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逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(1)

2022年02月16日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 少し前に井沢元彦氏の『(「日本教」をつくった)聖徳太子のひみつ』(ビジネス社、2021年)を取り上げました。

 この本は、最近の研究成果を参照していないばかりか、この本の図式の元となっている「日本教」という言葉を創った山本七平氏にすら触れておらず、基礎資料である『日本書紀』や三経義疏その他については、もちろんきちんと読まずに誤読に基づく断言を並べたてています(こちら)。

 井沢氏はしきりに独創を誇るものの、聖徳太子観については、SF小説第一世代の1人として活躍し、歴史小説や歴史読み物も手がけた豊田有恒氏の聖徳太子作品にかなり依拠しているように見えます。その豊田氏は、『聖徳太子の悲劇』(祥伝社、1992年)では、

小説家は物語の進行の都合上、ストーリーが面白くなるように、文献資料を恣意的に使う特権をあたえられているが、それと同じことを本職の学者がやってはいけない。(211頁)

と注意していました。また、私の敬愛する幸田露伴は、日本の歴史小説の最高峰と思われる『連環記』では、三河守定基について述べていて、定基の浮気を怒った妻との喧嘩を描くところまで来ると、

小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりやこそ、時至れりとばかり筆を揮つて、有ること無いこと、見て来たやうに出たらめを描くのである。と云つて置いて、此以下は少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思つていたゞきたい。但し出たらめを描くやうにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。(『玄談』日本評論社、1941年)

と、ユーモア混じりに述べています。余裕ですね。実際には、露伴は歴史学者以上に幅広い教養を備えており、この小説でも、時に想像を交えつつ、軽妙な文体に託して恐るべき博識をさりげなく披露しています。

 ところが、井沢氏の『聖徳太子のひみつ』は歴史小説でないのに、こうした区別に留意せず、参考にした文献に触れず、歴史の真実を明らかにしたと称して「出たらめ」を書きまくっているのです。

 日本の歴史学者と違って自分は世界史に通じているという自己宣伝はどこへ行ったのか、諸国の仏教や中国思想との詳細な比較はまったくしていませんし、誤読のひどさから見て、史料を元の漢文で読んで比較するだけの学力がないことは明らかです。

 面白いことに、ビジネス社の『聖徳太子のひみつ』は、末尾で同社の本を4冊宣伝しており、その最後に、山本七平・小室直樹『日本教の社会学』(2016年)がありました。これは、講談社から1981年に出された同書を再刊したものです。

 その宣伝では「待望の復刊!」と記されており、これは看板に偽りなしですね。山本・小室氏によるこの本は、博学で見識を有する個性的な人物同士による対談であって示唆に富んでおり、有益な本です。センセーショナルにあおり立てるばかりで間違いだらけの井沢氏の本とは比べものになりません。

 井沢氏は『聖徳太子のひみつ』の本文では「日本教」という言葉自体は用いていないものの、表紙では「「日本教」をつくった」と記してあるところを見ると、『日本教の社会学』を復刊したビジネス社は、自社が復刊したこの本を念頭に置いて『聖徳太子のひみつ』を企画宣伝しているらしいことがうかがわれます。

 さて、井筒氏が長年刊行し続けている「逆説の日本史」シリーズのうち、第2巻は『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(小学館、1994年)です。刊行された当時、私は題名を見て、とっくの昔に学問的に否定された梅原猛の怨霊説を今さらむしかえしていることに呆れかえり、手に取ることもしませんでしたが、今回、検討のため、第2巻と第1巻『逆説の日本史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』(小学館、1994年)の古本を購入して眺めてみました。

 このシリーズは、例によって題名が問題ですね。「逆説」というのは、paradox の訳語であり、通説の反対であって真実ではないようでありながら、真実の一面をついていている言明、というのが基本の意味です。西洋では「(足が速い)アキレスは亀に追いつけない」というゼノンの逆説、東洋では『老子』の「大道廃れて仁義有り」などの言葉が有名ですね。仏教では、「般若は般若でない。だから般若だ」といった『般若経』の主張などが逆説の例として知られています。

 ところが、『逆説の日本史』の第1巻と第2巻の章名を見る限りでは、どれも本来の逆説になっていません。歴史学者たちを批判し、「通説」に「逆らった」説を述べた、というだけの意味で「逆説」の語を用いているように見えます。第2巻「第一章 聖徳太子編ー「徳」の諡号と怨霊信仰のメカニズム」の場合は、たまたま例外であって、「聖徳」という立派な名前がついているのは怨霊を鎮めるためだという逆説風な形になっていますが。

 あるいはこの聖徳太子の章が発想の元であって、この路線で日本史全体を書こうとして「逆説の日本史」という書名が生まれたのか。しかし、柱となる太子怨霊説は早くに否定されており、「聖徳」という名の由来も論証不足であって、そもそも出発点が間違っているのですから話になりません。

 また、第2巻で「第一章 聖徳太子編」に続く「第二章 天智天皇編-暗殺説を裏付ける朝鮮半島への軍事介入」中の「「天智暗殺の実行犯」天武天皇は”忍者”だった!?」の節では、驚異の新説のように述べていますが、天智暗殺説も天武忍者説も豊田有恒『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』のうち、「ミステリー⑥ 聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか」に続く「⑦ 天智天皇は暗殺された!?」で書いていることですね。

 井沢氏は、忍者説については、「『英雄 天武天皇 その半生は忍者だった』(祥伝社刊)の著者豊田有恒氏は次のように書いている」(282頁)として、その部分を引用していますが、聖徳太子→天智天皇という章立ての順番ばかりか、「!?」という記号まで一致しているではありませんか!?

 つまり、井沢氏の説く「逆説」なるものは、豊田氏の説にかなり頼っておりながら、後になるとその点の明記が次第に減っていくのです。これは「話し合い至上主義」が日本教だとする主張も同様です。『逆説の日本史1』では、日本人の根本原理は「話し合い至上主義」であると山本七平氏が指摘していると述べ(105-106頁)、「聖徳太子は熱心な仏教信者であり、山本氏はキリスト教信者である。だからこそ、それが見えたのである」(108頁)と述べていました。

 聖徳太子と並べ称するほど山本氏を高く評価し、その図式を受け継いでおりながら、『逆説の日本史2』の結論にあたる部分で、怨霊信仰こそが「日本教」だと述べた際は、『逆説の日本史1』で触れたからそれで十分ということなのか、山本氏には言及しません。ただ、その「日本教」を説明する際は、意味合いは違うものの、「日本教」という言葉を有名にした山本氏の用語である「空気」という言葉を用いており(424頁)、山本説を意識していることがうかがわれます。

 さらに、『聖徳太子のひみつ』に至ると、山本氏の主張にはまったく触れていないため、山本氏の主張を知らない若い世代の読者は、この本だけ読んだら、「井沢先生の独創的な見解」と思うことでしょう。

 そもそも、井沢氏の本は内容の粗雑さで有名であって、たとえば忠臣蔵に関する記述のひどさについては、詳細で厳しい批判がなされています(たとえば、こちら)。しかし、一般読者はそうしたことを知らないうえ、世の中には井沢信者もいてかなりの影響を与えているため、ここで『逆説の日本史』の第1巻と第2巻における聖徳太子記述について検討しておくことにしました。

 読んでみたところ、前の記事で批判した『聖徳太子のひみつ』とほとんど同内容であって、文章も同じである箇所が目立ちます。つまり、『聖徳太子のひみつ』は、聖徳太子1400年遠忌で関心が高まっている時期に、聖徳太子に関する近年の研究成果などまったく確かめないまま20年近く前の間違いだらけの旧作を切り貼りし、参照した人名・資料名をかなり省いて作りあげた聖徳太子本だったのです。(以下、続く)
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