体制の問題なのか、二つの権力グループを考えているのか。何となく九州王朝説の匂いがしますね。

 しかし、片方が九州王朝の記録であるなら、天群だけでなく、地群の巻における寺や墓や都などに関する記述も、飛鳥や斑鳩の発掘の成果とよく合うのに対して、隋に使節を送った仏教国家であったとされる九州王朝の地には、6世紀末から7世紀半ば頃の大寺院やそれに瓦を供給した瓦窯や都などの遺跡がまったく発見されないのはなぜなのか。

 また、巻二十八と二十九の天武紀はともに天群とされていますが、このブログで紹介した句読や語法に基づく葛西太一さんの研究では、『日本書紀』を甲乙丙丁の四部分に分けており、巻二十八と二十九は傾向が違っていて巻二十八はβ群である推古紀と同じ丙群、巻二十九は他の多くの巻とは異なる性格の丁群であって著者が違うと推定されています(こちら)。

 これと別王朝説を組み合わせると、天武紀の2巻は、前半は天群の王朝の歴史を書いた人、後半は天群の王朝の資料および別の王朝である地群の資料を両方とも見ていた人が書いたことになりますが、そうしたことが有りうるのか。

 そう思いながら読み終えると、論文末尾の「付記」で「森博達、古田武彦……の各氏から投稿版への論評をいただいたとありました。古田氏ね、ふ~ん。

 そこで検索してみたところ、谷川氏は、最近の『古代に真実を求めて 古田史学論集』の第二十三集と第二十四集に「特別寄稿」ということで論考を載せていました。

 このシリーズの中心人物、すなわち、古田史学の会の代表を務める古賀達也氏は、漢文や仏教の知識が不十分なまま聖徳太子についてトンデモ説を書きまくっていることは、このブログで紹介した通りです(こちら)。天文記事や特定の語の偏りに関する谷川氏の指摘は、興味深いものも多いのですが、そういう雑誌に寄稿するんですか。

 この古田史学の会は、九州王朝説を説く古田武彦を指導者と仰ぐ市民の歴史研究団体が、まともな文語文も書けない近代の贋作者が切り貼りして粗製濫造した偽文書である『東日流外三郡誌』を真作とみなすかどうかでもめて分裂した際、自分の説に通じるところがあるためか真作だと言い張り、それを認めるかどうかを踏み絵とした古田武彦を支持した信奉派のグループですね。

 検索してみたら、現在は古賀代表のトンデモ化が進んでいて、会員から抗議文が出されているのに応答しておらず、もめているようです。ともかく、谷川氏の他の論文も集めて読んでみることにします。

 なお、谷川氏は、結論部分をこうしめくくっています。

最後に、続守言と薩弘恪が文字通り「音博士」であった可能性を指摘しておく。……中国滞在が長い日本人がまず倭習ありの原史料を土台にして唐代北方音になるように文章を述作する。それを読み上げるそばに続守言または薩弘恪がいて、必要があれば注意する。これでどうだろう。

 さて、どうでしょうか。この点も次にとりあげる際に検討します。

【付記】
記事の一部を訂正しました。
【付記:2021年11月16日】
天武紀に関する記述がおかしかったため、訂正しました。
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