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聖徳太子研究の最前線

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大王の温泉行幸伝承から分かる聖徳太子と馬子の地位:仁藤智子「古代王権と温泉行幸」

2025年04月27日 | 論文・研究書紹介

 4月1日恒例の特別記事(こちら)で、伊予温湯碑のことを取り上げました。そこで、今回は、伊予の温泉を含め、天皇の温泉行幸に関する最新の論文をとりあげます。

仁藤智子「古代王権と温泉行幸」
(新古代史の会編『歩いて学ぶ日本古代史 1 ―邪馬台国から大化改新まで』、吉川弘文館、2025年)

です。

 冒頭で伊予の温湯碑文を引く際、「恵忩」を「恵慈」に直している古典文学全集本に従っているのは問題ですが、それはともかく、仁藤氏は続けて有馬温泉が大王たちに愛されたことを述べていきます。特にお気に入りだったのは舒明であって、舒明3年(631)に行幸しています。

 『釈日本紀』が引いている『摂津国風土記』の逸文によれば、孝徳天皇も温泉に行幸するために行宮を作ったのであって、「始めて塩の湯を見つ」と語ったと記されています。

 それに続けて、「土人(くにびと)云はく、『時世(みよ)の号名を知らず。ただ、嶋の大臣の時と知れるのみ』といひけり」とあります。嶋大臣とは蘇我馬子ですが、仁藤氏は、舒明天皇も孝徳天皇も馬子が亡くなった後なので、「伝承として、馬子の時代に有馬温泉が発見されたと伝わっていたということであろうか」と述べています。

 「土人云はく……」は、伝承の一つとしてあげただけであって、舒明や孝徳に関する記述とは無関係でしょう。ただ、この伝承は、馬子の勢力が及んでいた地方では、「馬子さまの時に……」と受けとめられていたという点で貴重です。

 『播磨風土記』の逸文が「聖徳王御世」と記していることを思わせますね(リンク)。こういう記述を見ると、『法皇帝説』が推古天皇の代に、「上宮厩戸豊聡耳命、嶋大臣と共に天下の政を輔く」とあるのが当時の実態に近かったことが分かります。

 以下、聖徳太子以後について論じている箇所については省きますが、伊予の温泉郡の東隣に久米郡が置かれており、その中心地から昭和62年(1987)に「久米評」と刻書された須恵器の破片が出ている由。この地は、久米官衙群遺跡として整備が進みつつあるとか。

 重要なのは、7世紀半ばにあたるⅡ期に、方一町の地割りがなされ、倉と官衙らしき建物群が造られたらしいことです。回廊部遺構と周遍からは、来住(きし)廃寺以前の単弁十は蓮華文軒丸瓦が発見されていることです。この瓦は、四天王寺とここしか発見されておらず、上宮太家との関係を示していると仁藤氏は指摘します。

 7世紀第3四半世紀から8世紀中頃にあたるⅢ期は、地制の改変も進み、回廊状遺跡が廃絶されてまもなく、来住廃寺の伽藍遺構が一部重なるように南島に造られます。この創建時の金堂から複弁七葉蓮華文と単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土しており、再建法隆寺の瓦の影響を受けたと考えられています。

 つまり、愛媛の松山平野は上宮王家系と舒明系統の関係が色濃く残っているのです。仁藤氏は語っていませんが、熊凝寺の伝承などを考えると、聖徳太子の政治・経済面を舒明天皇が受け継いだことが見えてきますね(リンクリンク)。

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