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倭王の跏趺坐は『古事記』の「呉床」、『日本書紀』の「胡床」の坐法と異なる:新川登亀男「「跏趺坐」する「倭王」」

2025年04月17日 | 論文・研究書紹介

 昨年刊行された新川登亀男氏の論衡紹介の都築です。今回は、

新川登亀男『創られた「天皇」号』「Ⅲ 『日本書紀』のなかの君主と「尊」(ミコト)字称:七「跏趺坐」する「倭王」」
(吉川弘文館、2024年)

の部分です。遺稿集であって、著者が念入りにチェックしていないため、繰り返しや論証不十分な面も見られますが、重要な問題ですので紹介しておきます。

 良く知られているように、『隋書』倭国伝では、倭王は「天、いまだ明けざる時に、出でて政を聴きて跏趺坐し、日出づれば便ち理務を停む」と記されています。この「跏趺坐」は仏教の「結跏趺坐」と解釈されてきましたが、新川氏は、この坐法を検討します。

 『古事記』では天皇や有力な王の座として「呉床」が登場しますが、『日本書紀』ではそうした一貫性がないとします。物部守屋が寺を破壊する際、「踞坐胡床」しており、穴穂部皇子も「踞坐胡床」してそれを守屋大連を待ち、境部摩理勢は門のところで「坐胡床」して蝦夷の襲撃兵を待ちます。

 大海皇子が内裏の仏殿の前で「踞坐胡床」して剃髮出家しているのは仏教的ですが、守屋は廃仏派なのですから、結跏趺坐するのはおかしいでしょう。

 新川氏は、いろいろな文献の記述から見て、「踞坐」はあぐらをかくことであり、「胡床」は横から見ると X の形になっていて折りたためる携帯用の坐具だと説明します。「胡」とあることが示すように西域から中国に導入されたものです。『古事記』に「呉床」と見えるのは、呉、つまり中国南朝から百済が入手したものが日本に入ったため、「呉服」などと同様に「呉~」と称されるのだとし、『日本書紀』ではこの表現が消えて「胡床」に変わったと見ます。

 いずれにしても、「呉床」も「胡床」も屋外で使う携帯用坐具である以上、倭王が「跏趺坐」するのとは異なることになります。

 新川氏は「胡床」の坐り方は、基本的には足を垂らす坐法であるものの、6世紀前半の人物埴輪には「跏趺坐」に当たる坐の形が見られるが、要するにあぐらだとします。むろん、仏教導入以前ですので、仏教由来でもないことになります。

 ということで、『隋書』は倭王の「跏趺坐」を仏教由来のものと見ているらしいものの、実態はわからず、臨時の「呉床」「胡床」とは異なり、大きな「牀」のようなもの、あるいは、敷物を重ねた「床」型の特別な坐具によるものだったろう、というのが新川氏の結論です。要するに、中国の皇帝が足を垂らす形で玉座に坐るのとは異なる坐り方だったろう、ということであって、仏教の結跏趺坐とは限らない、ということですね。 

 

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