聖徳太子研究の最前線

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【珍説奇説】形式・内容とも論文になっていない善徳=入鹿=聖徳太子説:関裕二「蘇我入鹿の研究」

2023年05月20日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 聖徳太子関連の最近の論文をCiNiiで検索していたら、ヒットしたのが、

関 裕二「蘇我入鹿の研究」
(『武蔵野短期大学研究紀要』第36号、2022年)

 関裕二と言えば、四天王寺で講演した「「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉」(こちら)でも、聖徳太子に関する珍説を書いた戦後のトンデモ歴史ライターの系譜の中で紹介した一人です。そうしたライターが、なぜ大学の研究紀要に書くのか。

 調べてみたら、関氏は、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローとなっていました。誰が呼んだんでしょう。武蔵野学院大学に古代史で活躍している教員がいるかどうか知りませんが、少なくともこの研究所にはそうした研究者はいませんので、注目されるために歴史方面の有名人を呼んでみたということでしょうか。質を考えてほしいですが。

 いずれにしても、大学の紀要に書くとなれば、学術論文の形式・内容でないといけないはずです。しかし、上記論文をコピーして読んでみたら、最初のところでこけました。

 横書き論文なのですが、「蘇我入鹿の研究」という題名の下に、英文タイトルが掲げられており、「A Study of Soganoiruka」となっています。Soga no Iruka でしょ? 

 そして、「キーワード」として、

 ①大化改新
 ②『日本書紀』
 ③『先代旧事本紀』
 …
 ⑪藤原不比等

と縦にずらっと並べたうえで本文が始まってます。横書き論文の場合、キーワードは、論文の末尾に、

 【キーワード】
 大化改新、『日本書紀』、『先代旧事本紀』、藤原不比等

などといった形で4つから5つほど付けるのが普通であって、冒頭に置く場合もありますが、論文冒頭で内容の簡単な目次を記しておくならともかく、①②③を付けてキーワードを11個も縦に並べるなどという形は、学術論文では見たことがありません。SNSのハッシュタグと間違えているのか。

 肝心の本文では、大化の改新がどのように研究されてきたかを最初に紹介しているのですが、

津田左右吉は……国家に移っただけにすぎないこと(1)、これは政治上の制度の改新であって、社会組織の変革ではないと主張した(2)。

と述べて注番号を付けていました。そこで、論文末尾の注を見てみると、

 1、津田左右吉『津田左右吉全集 第三巻』岩波書店、1964 162頁
 2、同書 260頁

となっています。何ですか、これは? こんな書き方では、いつ刊行されたどの雑誌にどのような題名で発表したのか分かりませんし、1と2が同じ論文なのか別の論文なのかも分かりません。

 研究史を厳密に紹介するなら、その論文の題名、初出の雑誌の名、号数、刊行年月などを示し、後に他の本や全集・著作集などに掲載されたなら、それについても付記しておく、といった形にする必要があります。後年の編集である全集の刊行年を示すだけでは、諸研究者が発表した説の前後が分かりませんので。

 関氏は、他の研究者についてもこうした注の付け方をしてますが、もっとひどい例があります。関氏は、『先代旧事本紀』は物部氏に残っていた古い伝承に基づいて編纂されたとする鎌田純一氏の説を紹介した際、そこを注33としているのですが、論文末尾の注33を見たら、

 33、鎌田純一『奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる』安本美典編 批評社 2007 111~112頁

となってました。この書き方だと、鎌田氏の本のように見えますが、実際は、安本美典氏が編集した本に掲載された論文なのですから、

33. 鎌田純一「『先代旧事本紀』の成立について」(安本美典編『奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる』、批評社、2007年)111~112頁。

などといった形で表記する必要があります。

 大学1年生がこんなレポートの書き方をしたら、先生に怒られるでしょう。古代について何十年もあれこれ書いていながら、漢文が読めず、引用の仕方も含め、学術論文の形で書けない点は、トンデモ説仲間である古田史学の会の会長・事務局長・編集長などと同じですね(こちらや、こちらなど)。

 論文の中身は、以前出していた『聖徳太子は蘇我入鹿である』その他のトンデモ本を論文の形式にしたもののようです。ただ、思いつき先行で大げさに書く日頃の古代史本ではなく、大学の紀要ということで論文らしくしようとしているものの、論文は書き慣れていないため、文章のつながりが悪いうえ、「~わけである。~わけである」が続くなど、粗雑な文章となっています。

 このように書くと、論文ではない歴史小説は認めていないようですが、私が尊敬しているのは幸田露伴であって、その最高傑作は歴史小説『連環記』だと信じています。歴史学者が遠く及ばない博学に基づき、西鶴以来の近世文学の到達点と呼びたいような素晴らしい軽妙な文体で物語が進んでいきます。破天荒な坂口安吾の歴史物も、すぐれた着想と安吾らしいくだけた文体が楽しめるので大好きです。小説は史実通りでなくてかまいません。

 それに反し、関口氏は、歴史小説家と呼べるほどの文体を持っておらず、また研究者を感心させるような知識見識に基づく歴史小説を書くことができず、まして学術的な論文はまったく無理、ということなのです。だからこそ、歴史の知識も文学の素養もない素人たちにうけるのかも。

 形式がこれだけひどいと読む必要はないのですが、内容の問題点も指摘しておきましょう。まず、関氏は、蘇我馬子が物部守屋の妹と結婚したことは、物部氏と蘇我氏が和解したことを示すのであり、『日本書紀』が蘇我氏と物部氏が対立したように描くのは事実と異なるとします。

 そして、『日本書紀』作成者である藤原不比等は、祖先である中臣鎌足が中大兄を見いだして蘇我本宗家を滅ぼしたことにしたいのだが、そのために蘇我氏の悪業を強調せねばならず、立派な人物であった蘇我入鹿を大悪人とし、その業績を厩戸皇子という聖人に仮託したのだとします。そして、入鹿は馬子の孫ではなく、子であって、法興寺を建てる主役であった善徳だとします。

 その証拠として、『先代旧事本紀』の序がこの書は厩戸皇子と蘇我馬子の撰集であるとしているのは、『日本書紀』が描く蘇我氏と物部氏の対立の図式は正確でないことを訴えたかったためだろうと推測します。しかし、学界では、この序は内容がでたらめであって、後になって付け加えられたことは早くから通説になっており、上記の鎌田氏の論文自体、「(五)序文添加の時期」という節を設けて検討し、平安末期から鎌倉中期の作としています。関氏は、自説に不利な点は無視するのです。

 また関氏は、『元興寺伽藍縁起』が、最初は推古天皇と廐戸皇子を中心に描いていながら、末尾で「高句麗の慧慈法師らとともに、蘇我馬子の長子の善徳を責任者にして、元興寺を建てさせた」と述べているのは、「本当は、善徳が主役だった」ことを示すとします。

 しかし、『伽藍縁起』は、推古天皇が用明天皇の遺志を継ぎ、用明の子である厩戸皇子と蘇我大臣に命じ、百済の慧聡・高句麗の恵慈法師、そして蘇我馬子大臣の長子である善德を「領」として元興寺をお建てになった、と述べているだけです。

 『日本書紀』では、馬子の長子である善徳を法興寺の「寺司」とした、と述べています。つまり、建立した主体ではなく、寺の建築や維持の実務責任者ですので、その点は『伽藍縁起』の記述と矛盾しません。

 また関氏は、『伽藍縁起』について、学界では推古天皇と解釈されている「大々王」が厩戸皇子とされる「聡耳皇子」に「我が子」と呼びかけているが、「大々王」は推古ではなく、『先代旧事本紀』に見える蘇我馬子の妻である「物部鎌姫大刀自連公」だとします。しかし、皇族でない女性を「大王」「大々王」「王」などと呼ぶ習慣は日本にはありません。

 『日本書紀』では馬子の子は豊浦大臣と呼ばれた蝦夷、その蝦夷の子が入鹿とされていますが、『先代旧事本紀』では、「物部鎌姫連公」は「宗我嶋大臣(馬子)」の妻となって、豊浦大臣を生み、その名は入鹿連公、としています。

 普通に考えれば、豊浦大臣は蝦夷、その子が入鹿とすべきところ、書写する際、途中の部分が抜けたとなりますが、関氏は、これそそのまま受け取り、豊浦大臣が入鹿であるため入鹿は馬子の長男だとし、したがって馬子の長子とされる善徳と同一人物だとするのです。

 しかし、「天寿国繍帳銘」では、孫娘である橘大郎女が「我大皇」「我大王」、つまり聖徳太子と死別した悲しみを訴え、往生した様子を図で見たいとお願いすると、推古天皇は「我が子」が申すことはもっともだと同情して繍帳を作らせています。可愛い孫娘を「我が子」と呼んでいるのです。そのうえ、厩戸皇子は、推古天皇の甥であり、かつ推古の娘である菟道貝鮹皇女を娶っており、義理の子ということになります。

 また、入鹿が馬子の長子だとすると、蝦夷はどうなるのでしょう。『日本書紀』では、蘇我本宗家の絶頂時代に、蝦夷が自分と息子の入鹿のために巨大な墓を二つ並べた形で生前に作り始めたが、蝦夷と入鹿が殺された後、その巨大な並び墓が取り壊され、後に小さめの墓を二つ作ることを許したとしており、実際に、二つの巨大な墓の跡と、少し離れた場所に作られた小ぶりな二つの墓が発見されていますが(こちら)。

 関氏は、『先代旧事本紀』と『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』について、「『日本書紀』のトリックを暴くために、隠語を駆使して告発の書を用意したのではないか」と述べるのですが、これはトンデモ本に多い「〜の暗号」のパターンですね。

 しかし、物部氏に関する最新の研究書、篠川賢『物部氏ー古代氏族の起源と盛衰』(吉川弘文館、2022年)では、物部氏は守屋が殺された後もかなりの勢力を保っており、特に物部連から石上朝臣と改姓していた石上麻呂は、持統・文武・元明・元正朝にかけて活躍し、晩年は14年間にわたって太政官の首座にあったことに注意しています。

 しかも、麻呂は舎人親王を総裁とした『日本書紀』編者の一人であって、『日本書紀』の記事は物部氏を顕彰しようとする方向で書き換えられた(あるいは加えられた)と考えられる箇所が多く、これは麻呂の存在によるところが多いとしています。

 『日本書紀』が当時の権力者である藤原不比等などに都合良く書かれている部分があるのは当然であって、このことは前から指摘されていますが、だからといって、多くの有力氏族が提出した資料に基づいて編集され、完成したらすぐ公開での講義がなされた『日本書紀』を、あまりにも藤原氏だけに都合良く書き換えるのは不可能だというのが、最近の学界の定説です。

 関説は、要するに不比等が独断で強引に書き換えたとする陰謀説であって、不比等が中心となって聖人の<聖徳太子>を捏造したとする大山誠一氏の「いなかった」説と共通する面がありますね。

 大学の紀要に載った論文ですので、「論文・研究所紹介」のコーナーで扱うべきですが、これまで見てきたように、形式・内容とも論文のレベルに達していないため、「珍説奇説」コーナーに置くことにした次第です。

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