聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

国立能楽堂の11月パンフレットに「聖徳太子と芸能」を寄稿

2022年11月15日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 国立能楽堂では、聖徳太子1400年遠忌に寄せてということで、11月には太子関連の芸能を上演する予定であることは、このブログで紹介しておきました(こちら)。

 その11月のパンフレットに以下のようなエッセイを書きました。11月1日付けで刊行されており、今月、能楽堂に能・狂言などを見に行かれたら、700円で販売されています。

石井公成「聖徳太子と芸能」
(『国立能楽堂』第467号、2022年11月、36-39頁。こちら)

です。

 24日は、真宗大谷派井波別院瑞泉寺住職の竹部俊惠師による「聖徳太子絵伝絵解き」と、新作能「夢殿」、30日は狂言(和泉流)の「太子手鉾」、世阿弥自筆本による復曲能「弱法師」です。

 それぞれの演目については、別の方が簡単な解説を書いておられます。私は、9月初めにパリの翻訳シンポジウムに出かけていた際、夜、ホテルに戻ったら能楽堂からエッセイの依頼メールが来ていたため、急いで書いたのですが、編集担当の方は、私を聖徳太子研究者と思って依頼されたようです。

 実は私は仏教学は苦手であって、文学や音楽・芸能好きであり、以前は、この太子ブログと平行して、匿名で音楽ブログと芸能ブログをやってました。絵解き・能・狂言については拙著の『<ものまね>の歴史』や、村田みおさんとの共著『教えを信じ、教えを笑う』の「第二章 酒・芸能・遊びと仏教の関係」でその誕生の歴史を簡単に紹介しています。

 今回のエッセイでは、それぞれの演目の解説とかぶらないよう配慮しながら、聖徳太子と芸能の関係について語り、太子伝の絵解き、夢殿、「弱法師」、「太子手鉾」のすべてにさりげなく触れておきました。

 詳しくは、上記の拙著に書いてありますが、絵解きはインド由来であって、インドでは今でも旅芸人がやってます。棒で指して説明するのもインド・西域由来の伝統です。インドは横幅の広い布でやってますが、日本では紙芝居となりました。聖徳太子伝の絵解きは、恐らく日本の絵解きの最初です。

 他にも、聖徳太子が始めたとか、聖徳太子に関するものが最初といった芸能伝承は多いのですが、「聖徳太子と芸能」では次のように書きました。

(一)聖徳太子が実際に関わった芸能、(二)太子を題材とした芸能、(三)太子を始祖とする後代の芸能起源伝承、という三つは、区別する必要があるのです。

 仏教を導入するということは、建築・美術・芸能・製紙・医学その他の最新技術を受容することですので、仏教を盛んにした聖徳太子が様々なもののの開祖とされるのは不思議でないのですが、中世になって作られた伝承も多いのです。

 「夢殿」は国語学者で歌人でもあった土岐善麿が作った新作能です。土岐は太子信仰の篤い真宗寺院に生まれたのです。法隆寺には古い伎楽面が多く伝えられており、仏教芸能も盛んだったのですが、聖徳太子信仰と太子関連の芸能については、平安時代以来、宣伝上手な四天王寺が中心となっています。

 そうした中で夢殿が再び注目されるようになったのは、明治からですね。これについては、救世観音像を世に出したフェノロサと、その通訳をつとめた岡倉天心の役割が大きいようです。なお、夢殿は、法隆寺の行信が光明皇后に働きかけ、焼けた斑鳩宮の跡に造営したものの、もともとは法隆寺とは別の寺でした。

 新作能「夢殿」が作られたのは、太子は芸能の祖とされていながら、不思議なことに能で太子を主人公とした「守屋」「太子」「上宮太子」などはすべて廃曲となっているからです。

 「弱法師(よろぼし)」は、別れ別れになっていた父と息子が、四天王寺で巡り会うという話です。今回は、世阿弥自筆本に基づいたということなので楽しみです。

 狂言では僅かに「太子手鉾」だけが太子を扱った作品として残っていますが、ここでは太子は登場せず、「守屋(もりや)は法(のり)の敵なりけり」という和歌、つまり、仏敵の物部守屋と説法の邪魔となる「漏り屋(もりや:雨漏りのする家)」を掛詞にしたおふざけ歌が中心となっています。

 この和歌は、瞻西上人が説法していると雨が漏れてきたため、説法が終わると袖をぱっと払って詠んだと伝えられるものです。瞻西上人は、南北朝頃の『秋夜長物語』では、比叡山の文武両道の僧だった頃、道中で出逢った藤若という少年に恋してしまい、ひと夜をともにすることができたものの、その少年が川に身投げして死んでしまったため、発心して修行に励んだとされています。

 この『秋夜長物語』については、以前、天台宗の叡山学院でおこなった講義が活字になってます(こちら)。学院長の堀澤祖門先生が直前になって比叡山に会議で出かけられたため、よーしということで、「ここ坂本は少年愛の本場です。それを文学作品としているのは、さすが天台宗」と誉めたのですが、数年後に某国際学会で堀澤先生にお会いしたら、「先生の講演は大変話題になりました」と言われ、恐縮しました。

 現代では、山岸涼子『日出処の天子』が太子伝をボーイズラブの話として描いていますが、言葉遊びを発達させたのは仏教ですので(石井説!)、聖徳太子、芸能、言葉遊び、少年愛は、こうしてつながっているのだ、というのが私のエッセイの結論です。もっとも、伝承の世界では、少年愛の元祖は太子でなく、空海ということになってますが。

この記事についてブログを書く
« 若草伽藍の金堂壁画の焼け残... | トップ | 『日本書紀』編者が用いた便... »

聖徳太子・法隆寺研究の関連情報」カテゴリの最新記事