聖徳太子研究の最前線

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伝説的な太子伝の記述を疑わない羊頭狗肉の素人太子論:橋本晋吉「聖徳太子の御聖業―神仏融合と”和”の精神」

2024年07月15日 | その他

 聖徳太子については、いろいろな分野での検討が進んだ結果、現在では、推古朝を聖徳太子の時代と見るような一時期の太子観は改められ、また太子の事績をすべて疑うような極端な説もむろん否定され、『法王帝説』が説いているように推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三頭体制であったとする見方が主流となっています。政務は分担したでしょうし、厩戸皇子が若い時期は、その義父であって推古の叔父であった馬子大臣の主張が基本だったでしょうが。

 ただ、学界以外では、指導要領案が聖徳太子ではなく「厩戸王」という名を標準としようとした騒動(こちら)に対する反発として、聖徳太子の役割と意義を強調する動きが目立つようになってきました。

 その中には、『日本書紀』の記述や伝説化が進んだ後代の太子伝の記述を鵜呑みにし、自分が考える理想的な聖徳太子を論じるような言説が目立ちます。その最近の一例が、

橋本晋吉「聖徳太子の御聖業―神仏融合と”和”の精神」
(『在野史論』第18号、2023年12月)

です。

 橋本氏は、歴史研究会の有志で運営しているという、この『在野史論』という雑誌に古代史の論考を多数執筆しているほか、この研究会が「在野史家の研究発表の場」として昨年刊行した『古代史の新研究』にも寄稿されています。

 この書物はホームサイトによれば、「(在野史家の)みなさまのロマンと熱意のあふれる玉稿が盛りだくさんです」とのことですが、古代史のロマンと熱情となると、珍説奇説コーナーでとりあげた梅原猛のように、空想先行の方向に行きそうで、ちょっとアブナイですね。

 研究の質は、むろん、その人が大学や研究所に属しているかどうかは関係ありません。実際、私の長年の友人であって最も畏敬する存在である彌永信美さんなどは、東洋学の出版物を出しているフランスの研究所で編集の仕事をしばらくしたことがあるだけで、大学や研究所に属さないどころか、フランス留学者を中心とした集まりである日仏東洋学会以外には、誘いを受けけてもどの学会にも入らずにきました。

 ですから、在野の研究者ということになりますが、該博な知識と鋭い批判精神によって後世に残る研究をしており、多くの研究者たちから尊敬されています。

 また逆に、有名大学の教員であっても、学力が無いのに有力教授の親戚という立場で潜り込んだり、あるいは若い頃は優秀であっても、職を得てからはまったく駄目になった人もいます。学位論文を書いた頃まではまともだったものの、本郷の某大学に就職してからは研究をしなくなり、授業では自分のかつての研究内容や思い出話などばかりし、定年でやめたのが在職中の一番の功績だと言われた某先生が思い出されます。

 ですから、在野の研究者とかプロの研究者といっても様々なのですが、在野の研究者と称する歴史マニアが書く聖徳太子論には、このブログの「珍説奇説コーナー」が示すように、九州王朝説論者を含め(こちらなど)、内容も文章も拙劣なもの、論文以前のレベルのものが多いのは事実ですね。

 橋本氏のこの論文は、題名が興味深く、33頁もある大作なので取り寄せたところ、かなりお粗末なものでした。ただ、「通説をひっくり返してやる!」といった野心に基づくトンデモ説ではなく、また、やや戦前風な太子観が見られるものの、日本の伝統・国体の優秀さを強調するような国家主義的な立場とも異なっています。

 ですから、歴史マニアが資料を並べて聖徳太子に関する自分のイメージを述べたエッセイの一種ということで、珍説奇説コーナーや「史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論」コーナーではなく、「その他」のコーナーに置いておくことにしました。

 この記事のタイトルに「羊頭狗肉」と記したのは、氏の論考の副題は「神仏融合と”和”の精神」となっているものの、本文では「神仏融合」の話が出てこないためです。これはひどい。なお、論文の題名にある「御聖業」といった言い方は、戦前・戦中の国家主義的な聖徳太子論に良く見られたものですね。

 橋本氏は、初めの部分で、「聖徳太子は……将来、皇位を継ぐ『皇太子』となり、同時に『摂政』に就任して、内外の政治に当たった」と書いています。歴史学の論文としては、この時点で落第です。

 律令制の皇太子に当たるような補助役についたと考えられる、といった書き方なら良いですが。また、『日本書紀』では「摂政」の語は動詞として用いられており、「摂政」という位があったわけではないことは常識中の常識です。

 要するに、『日本書紀』の記述を史実そのままと見、後世の伝説化が進んだ太子伝の記述については、伝説とみなしながら、そのように描かれる優れた人物であった、という方向で論を進めるのです。これでは歴史学の論文にはなりません。最初から太子礼賛の結論が見えているわけですし。

 当然ながら、資料の羅列となり、良く考えて書いていないため、前後がつながらない文章を書きがちです。たとえば、太子が2歳の時、東方を向いて「南無仏」と唱えたという伝説を紹介する際、「東向きに対し、『南無仏』と唱えて」などとおかしなことを書いています。

 こうした妙な書き方が内容にまで反映している例も少なくありません。たとえば、伝説化が進んだ『聖徳太子伝暦』では、父である大兄皇子(用明天皇)が、母に抱かれていた3歳の太子に向かって、桃の花と松の葉とどちらが好きかと尋ねると、桃の花は一時のものであるのに対し、松は百年の常緑樹であるため松葉の方が好きですと答えたと記していますが、橋本氏はこれについてこう述べます。

事実の認識として考えた時、太子の一生は”桃の花”の如き、香しく栄え、深く散ったのである。そこには、桃華の花やかさを実践したとみるのが自然であろう。

「事実の認識として考え」るとは、どういうことなんでしょう。「如き」は「如く」でないとおかしいですし、「深く散った」とは、地中深くに至るほど突き刺さったということなんでしょうか。それに、潔く散るというのは、平安以後の桜の花のイメージですので、桃の花とは合いません。

  副題に「”和”の精神」とあるため、詳しい説明があるはずながら、「十七条憲法」については、「概して仏教思想がその根底にあると考えられる」とし、「官人への訓誡を超え、人間の倫理として”和”の重要性を説いているのも仏教の精神そのものだからである」と断言してますが、「憲法十七条」は群臣や官人たち相手に書かれたものであり、「民」は対象になっていません。

 また「人間の倫理として”和”の重要性を説いているのも仏教の精神そのものだから」と述べていますが、どの経典がそう述べているんでしょう? 「和合」は僧団の特質とされたものですし、仏教では「六和敬」を説き、「和顔愛語」を重視することはあるものの、釈尊が一般の人に対して「和」を説いた経典を示さず(そんな経典があるのか?)に、「仏教は……」というのは、仏教に関する橋本氏の単なるイメージです。

 太子が仏教精神に基づいて「和」を尊重していたと主張するなら、三経義疏からそうした箇所を示すべきでしょう。しかし、氏が三経義疏について触れた箇所では、「現世利益」の『法華経』、「女性を対象」とした『勝鬘経』、「在家教義」の『維摩経』と書いています。

 『法華経』には観音による衆生救護を説く普門品など、現世利益の面もありますが、『法華経』全体を現世利益の経と呼ぶことはできませんし、『法華義疏』は『法華経』をそんな経典とは見ていません。

 また、『勝鬘経』は女性の勝鬘夫人が説法していますが、女性相手に語ったものではなく、『維摩経』は在家の居士である維摩詰が主人公であるものの、在家の教義を説いているわけではないうえ、維摩詰自身は別の世界の仏が仮に維摩詰として現れたものとするのが伝統的な注釈です。

 つまり、三経義疏を読んでいないどころか、三経義疏に関する学術的な論文もきちんと読んでいない証拠であって、仏教については無知なのに、「和」は仏教の精神だと説くのですね。

 こんな調子で見ていくと、一生懸命調べて資料を羅列した大学1年生の不出来なレポートを直すような作業になるため、ここらでやめておきます。とにかく、聖徳太子を無暗に持ち上げる人には、こうしたタイプが多いのは困ったことです。