千の天使がバスケットボールする

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「須賀敦子全集 第1巻」

2012-06-24 19:19:58 | Book
ペルージャでイタリア語を学んだ須賀敦子さんが、奨学金をえてローマに渡ったのは、29歳の時だった。1958年のことだった。
女性が結婚することを、”かたづく”などと表現していた時代だった。裕福な資産家の家庭に育った彼女のことだから、周囲はふさわしいお見合い相手を用意していたであろうに、30歳を目前に日本を旅立つのは、はっきりとした目標、女性でも誰かの配偶者として庇護されることではなく自分の生きる道を見つけたいという願いと、それを支える強靭な意志があったのだろう。
夫が急死した後、1971年にミラノを去って帰国するまでの30代の青春が、「ミラノ 霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」に静かな炎となって読者の心を照らしている。

考えてみれば、彼女の文章は創造された小説ではなく、イタリアという外国で暮らしていた今ではブログでもやまほどある滞在記、いわば日本人にしてみれば異国の地での人々の出会いと別れを綴ったエッセイという形態にも関わらず、丸谷才一に愛されるほどの一流の作家の列に加わった。そして、今でも熱心なファンに読み継がれている。改めて気がついたのは、処女作の「ミラノ、霧の風景」を上梓して脚光を浴びた時は、61歳だった。

旅先の思い出が語られる文章に、どうしてその場所に行ったのかわからない、何故旅行することになっったのか覚えていないが、といった20~30年の歳月が彼女の記憶を曖昧模糊としている部分があるのだが、それがいかにも遠い異国での話し、過ぎ去った遠い昔の寂寥感をもたらす効果を与えている。そして、重要なことは文章にするまでの長い歳月の風化が、まるで上質なワインが熟したかのような円熟という果実を須賀さんにもたらしていることだ。同じく須賀さんを愛読する福岡伸一さんが”奇跡”と書いていた記憶があるが、30代とまだ感性も瑞々しく、好奇心に満ち、ベッピーノ氏との愛情をバックボーンに、多くの体験が時代と時間を経て60歳になって紡がれたということ事態が、我々にとっては実に奇跡のような幸運だったのではないだろうか。

それにしても、なんとコルシア書店に勤務していた夫婦の暮らしのつつましさか。
ベッピーノ氏の父は社会主義者でマッチ箱のような信号所に勤務する平社員で終わり、実家は狭い鉄道官舎だった。そんな中、彼は苦学をして大学に進学して、コルシカ書店に関わるようになる。母親の年金まで融通してもらわざるをえない乏しい収入と妻の翻訳で得た報酬が生活費だったのだろう。高級なデリカ・テッセンのにぎわう客を眺めながら、自分の財布が軽さがうらめしかったり、ヴィッフィ・スカラの食卓に招かれてはでやかなハイ・ソサエティーにどぎもを抜かれたり、人が振り返るくらいのボロボロの友人の車に同乗しながらも、それでも車を所有できることをうらやましく思ったり。苦学の留学生が、そのまま貧しい家庭の妻となった暮らしぶりがうかがえる。しかし、生活水準は兎も角、彼女の知性と持ち前の好奇心、品性が、結局、ミラノでの生活をひろげていったとも感じる。お嬢さまの育ちのよさに、成熟した女性の知性とつつましい生活がもたらした怜悧で深い洞察力が須賀さんの魅力である。文章も静謐で美しい。

コルシア書店は、カトリック左派のダヴィデ・マリア・トゥロルド神父やカミッロ・ピアツが数人の若者とはじめた書店で、通常の本を売るだけの書店とは違い、講演活動やボランティア活動の拠点もあり、仕事帰りの教師、聖職者や学生でにぎわっていたのだが、やがて革新運動の流れにおされて、交流の場が闘争の場になり、思索より行動、政治が友情に先行するようになっていった。教会当局にもにらまれ、まだ権力をもっていた教会の決定は、仲間の社会的生命にもかかわる重さをもち、ついに亡きベッピーノ氏の後任の男性は立ち退きを決断する。それは、書店のひとつの若さの終わりであり、彼らの青春の終焉でもあった。

「若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちは少しずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」

彼女のこんな言葉を、私はしみじみと我が身におきかえてかみしめている。

■アーカイヴ
「ベェネツィアの宿」須賀敦子著
須賀敦子さんがみたミラノのマダムたち