天皇号が使われ始めた時期については諸説あって決着していませんが、有力な仮説が出ました。
田島公「[問題提起]「飛鳥宮」時代の特殊性―「天下」を喪失していた時代―」
(田島公・海野聡・鶴見泰寿編『飛鳥宮の儀礼と空間構成』、八木書店出版部、2025年)
です。2月20日刊行なので、出たばかり。
田島氏は、ほとんど注目されていないという佐立春人氏の「日本古代の「天下」と「国内」」(京都大学日本法史研究会編『法と国制の史的考察』、信山社出版、1995年)の意義を認めます。
この論文によれば、中国の皇帝や日本の天皇が犯罪者を赦免する場合、「大赦天下」と宣言するのが普通だが、新羅では「大赦国内」とあるため、調査すると、中国の皇帝は「天下」を支配するが、皇帝から冊封された王の支配領域は「国内」と表記される由。高句麗も国王の命令文では、中国なら「天下」とあるべきところを「国内」としていたそうです。
一方、日本では、「食国(おすくに)天下」「食国国内」「食国之内」「国内無事」などとあるため、朝鮮諸国などを配下に置く天下の帝を辞任する『日本書紀』の立ち場としては「天下」とすべきところであるのに、元の資料をそのまま貼り込んだため「国内」などの語が残ったものと佐立氏は見ます。
そして、倭の君主は4世紀から7世紀初めにかけて、支配領域を「天下」と称したが、7世紀前半以後、8世紀初頭までは中国皇帝の意向によって「国内」と表記せざるを得ず、701年の大宝令以後、「天下」が復活し、中国皇帝の冊封を受けない、という流れである由。
田島氏はこの説を評価し、飛鳥宮の時代は「天下」を喪失していた時代とみなします。そして、推古朝では一旦は「天皇」号を使用しますが、「天下」を喪失していた時代には「天皇」を封印し、天武・持統朝では「天皇」号を使用するための準備をし、国内での使用を再開し、大宝令以後、対外的にも「天皇」号を使うようになったと推測します。
なお、佐立論文では、「天下」を回復しようとした時期に、「天下」と「国内」の落差を痛感し、「天」と「国」の組み合わせに異常にこだわるようになり、それが神代に関する「天神・国神」「天津罪・国津罪」など、「天」と「国」の対比が目立つ理由ではないかと述べた由。
田島氏は、この佐立論文に言及したのは河内春人論文のみであるが、7世紀後半に船首王後墓誌や小野毛人墓誌に「天下」の語が見えることを指摘して批判しているものの、東野治之などは、墓誌は没後の作成であって追納されたとしているほか、長谷寺の「銅板法華説相図」に「治天下天皇」とあるものの、干支から見て686年、698年、722年、770年など諸説があることに注意しています。
いずれにしても、推古朝の一時期、「天皇」が使われていたと見てよさそうですね。