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法隆寺聖霊会は元々は『法華経』講経が中心で梅原猛が騒いだ蘇莫者など登場しない:高田良法「法隆寺聖霊会成立について」

2024年06月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 梅原猛が、法隆寺は怨霊となった聖徳太子のための鎮魂の寺だとするトンデモ説を発表したのは、法隆寺の聖霊会で、異様な出で立ちで荒ぶるような蘇莫者の舞楽を見、「太子の怨霊だ!」とひらめいたことがきっかけでした(こちら)。ひらめき大先生ですね。

 しかし、法隆寺における聖徳太子の忌日法要である聖霊会は、もともとは『法華経』講経が中心であって、舞楽などはおこなっていませんでした。その聖霊会について論じた最近の論文が、

高田良法「法隆寺聖霊会成立について」
(『奈良美術研究』第23号、2022年3月)

です。

 名前から推察できますが、法隆寺の管長もつとめ、法隆寺の歴史研究で知られた高田良信師のご養子である由。『奈良美術研究』は、奈良をこよなく愛した会津八一が育てた早稲田大学の美術史の研究者たちで構成されている奈良文化研究所の雑誌です。

 私は八一が好きだったので、大学時代は、八一の弟子である書道史の加藤諄先生の授業に出て、八一の思い出を聞きました。私が駒澤大学仏教学部に在職していた時に社会人入学で入ってきて、私の授業に2年間、最前列で無遅刻無欠席で出席していた萩本欽一さんが退学した際は、独自の書風で知られた八一の「游於藝(芸に遊ぶ)」という字が記されたバッグに八一の図録を入れて贈ったりしたことでした。

 それはともかく、高田氏は、現在の法隆寺の聖霊会は、東院伽藍の夢殿前から行列が出発し、西院伽藍の大講堂前まで練り歩き、そこで法会を開催することになっているのは、元禄4年(1691)に始まると述べます。しかし、聖霊会は、元々は夢殿を中心とする上宮王院(東院)で太子の忌日法要として行われていたのであって、南都楽所が出仕して舞楽や雅楽を奏するのは後代になっての型式なのです。

 その上宮王院が成立したのは、『法隆寺東院縁起』によれば、天平7年(735)の12月20日に、春宮坊(皇太子を担当する役所、実質的には皇太子)が聖徳太子および現在の天皇のために『法華経』講読の施料を寄進し、翌年の2月22日、つまり太子の忌日に法師の行信が、皇后宮職の長官、安宿部真人らを率い、道慈律師を講師に迎え、多くの僧尼を聴衆として『法華経』講経をおこなったのが起源です。

 この記述については、阿倍内親王(後の孝謙天皇)が皇太子になる前であるのに春宮坊とあるのはおかしいなどの疑義が出されていましたが、反論も出されており、高田氏は、実質としては、光明皇后が娘の阿倍内親王を表に立て、若い頃からの自分の側近である安宿部真人に指示して取り仕切らせたものと見ます。

 開催された場所については、近藤有宜氏が、資材帳などの記述から見て、天平8年の講会の際の寄進は法隆寺に、翌年の寄進は上宮王院になされていることを指摘しているため、天平は8年は法隆寺で、翌年は造営された上宮王院でもよおされたと高田氏は推測します。

 実際、『東院縁起』によれば、天平19年(743)に摂津の住吉郡と加古郡の墾田が上宮王院に施入されており、『東院資材帳』にもこれに対応する記述があるため、これらは『法華経』講会のための資財として寄進されたことが分かります。

 ただ、この『法華経』講会はやがて廃絶したようで、『東院縁起』によれば、貞観元年(859)に道詮が朝廷に働きかけ、平群郡の水田七町が講会および堂舎の修理のために施入され、講会が復活しています。

 この講会が「聖霊会」と呼ばれるようになった初出は、『法隆寺別当記』によれば、興福寺の僧であって承保2年(1075)から完治8年(1094)に亡くなるまで法隆寺別当を務めた能算の時です。この能算は後冷泉天皇・白河天皇などに祈祷などで奉仕した人物で、その褒賞として法隆寺別当となったようです。

 この能算が聖霊会を2度おこなっており、寺僧たちの反発を買ったようです。次の二代の別当の時はおこなわれておらず、その次の興福寺僧の定真が別当になっていた時期の記述に、「聖霊会料ならびに舞装束六具」が朝廷から下されたとある由。つまり、行信の頃の『法華経』講会とは異なってきたのです。

 その少し後に、経尋が法隆寺とは別組織だった上宮王院を法隆寺の管轄下に置き、また法隆寺西院伽藍に聖霊堂を建立し、聖徳太子信仰・法要の主導権を握るのですが、これについては高田氏が別の論文で扱ってますので、別に紹介します。

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