斑鳩宮については、発掘報告以外の研究論文は少ないのですが、興味深い検討をおこなった試論が出ています。
松田真平「斑鳩宮軒丸瓦の正しい花弁数と宮域の方位について」
(『聖徳』第240号、2019年5月)
です。
コンピュータによる文化財復原などを専門とする松田氏の論文については、以前もこのブログでとりあげたことがありましたが、今回は、斑鳩宮の創建時の軒丸瓦の蓮華文が七葉であったという発見に関する報告です。
破片だけが残っているこの瓦の蓮華文については、これまでは当時多かった六葉と推測されていました。しかし、破片の柄から見てその説に違和感を感じていた松田氏は、残っている花弁の部分をコンピュータ・グラフィックによって瓦の欠けている部分に埋めていくと、七葉でないと合わないことを明らかにしたのです。
松田氏は、飛鳥時代の瓦文様で七葉という例は少なく、想起されるのは坂田寺の「有稜素弁七葉蓮華紋軒丸瓦」であると述べます。そして、この瓦は、測り方の違いなのか、図録によって数値が多少違うものの、直径14.8cmと記しているデータを採用すると、14.2cmである斑鳩宮の瓦とほぼ同サイズとなるとします。
松田氏は、両者の制作年代は近い可能性があると述べたうえで、坂田寺付近は太子が幼少・青年期を過ごしたという伝承があることに注目します。
次に、斑鳩宮の瓦は、坂田寺のものよりやや小さいとはいえ、屋内の厨子に葺くには大きいため、小仏堂の屋根などでなく、普通の仏殿やその門や塀の屋根に葺かれていたと推測します。そこで、正方位でなく西に20度ほど傾いた斑鳩寺と平行して建てられていた斑鳩宮のどのあたりにそうした建物があったかを検討します。
斑鳩宮の西側は広い空き地であって、その真ん中の道路は、現在では法隆寺西院伽藍から斑鳩宮跡に建てられた東院伽藍の夢殿へ続く道となっていますが、昔はこれが斑鳩宮の正面に向かう道であったと推測します。
そして、斑鳩宮の東側は、現在と違って大溝によって南北に分けられていたことに注意し、北側の区画の南端で大溝と近い場所にあった正方形の建物跡を、上記の瓦が葺かれていた仏殿と見て、その仏殿とつながった形で北に延びている細長い建物を、仏教関連の作業をするための作業建物と推定します。興味深いことに、その西側には井戸の跡があるのです。
隣接する斑鳩寺、すなわち若草伽藍は、北から西へ20度ほど傾いた形で、南から門、塔、金堂が並んでおり、仏像を安置した金堂は南面しているため、斑鳩宮も同様に南面していたと考えられてきたものの、松田氏は、斑鳩宮は傾いた形で西面していたと推測します。
つまり、斑鳩宮から若草伽藍に向かって歩いていき、その東門から伽藍を見ると、左に塔、右に金堂が見えるわけですが、これは、現在の西院伽藍では門から北を見ると左に塔、右に金堂が見えるのと同じ形になる、とするのです。
松田氏はさらに、斑鳩宮のうち、南半分の現在の夢殿が建てられている地の横に細長い建物の跡があることに注目し、食堂ではないかと推測して、ここにも仏像が安置されていた可能性があるとし、それが現在の法隆寺金堂の本尊となっている釈迦三尊像ではなかったと推測します。
ただ、僧侶たちが食事をする食堂には、中国でも日本でも聖僧と呼ばれる賓頭盧尊者や文殊などの像が置かれるのが通例であり、釈迦三尊像を置いた食堂などはありません。
その他の点についても、仏教史からすると考えにくい推定がいくつかなされていますが、松田氏もそれは自覚しているようです。この論考が載った『聖徳』誌は、法隆寺が信者・支援者など向けに出している雑誌ですが、氏は、この論考の末尾で、斑鳩宮軒瓦のすべての実物と拓本を調査することができていないため、この発見と推定を学会誌には投稿しなかったと述べ、「奈良文化財研究所の先生たちと共同で研究を重ねたうえで学会誌に載せたいと述べています。ですから、このブログでも、論文ではなく「情報」のコーナーで紹介した次第です。
斑鳩宮の瓦と宮全体の構成が、そうした共同研究によって明らかになっていくことを期待します。