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斑鳩の地における聖徳太子信仰の拠点争い:高田良法「法隆寺聖霊院造立についての試論」

2024年07月05日 | 聖徳太子信仰の歴史

 前回、法隆寺東院伽藍の夢殿の本尊である救世観音像に関する論文を紹介しました。しかし、前にも触れたように、夢殿はもともとは法隆寺とは別組織でした。この問題について検討したのが、前々回紹介した高田氏の論文(こちら)の続篇である最新のこの論文です。

高田良法「法隆寺聖霊院造立についての試論」
(『奈良美術研究』第25号、2024年3月)

 法隆寺西院伽藍で聖徳太子を祀る聖霊院は、太子没後500年にあたる保安2年(1121)に法隆寺の経尋が建立したものでした。その少し前に、法隆寺の隣にあったものの別組織だった上宮王院(東院)を法隆寺の管轄下に入れたのも、この経尋なのです。

 高田氏は、天平宝字5年(761)成立の『東院資財帳』では東院の夢殿本尊について、「上宮王等身観世音菩薩木像壱躯<金薄押>」と記されていることに注意します。後に救世観世音菩薩と呼ばれるようになるこの菩薩像は、当初は金箔が貼られ、きらきら輝いていたのです。菩薩と言っても仏扱いですね。釈尊の次に仏となる弥勒は、菩薩の姿や仏の姿となった形で造像されますが、それと似た面があるのか。

 さて、太子の病気治癒を願い、実際には没後になって追善のために建立された金堂の釈迦三尊像の光背銘には「尺寸王身」とあることは有名です。つまり、法隆寺(西院伽藍)も上宮王院(東院)の夢殿も、坐像と立像の違いであって、ともに太子等身とされる像を本尊としていたことに高田氏は注意します。ここまで実は前置きであって、この論文の目的は西院伽藍の聖霊院造立に関して検討することです。

 さて、上宮王院については、奈良時代に行動力のある僧侶、行信が造立したことは有名です。『法隆寺東院縁起』では、蘇我入鹿の軍勢によって焼き討ちされた斑鳩宮の跡が荒れ果てているのを歎き、春宮坊、すなわち、皇太子であった阿部内親王(後の孝謙天皇)の担当部署、つまりは阿部内親王に奏上しました。

 すると、春宮坊が天平11年(739)に河内山贈太政大臣(藤原房前)に造らせ、八角円堂、つまり夢殿に「太子在世に造り給ふ所の御影救世観世音菩薩像を安置」した、とされています。

 この『東院縁起』については、阿部内親王が立太子した天平10年(758)より前の天平7年に(755)に春宮坊が「聖徳尊霊」と今上天皇の奉為に『法華経』を講読せしめたと記していたり、房前は天平9年(757)に亡くなっているなど、記述が合わず、信頼できないといった指摘がなされていました。

 しかし、大橋一章氏は、阿部内親王の母である光明皇后が熱心な聖徳太子信仰を有していたため、天平8年(756)2月22日の太子の忌日に、行信が法隆寺で行った『法華経』講会は、光明皇后を含め、その母であった県犬養橘三千代に連なる女性たちが経済的に支援したものであり、その時期に光明皇后の兄である房前が造立に関わったのであって、その死後は房前の息子の永手が事業を引き継いだため、上記のように記されたと説いており、高田氏もそれに賛同します。

 天平8年の講経にあたっては、行信が皇后宮の長官であった安宿倍真人らを率い、律師の道慈に『法華経』の講義をさせていますが、その講経を仕切ったとされる安宿倍真人は、光明皇后の若い頃から仕えていた股肱の臣であるため、高田氏は、これらの事業は実際には光明皇后が支援したものと見ます。

 講経の際に光明皇后とともに無漏女王も奉納していますが、無漏女王は橘三千代の娘であって房前の正室ですので、やがて立太子して天皇となる予定の阿倍内親王を表に立てての一門総出の事業だったわけですね。

 このように、太子の忌日に上宮王院の建設予定地において太子供養のための『法華経』講経がなされたのです。ただ、『東院縁起』によれば、この講会だけでなく、上宮王院そのものが一時期荒廃したと記されています。そのため、平安時代に入って貞観元年(859)に道詮によって上宮王院の堂舎が修理され、忌日法要が整備されたわけです。

 以後のあり方としては、南北朝頃の『法隆寺白拍子記』によれば、音楽の法要に続いて、『法華経』『涅槃経』『維摩経』『勝鬘経』の「妙文」が読誦され、報恩の儀礼がなされた由。

 高田氏は注記していませんが、『涅槃経』とあるのは、『法王帝説』に上宮王が『涅槃経』に通じていたと書かれていたことに関係するのでしょう。実際には、三経義疏作者は長大な『涅槃経』はきちんと読んでおらず、『法華経』や『勝鬘経』などの注釈に引かれている経文を読んだだけと思われます。

 ここから後が、この論文の中心なのですが、以後は簡単に。冒頭で述べたように、法隆寺の経尋が法隆寺の東室の南三坊を改めて聖霊院にします。聖霊院には太子の御影を安置するだけでなく、保安2年(1121)に山背大兄と殖栗王、卒末呂王の三人の像も移します。

 ただ、聖霊院が現在の姿になったのは、鎌倉時代になってからであり、鈴木嘉吉氏が指摘するように、弘安7年(1284)に建物を全面的に建て直してからのことです。そこには、太子が35歳の時に自ら描いたとする肖像画と称する画が安置され、太子の霊場として整備されてゆきます。

 江戸期に編纂された『庁中漫録』では、聖霊院について、太子が自ら三面の鏡を用いて、自らの摂政姿の像を造ったのであって、その時に用いた鏡と小刀が宝蔵に安置されていると述べたうえ、しかも太子像の体内に蓬莱山を造り、太子の胸のあたりに、インド原産の金を使って造った五寸ほどの救世観世音菩薩像を納め、『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の三経も納めたと説くなど、伝説化が進んでいます。

 高田氏は、これらは聖霊院における太子信仰は、太子は救世観世音菩薩の化身であって三教によってこの世を濟度するというものであり、上宮王院との差別化をはかったものと推測します。

 このように、太子信仰は古代かから一貫しているものの、その内実と支持者は時代によって移り変わっているのであり、その点に注意しないといけないのです。