聖徳太子研究の最前線

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逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(2)

2022年02月18日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 粗雑な『聖徳太子のひみつ』同様(こちら)、ツッコミどころ満載です。

 まず、井沢氏は、聖徳太子は「日本仏教の祖」とされるが、大事なのは「和の思想」であって、仏教でも儒教でもキリスト教でもない日本の伝統である「和の思想」を「発見」したのは、聖徳太子だと述べ、その太子がなぜ「聖徳」と呼ばれたのかという疑問から話を始めます(8頁)。

 しかし、「憲法十七条」における「和」を聖徳太子の思想の中心として重視するようになったのは、昭和初期のナショナリズムの高まりの中においてのことでした。ヘーゲル研究で知られる国家主義的なドイツ哲学者、紀平正美などが持ち上げ、紀平が属する国民精神文化研究所で編纂した『国体の本義』(文部省教学局、1937年)において、「和」を建国以来の日本の特質と強調した結果、広まったものです(こちら)。

 井沢氏がしばしば用いる「和の精神」という語も、この『国体の本義』に見えています。「日本精神」という言葉が盛んに使われたのも、この時期ですね。「精神」というのは古くからある漢語ですが、現在のような意味で用いられるようになったのは、明治期にspirit、Geist などの訳語として用いられてからです。

 さらに「日本精神」が強調されてそれが「和の精神」だとされたのは、19世紀後半からドイツで「ドイツ精神」が盛んに論じられるようになり、第一次大戦で敗れて莫大な賠償金を課されて苦しめられた結果、ナチスが生まれるほどナショナリズムが高まり、世界に冠たる「ドイツ精神」が強調されるようになった影響です。

 ですから、日本の古来からの特質として「和の精神」を説く人は、実際には紀平など経由で、西洋の影響をもちこんでいるのです。実際、教科書の聖徳太子記述に「和」が初めて登場したのは戦時中のことであり、国民が「和」して一体となって戦争を勝ち抜くためでした。

 つまり、「憲法十七条」が日本独自の「和の思想」を説いていると見るのは、井沢氏とは立場が違うものの、昭和初期から十年代あたりにかけて広まり、戦後になって「平和主義」「民主主義」の方向で解釈しなおされ、その影響が続いている俗説なのです。通説に反対するはずの井沢氏は、おそらく知らないでのことでしょうが、その古い図式に乗った議論を繰り返しており、紀平と同様に、史実を無視した主張をしているのです。

 なお、「憲法十七条」の「和」が中国の典拠と仏教の思想を倭国の状況に合わせて用いたものであることは、このブログで紹介しました(たとえば、こちら)。

 さて、井沢氏は、聖徳太子が天皇になれなかったことを謎としつつ、それは推古天皇が長生きしすぎたためであることを認めたうえで、「太子は天皇になる機会が、少なくとも一度はあった」(13頁)と述べます。つまり、崇峻天皇が殺された後がその機会であって、19歳の優秀な太子がいるのに推古天皇が即位したとするのです。

 しかし、当時、天皇になったのは30代後半以上の皇族ばかりであることは早くから知られていました。若かった太子が天皇になっていないのは当然であって不思議ではないのです。

 井沢氏はここで、豊田有恒氏の『聖徳太子の悲劇』の名をあげて、その説を長々と引用します。つまり、太子の妻はその外国語の家庭教師だった東漢直駒と不倫関係になっており、それが発覚して妻の父である馬子に駒が殺された後に自殺し、太子の母は夫の用明天皇が亡くなって未亡人となった後、太子の異母兄、つまり母からすれば義理の息子と「できてしまった」うえ、死んだ妻の父である馬子に相談に行ったところ、馬子は太子の美しい叔母(後の推古天皇)と男女の関係になっていた、というすさまじい推測の連続です。

 駒が太子の妻の外国語の家庭教師だったことを初め、想像ばかりで記録にないことの連続であって、週刊誌が推測で書きまくる芸能人愛欲相関図の古代版のようなものですね。太子の母が義理の息子(かつ甥)と結婚したことは事実ですが、身分の釣り合い、天皇(治天下大王)となるには前の天皇かその前の天皇などの皇女と結婚しておくことが条件だったらしいこと、財産の分割を防ぐ、その他の理由もあって、当時の皇族における近親結婚の多さは驚くべきものがありました(こちら)。

 ところが、井沢氏は、上記の推測について「これは決して誇張でない」として、以下、こうした複雑な状況のために太子はノイローゼとなり、伊予の温泉で長らく湯治して回復してから政治の世界に関わったとする豊田説に基づいて、聖徳太子論を展開していくのです。

 そして、豊田説を略抄しつつ『風土記』佚文である伊予温湯碑について、「おそらくその病が全快したので、太子は感謝の意を込めて、温泉を讃える碑文を書いたのだろう」(47頁)と推測しています。しかし、この碑文では、「我が法王大王」が慧聡法師・葛城臣と夷与(伊予)の村にやって来て、温泉の霊験に感心して碑文を作ったとし、その碑文が掲載されています。

 「碑」というのは文学のジャンルの一つであって、韻に注意して美文で書かれる碑文に状況説明となる「序」が付されます。「序」と「碑」は同じ人が書くものですので、「序」の部分で「我が法王大王」が温泉に来たと述べている以上、「碑文」は太子の筆ではないことになります。

 また、碑文は、間欠泉とおぼしきこの温泉をたたえ、『維摩経』では「法王」である釈尊が、供養された500の傘蓋(日傘)を神通力で天を覆う巨大な一つの傘蓋に変えたように、この温泉の地で椿の巨木の枝葉が天を覆ってトンネルをつくっているのは、「法王」のような太子の威徳によるものだとして讃えているだけです(こちらと、こちら)。

 碑文では、噴泉が開き閉じる間欠泉らしき様子を描き、平等に人々に恩恵を与え、病気を治す働きがあるとして温泉を上から目線で称賛しているだけであって、自分の病気を治してくれたことに対する感謝の言葉など全く出てきません。なお、豊田氏も井沢氏も、同道した僧侶を高句麗の慧慈としてあれこれ論じますが、訂正される前の原文は「恵忩法師」ですので、百済の慧聡と見るべきでしょう。

 井沢氏は、太子がノイローゼを治して政界に復帰したのは、推古天皇の子である竹田皇子が亡くなり、「推古女帝には他に子はいない」ため、かつては竹田皇子のライバルだったが、今となっては最も身内である甥の太子を用いたためとします。

 『聖徳太子のひみつ』は、旧作のこうした部分をそのまま切り貼りしているのですが、前の記事で書いたように、太子と自分の娘を結婚させた推古天皇には、竹田皇子の弟となる尾張王という息子がおり、後のその尾張王の娘を太子と結婚させています。

 ここで不自然なのは、井沢氏が、「憲法十七条」は「和を以て貴しとなす」と言っているものの当時の太子は新羅攻撃を企てる「武断主義というべき立場」であって、太子の事績には「分裂的傾向」がある(52頁)としていることです。

 「憲法十七条」の「和」を平和主義と見なすのは戦後の傾向です。「憲法十七条」がめざす「和」は、群臣会議でのなごやかな協議による意見の一致ですので、そこで新羅攻撃がなごやかに全会一致で決定されても何の不思議もありません。実際、第二次大戦中の日本は、「憲法十七条」の「和」と「承詔必謹」の精神で戦争に勝とうとしており、東京府生活局ではすべての家に「憲法十七条」を配布しようとしたほどでした(こちら)。

 井沢氏自身、別のところでは、国内が「和」でまとまれば、対外戦争をしても不思議はないと述べています。そうでありながら、上記のようにこの箇所で「分裂的傾向」が見られると説くのは、「かつてはノイローゼで悩んでいたという過去が、大きく影響していると考えるべきだろう」(54頁)とするためです。

 つまり、強引に豊田氏が唱えたノイローゼ説に持っていくためなのです。井沢氏はさらに、聖徳太子が怨霊であることを最初に説いたのは「哲学者梅原猛氏である」(57頁)として、怨霊史観を述べていきます。しかし、怨霊説はとっくの昔に否定されており、その怨霊説を筆頭とする梅原『隠された十字架』の事実誤認のひどさは、このブログでも詳しく論じました(こちらこちらこちら)。

 井沢氏の聖徳太子説は、上記のような豊田氏の想像と梅原氏の「直観」に基づいており、その図式が『逆説の日本史』シリーズ全体を支えているようですが、そもそもその前提が根拠のないものなのです。

 井沢氏のこの本の後で出された怨霊関連の本のうち、大森亮尚『日本の怨霊』(平凡社、2007年)は、奈良時代の井上内親王や早良親王の例で始めています。最近の小山達子『もののけの日本史ー死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書、2020年)でも、古代の死者の霊と中国の鬼神との比較で話を始めているものの、聖徳太子怨霊説などは一顧だにされていません。太子怨霊説は、文献研究や考古学などの発見が進んだ現在になっても裏付ける証拠がなく、学界で相手にされていない妄説です。

 井沢氏は、「太子の子孫は……皆殺しにされている。太子の霊を祀る子孫はいなくなったのである」(60頁)を怨霊化の理由とするものの、前の井沢批判記事で書いたように、殺されたのは、太子の数多い息子・娘たちのうち山背大兄とその家族だけです。

 ついで井沢氏は、怨霊と同様に重視する「言霊思想」を持ち出し、現代には寿陵といって生前に墓を作っておくと長生きするという信仰があるが、当時はそうした信仰はまだ無く、神道の言霊信仰の影響で「生前に墓を作るなんて(死を招いているようで)不吉だ、という感覚が強かっただろう」(63頁)と述べ、崇峻天皇暗殺事件と太子との関わりを論じていきます。

 しかし、『日本書紀』には、蘇我蝦夷と入鹿が多くの人々を動員して自らの寿陵として二つの巨大な陵を作らせたとし(これは事実であって、その陵に関する考古学の論文は、こちら)、それへの不満がきっかけで山背大兄の家族が滅ぼされることになったと書いてあります。井沢氏が『日本書紀』をしっかり読んでないことは、こうした例が他にいくつもあることから察せられます。

 また、「神道」の「言霊思想」と言っていますが、「神道」の成立が新しく、仏教との相互影響があることは早くから知られており、私の研究室の後輩である伊藤聡さんの名著『神道とは何か-神と仏の日本史』(中公新書、2012年)などが説いているとおりです。伊藤さんのこの本の刊行は、『逆説の日本史2』より後ですが、『逆説の日本史』が刊行され始めた頃は、この本の元になった伊藤さんや他の研究者の論文がいろいろ出ていたはずです。

 『日本書紀』にも「神道」の語は出てきますが、今日言う宗教としての神道とは意味が異なることは、津田左右吉が早くから指摘していました。井沢氏は、学界の研究成果に注意せず、自分の図式を優先させる傾向が強いですね。

 太子の死について盛んに空想を書く井沢氏は、『聖徳太子伝暦』では、太子は膳部妃に自分は今夜死ぬだろうからお前も一緒に死のうと言って、二人で新しい清潔な衣を身につけてともに床につき、翌朝亡くなっていたと説いているため、「これはどうみても「心中」という他はない」(94頁)と断言します。

 そして、上原和氏が『聖徳太子 再建法隆寺の謎』で、『勝鬘経』が仏教の正法を得るために身と命と財を捨てるべきことを説いており、その注釈である太子の『勝鬘経義疏』がこの部分を説明する際、釈迦の前身が飢えた虎の親子を救うために我が身を捨てて食べさせたとする「捨身飼虎」を譬喩にあげていること、法隆寺の玉虫厨子にその「捨身飼虎」が描かれていることに着目し、太子は自殺したのだと強調します。

 上原先生は、私の勤務先であった駒澤大学がお招きし、聖徳太子について講演していただいたこともあります(その際の講演は、こちら)。すぐれた美術史学者であるもののロマン主義の傾向が強く、特に思い入れがある太子については、歴史小説に近い描写をすることがありました。

 それはともかく、井沢氏も書いているように、『聖徳太子伝暦』は太子讃美の書であって、太子の神格化が進んだ平安時代の本です。また、井沢氏は、変死した人は怨霊となると説いているわけですが、神格化が進んだ太子讃美の伝記が、太子は自殺した、心中した(つまり、変死したのだ)などと書くはずがないでしょう。

 古代にあって、自分の死期を悟るというのは、聖人の証拠でした。実際、『日本書紀』の推古紀では、太子が亡くなると、高麗の慧慈がそれを悲しみ、来年の同じ日に死んで浄土でお会いしようと願い、翌年の同じ日に亡くなったため、世間の人は、「太子だけでなく、慧慈も聖人だった」と言い合ったと記されています。『日本書紀』をきちんと読んでいない井沢氏は、この話のことも忘れているようですが、これも「自殺」とか「後追い心中」とか言うんですか?

 そもそも、二人が同じ日に同じ床で亡くなったというのは、神話化が進んだ『伝暦』の記述であって、太子が没して一年後に作成された法隆寺金堂釈迦三尊像銘では、12月に太子の母后が亡くなり、1月に太子が発病、王后(妃の膳部菩岐岐美郎女)も病床につき、2月21日に王后が亡くなり、「翌日」太子も亡くなったと記してます。

 普通、これを読めば、伝染病かそれに近い病気だろうと思うでしょう。この銘文では、王后の忌日は正確に記し、太子ついては翌日亡くなったとしか書いていませんし、太子を「法皇」と称して尊崇しているものの、奇跡を起こす超人・聖人としては描いておらず、病気で亡くなったと記しているだけです。

 太子と等身のこの釈迦像を造った人たちは、銘文では「三主」、つまり、太子と母后と王后に来世でもお仕えして仏法を興隆することを願っています。皇族でもない膳部氏の妃にお仕えするというのですから、この像は斑鳩地域の豪族であった膳部氏などが中心となって建立したことが推測されます。最初から最後まで太子の奇跡的な言動を並べている『伝暦』とこの銘文のどちらを信用すべきかは明らかでしょう。

 井沢氏は、上原氏の捨身重視説について説明するため、『勝鬘経義疏』の該当部分の現代語訳を示しています。自分で原文の漢文から適切に訳せば良いのに、井沢氏は、「『日本の名著 聖徳太子 勝鬘経義疏』中村元訳 中央公論社刊」(102頁)からという形で、この箇所を引用するのです。しかし、この本は「責任編集 中村元」であって、『勝鬘経義疏』については早島鏡正訳と明記されています。

 『聖徳太子のひみつ』では、中村元・瀧藤尊教訳である「憲法十七条」を、「日本を代表する仏教学者」である「中村元訳」(68頁)と記していましたが、前作の『逆説の日本史2』でも、著名な中村元先生の権威を利用し、不注意というよりは意図的な書き換えに近いことをやっていたわけです。こうした書き方をする人を、学問の世界にいる研究者たちが信用するはずがありません。

 ここで一端やめます。こんな例ばかりです。井沢氏は、歴史学者は古代人の心情が分からないと批判してあれこれ書いていますが、氏が強調するのは、古代人の心情というよりは、現代の週刊誌のゴシップ記事ライターの心情に近いように見えます。

 聖徳太子を尊敬してその伝説を長々と書いている平安初期の景戒『日本霊異記』では、登場人物の考え方・感じ方などは、現代人のものとはかなり違っています。貧しい女性が七人の子を心をこめて養っていたおかげで、薬草にめぐりあって神仙となることができ、空に飛んでいったのは素晴らしいという話では、残された子供たちはどうなるんだと心配になってしまいます。

 著者の景戒自身、「自分が死んで焼かれる夢を見たが、これは長生きするということなのか、官位を得るということなのか。結果を待ちたい」などと書いているので驚かされるばかりです。そもそも、『日本霊異記』は仏教説話集なのに、仏教伝来以前の雄略天皇が昼間から皇后と交わっているところを臣下に見られ、恥じて適当な命令を下したところ、その臣下が忠義であって見事に役目を果たしたとする話が上巻の第一話となっています。

 これには因果のつらなりを示すという背景があるのですが(私は『日本霊異記』も研究しており、論文も何本か書いています)、古代人の心情を重視するというなら、現代の週刊誌のゴシップ記事風な想像ではなく、そうした古代的な感性を尊重して史料を見ていくべきでしょう。そう言えば、『逆説の日本史』は週刊誌の連載でしたね。
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