聖徳太子研究の最前線

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逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(3)

2022年02月20日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 井沢氏の聖徳太子論は、シリーズ第1巻となる『逆説の日本史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』(小学館、1994年)の主張に基づいていますので、ここでそちらを見ておきます。

 「第一章 古代日本列島人編ー日本はどうして「倭」と呼ばれたのか」では、古代の日本人は集落を「わ」と呼んでおり、濠をめぐらしていたので、これを表記する際、「輪状」のものとか「めぐらす」という意味の「環」や「輪」の字をあてたとします。そして、「わ」には「人間のつながり、親交」という意味もあるとし、我々の先祖は、こちらの面を示すため、音も意味も最も近い漢字として「和」を選んだのだと説きます。

 「和」を「わ」と発音するのは、漢字音ではなく大和言葉の「わ」を当てたのだというのは、国語学では聞いたことがなく、国語辞典や古語辞典などにも載っていない珍説です。そのような大和言葉の「わ」があるなら、『万葉集』などにそうした用例がありそうなものですが、まったく出てきません。

 また、「憲法十七条」の第一条の「和」が実質的には大和言葉の「わ」であるなら、第一条冒頭の「以和為貴」を訓読する際は、現在は中国古典に基づく表現だということで「わをもって~」と「和」の漢字音で訓んでいるのと違い、大和言葉の「わ」ということで「わをもって~」訓んだことでしょう。

 しかし、『日本書紀』の講書では、できるだけ和語で訓読しようとしていたことが指摘されており、「憲法十七条」についても様々な古訓が残っていますが、その中にはそうした例は見えません。

 斯道文庫編『諸本対照 十七條憲法訓読並校異』(汲古書院、1975年)では、21ものテキストを示しているものの、第一条「以和為貴」の「和」については、「ヤハラケル」「ヤハラカナル」「ヤハラキ」「アマナヒ」「ニコヤカナル」などと訓んでおり、苦労がうかがわれます。つまり、「和」を「わ」と訓んでいるものは皆無なのです。

 「和」を漢字音のまま訓んでいるのは、朱子学の立場で解釈している玄恵注だけであって、ここでは発音を「クワ(=クァ)」と表記しています。つまり、南北朝頃ですので、「和」を古い呉音の「ワ」でなく漢音の「カ」で発音しているのであって、「ワ」よりは喉奧で発音する現代中国語の「和( hé)」に近い音を示しているのです。

 中国における「和」の発音の変化については、台湾の中央研究院の「漢字古今字資料庫」で検索すると、いろいろな時代や諸地方の発音が表示されます。「字形」のボックスところに「和」とか「倭」などを入力し、「確定送出」をクリックして、ページ下部の「上古音・中古音・官話~」などの項目を選んでクリックしてみてください(こちら。別な字を調べる場合、前の字の「字號」は消します)。

 「和」という漢語に発音と意味が似た「わ」という大和言葉があったとする井沢説は成り立ちません。要するに、「人という字は、人が人が支えている形です。人と人が支え合っているから人なんです」などと説明するのと同じであって、もっともらしいものの、歴史的には正しくない民間語源解釈の類なのですね。

 井沢氏は、日本の根本原理は「わ」であったことの証言者が聖徳太子だとし、「憲法十七条」が説く「和」は儒教でも仏教でもなく、この人間の親交を意味する「わ」だと述べ、自分の新発見としています。

 しかし、「憲法十七条」の説く「和」が儒教の「和」と異なっていることについては、『逆説の日本史』よりかなり前の1984年に指摘した中国学の論文があり、このブログでも紹介しました(こちら)。また、儒教の「和」や仏教の「和」とは異なると説くのは良いですが、影響を受けていることに触れていないのは、儒教や仏教を知らないためにほかなりません(こちら)。

 ここで、『逆説の古代史2』に戻ります。井沢氏は、こうした「わ」は仏教ではなく、「日本教」とも言うべき「日本人の伝統的な考え方」であったとします。そして、そのことを明示した厩戸皇子が「聖徳太子」として尊重されるようになるには、「日本古来の伝統的宗教感情があった」とし、それを「御霊信仰と一応言っておく」と述べ、いよいよ怨霊説に入っていきます。

 井沢氏はその際、御霊信仰は仏教には元々無かったものであって、現在の日本仏教が先祖供養や怨霊鎮魂をやっているのは、仏教が日本に入ってきて「日本教」の影響で変質したものだと論じています。

 しかし、インド仏教でも餓鬼(プレータ)の救済などの形で先祖供養はなされていましたし、「孝」を尊ぶ中国では、亡き父母や先祖の供養は仏教の重要な任務でした。死んだ親の位牌を祀ったり七回忌をやったりするのは、いずれも儒教の影響を受けた中国仏教の風習です。

 それに、鬼神を鎮伏するのは、ヒンドゥー教の影響が強い密教の得意とするところであって、日本で「怨霊」という言葉が登場するのは、雑密(ぞうみつ)と呼ばれる類の呪術的密教が盛んであって、空海による純密(最近は雑密・純密の語は使わなくなっていますが)が導入される直前の9世紀初めですね。

 神道の「祓え」は『薬師経』などの影響を受けていることが示すように、日本古来の風習と考えられているものの中には、仏教の影響を受けているものがかなりあるのです。むろん、逆に外国由来のように見えて、実際にはまったく日本風なものに変質してしまっているものも多いのですが。

 井沢氏は第1巻の「第二章 大国主命編 「わ」の精神で解く出雲神話の“真実”」では、アマテラスとオオクニヌシが「話し合い」をしているところに日本の古くからの伝統、つまり、「「わ」の精神」の発生原因を見ていますが(134頁)、『日本書紀』のアマテラスの描写には『金光明経』その他の仏教の影響があることは、家永三郎が早くに指摘していました。

 また、『日本書紀』でもアマテラスは成立の新しい部分に出てくることが近年の研究で明らかになっています。ですから、6世紀から7世紀前半頃の神話はどうであったかはともかく、720年に奏上された『日本書紀』に見えている形のアマテラス神話について言えば、聖徳太子より後になって作られたことになります。

 アマテラスの「話し合い」の姿勢を、仏教や儒教が入る前の古代日本人の素朴なあり方を示すものとし、それが「憲法十七条」の「和」を生んだ背景だとすることはできません。

 また、「憲法十七条」は話し合いによる意見の一致を強調していましたが、日本が制度の手本とした古代韓国の諸国でも貴族の合議がなされていました。新羅の貴族会議は全員一致が原則となっており、その会議は「和白」と呼ばれていたことは、学界ではかなり前から知られています。このこともブログで紹介してあります(こちら)。
 
 さて、井沢氏によれば、聖徳太子は一族を皆殺しにされ(これが事実でないことは、先の記事で指摘しました)、また自殺している変死者であるために怨霊とされたと説くのですが、怨霊となったとする史料はまったくありません。梅原猛氏が、伎楽を見て「直観」でそう誤解しただけです(こちら)。

 井沢氏はさらに、島流しにされるなど不運な死に方をした天皇には「徳」の字を持つ諡号が多いという古くからの話を聖徳太子にあてはめ、こうした立派な名がつけられたのは怨霊となった太子を鎮魂するためだと力説します。

 実際には、流されるなどして不遇な死に方をしても「徳」の字がついていない天皇たちもいるのですが、井沢氏は、土御門上皇などは「雅びでおっとりした」性格だったのでそうならなかったのだ、などという珍説明をしています。

 また、「第二章 天智天皇編」では、第一章部分の連載を読んだ読者から、神武天皇から称徳天皇までの諡号は淡海三船が一度につけたものであり、懿徳天皇や仁徳天皇に「徳」の字をつけるのはおかしいという反論を受けたとして、これに反論しています。第一章にあたる部分を連載していた頃は、『日本書紀』の天皇の漢風諡号は、数人の天皇を除いては三船がまとめて撰進したことを知らなかったようですね。

 困った井沢氏は、「そもそも、漢風諡号が三船によって選ばれたことなど、あり得ないと考えている」と切り捨て、三船撰進説は同時代の『続日本紀』には記されておらず、少し後の『釈日本紀』に見えるため、「学者の中にも断定は出来ないという人は多い」(233頁)と述べます。

 そして、天智天皇の「天智」というのは中国最悪の帝王である紂王が所持していた宝玉の名であって悪い名であるため、子孫である三船がそんな諡号をつけるはずがない、と力説しています。これは苦しい弁明ですね。

 実際には、中山千尋「天皇の諡号と皇統意識ー漢風諡号の成立をめぐってー」(『日本歴史』622号、2000年3月)などが示すように、漢風諡号の撰進時期や採用時期については異説があるものの、三船がつけたというのはほぼ通説になっています。「断定は出来ないという人は多い」というのは正しくありません。

 多いというなら、代表的な数人の名を出せば良いだけのことですが、そうしていませんし、歴史学者を批判していながら、こういう時だけ歴史学者の説を頼りにするのはいかがなものか(ちなみに、私は歴史学者ではありません。専門は「ちちの仏教学」?と称してます。こちら

 そのうえ、奈良時代半ばすぎに活躍した三船は、天智天皇の遠い子孫にすぎないのに対して、720年に『日本書紀』が奏上された時の天皇は、元正天皇であって天智天皇の孫です。天智天皇と天武天皇の関係は微妙であり、天智紀・天武紀はそれを反映していて史実でない記述も見られるものの、天智天皇の孫である天皇に奏上される『日本書紀』が、祖父の天智天皇を紂王のような悪逆な帝王扱いして書くはずはありません。実際、そうした記述はないのです。三船は、その『日本書紀』を読んで歴代天皇の漢風諡号をつけたのですが。

 次は、「聖徳太子」という名です。井沢氏は、「聖」というのは、「本来、怨霊となるべき人が、善なる神に転化した状態を表現した文字だ」(165頁)と説くのですが、前の記事で指摘したように、聖帝の代表である仁徳天皇などはあてはまりません。

 この名が文献に見える初出は、751年の紀年を持つ漢詩集、『懐風藻』の序であり、『懐風藻』は三船の編集と見て良いとするのが現在の学界の説です。

 私はさらに、三船は、「太子は天台宗の開祖の天台大師の師である南岳慧思の生まれ代わりだ」とする説を主張した天台宗系の鑑真門下と親しくしており、『経国集』に見える三船の漢詩でも、その立場に立って厩戸皇子のことを「聖徳太子」と称していることを指摘しました(こちら)。仁徳天皇などの諡号を定めた三船が、厩戸皇子を礼賛して「聖徳太子」と呼んでいるのです。

 以上、述べてきたように、井沢氏の聖徳太子論は、最初から最後までこうした調子のものでした。研究者の最新の研究成果をきちんと踏まえたうえで、ところどころで自分の独自な解釈や推測を示すという形でなく、不勉強なまま梅原猛氏や豊田有恒氏などの想像説にとびつき、誤った前提の上に立ったうえで想像を重ねていっているだけです。新刊の『聖徳太子のひみつ』は、こうした旧作を切り貼りするばかりで、近年の研究成果を調べようともしておらず、旧作では触れていた参考文献の名などを省いてつくりあげた粗雑本です(こちら)。

 この3回の連載で触れなかった間違いもありますし、『逆説の日本史2』では、私が中国・韓国・日本の華厳思想を扱った博士論文で取り上げた聖武天皇の大仏建立についても不適切な記述が目立ちますが、この聖徳太子ブログで論じるのはやめておきます。

【追記:2022年2月21日】
 歴史学者を批判する井沢氏が、研究者より作家の推測を重視していることは確かなので、怨霊説についても梅原猛以外にヒントになった作家はいないかと探したところ、小松左京らしいことに気づきました。短編小説集『怨霊の国』(角川書店、1972年)に収録され書名とされた「怨霊の国」の末尾では、「いずれにせよ、われわれのものの見方はかたよりすぎ、不完全なのだ。とりわけ「歴史」に対してそうだ。精霊や、妖精、怨霊や、悪縁や、ーーかつてまじめに論じられ、現代では一笑に付せられているこういったものの存在を、ある、あるいは、あったと仮定して世界を見なおすと、今まで見えなかった部分が見えてくる、という事がたくさんあるのではないか?」(112頁)と述べています。井沢氏の基本姿勢は、これであるように思われます。
 『逆説の日本史1』の「序論」で、呪術的側面を無視するのが日本の歴史学者の三大欠陥中の最大の問題だと論じた部分では、山本七平が『比較文化論の試み』で、何かがいると感じることを「臨在感」と呼んでいることを紹介していますが、小松左京の名は出てきません。
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