千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

補正予算案:予定通り13日衆院通過の方針

2009-05-11 22:08:01 | Nonsense
麻生太郎首相は11日夕の自民党役員会で「民主党の小沢(一郎)代表が辞意を表明したと聞いた。与党としては補正予算案、関連法案を早急に成立させて実施に移すことが課題だ」と述べた。これを踏まえ、政府・与党は09年度補正予算案を予定通り13日に衆院通過させる方針だ。
与党は11日、衆院予算委員会理事会で13日の採決を正式に提案したが、野党側が拒否したため結論は出なかった。12日の理事会で改めて協議する。
13日に予定されていた首相と小沢氏の党首討論について、自民党の大島理森国対委員長は記者団に「お辞めになると表明した人が、出て何をおっしゃるのだろうか」と述べ、中止されるとの見通しを示した。(5月11日毎日新聞より)


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最近、私が最も熱心に読んでいる新聞は、「日経新聞」でも「読売新聞」でもない。「日刊ゲンダイ」である。今に始まったわけではないが、麻生政権の低級ぶりとデタラメかげんが、一般紙よりもはるかに的を得ているのである。実際、毎度毎度のあきれた首相と政治家たちには腹もたつのだが、テレビでも新聞でもふれていない庶民が一番知りたいことを痛快に書かれた記事は読むのに価する!5月11日号(9日発行)では、衆院予算委員会での「補正予算」審議にふれているのだが、民主党の細谷豪志氏が暴露した中身は確かに衝撃的だった。なんだってーーっ、15兆円のうち、役員の天下り先に3兆円もの予算がつぎ込まれているという。お金の行き先には、900人もの官僚OBのひもつき・・・。乱脈ぶりで廃止が決まった「雇用・能力開発機構」にまで150億円の予算。典型的な国交省の天下り先の「都市再生機構」には1000億円。不明瞭な入札で事業縮小が決定されたはず。いったい何のために?これでは、国民の批判を受けて廃止や組織の見直しを決めたはずの天下り先も、補正予算でもとの木阿弥状態である。

この15兆円の補正予算から、46基金に4兆3000億円を支出するのだが、まだ予算執行の体制が整っていないにも関わらずだ。要するにとりあえず「基金」だけは積んでおき、運営管理を天下り先が担うことになりそうだ。15兆円の規模は、納税者ひとりあたり25万円になるという。え~~~っ!お役人の方々はご存知ないかもしれないが、下界は未曾有の不景気で庶民は大変なんです。そんな大金を天下り先に投入する意味があるのだろうか。すでに公務員の天下り先には、年間12兆円もの予算が注入されているのに。未曾有が読めなくたって、意味ぐらいわかるだろう。

管直人氏が「国民をだますシナリオを役人がつくり、それを閣僚がしゃべらされている」と喝破したが、こうなったら「日刊ゲンダイ」の記者が言うように民主党にはカラダをはってでも阻止していただきたい!「民主党が予算審議を引き延ばしたら、解散しろの声も出てくる」とのたまったのは麻生首相。解散してもいい!で、小沢さんは辞任ですか。

『グラン・トリノ』

2009-05-10 16:59:40 | Movie
クリント・イーストウッド主演兼監督作品『グラン・トリノ』が、全米で興行収入1億1千万ドルを突破し、本人の作品で過去最高となる興行成績を達成した。米国人の心をつかんだ『グラン・トリノ』のタイトルは、主人公のウォルト・コワルスキーが自らステアリングを取り付けた愛車、1972年製のフォードの車である。ウォルトは、フォードの工場で長年勤務していた元ブルーカラー。
どんな男かというとこんな老人である。↓
愛妻を亡くしたばかりで今は年金暮らし。同じく老犬を相手にポーチに座って、苦虫を噛み潰しながら「パブスト・ブルーリボン」を日がな一日呑んでいる。当然、愛煙家でもある。長男は、日本車(TOYOTA)のセールスマンで邸宅に住み経済的にもゆとりがあるが、計算高く抜け目のないところがある。星条旗を独り住まいの自宅に掲げるくらいだから保守的なタイプで、頑固な石頭。最初はこの爺さんの人種差別用語に面食らうが妙に憎めないのである。都会に住む現代人からみれば、「イエロー」という単語にも、時代遅れの化石のたわごとか未開の文明人の雄たけびぐらいにしか聞こえず、むしろ怒れば怒るほど笑っちゃうのである。

ところが、お隣に引越ししてきたラオスから移住してきたモン族の家族と交流を続けるうちに、単なる偏屈な頑固爺なだけではない、実は闊達でおおらかで、しかも意外と?お人よしな人間性が見えてくるのだが。。。

作家の小林信彦が書いていたのだが、1970年代に映画館にタクシーで出かけたら白人が消えていたそうだ。タクシーの運転手の表現によると”昨日まで綿を摘んでいた黒人や移民”が大勢移住してくると、白人はみんな別の地域に引越しして行ったからだ。

1952年、当時のGMの会長チャールズ・ウィルソンは議会証言で「GMにとって良いことはアメリカにとっても良いことだ(What is good for GM is good for the country)」と訴えた。フォードは科学的な手法で独自の生産システムをつくり、米国資本主義を代表する自動車産業を担っていた。そんなけんびき役を担い米国の父のような産業だったビック・スリーのうち、クライスラーは早々に破綻してしまった。ここで、ウォルトが元フォードで働いていたということは本作の要だと思える。映画の舞台のデトロイト近辺も、自動車産業の斜陽に沈滞したような町になってしまった。燃費の効率がよく賢いイエロー・ジャップの車に侵出されてきたと見たら、町も東洋人や黒人が増え、白人の隣人たちは次々と移転していった。「コワルスキー」という名前からわかるように、ポーランド出身であることを誇るウォルトも、毒舌を交わすなじみも床屋の店主もイタリア人、建築現場の元締めはアイルランド出身。多様な人種からなるこの国に、モン族などの東洋人は遅れてきてやってきただけの自分達と同じ移民であることに気がついていく。おまけに娘は気が強く頭の回転が早く、内気な弟もなかなか賢そうだ。うっとうしい婆さんも含めて、お隣の家族と親しくなっていくうちに、家族や民族の文化、人とのつながりを大切にする彼らに、自らの失った息子達との関係や人生そのものを考えざるをえなくなってくる。それは、行くべき道を見失ったアメリカ自身のように。

大黒柱を失ったお隣の一家の父親のようなかわりをつとめるクリント・イーストウッドには、西部劇の現代版を見るようでもあり、高倉健さんのような日本的な美を見るようでもある。低予算、物語もシンプル。そんな映画が米国人の心をひきつけ、日本人にも共感をよぶのはどうしてであろうか。『三丁目の夕日』が昭和のノスタルジーに徹底したのとは違って、私には古きよき米国への鎮魂歌だけではないものをこの映画に観る。葬式に臍を出してやってくる孫娘よりも、お隣の人種が違う娘や息子の方がよっぽど気持ちが通じる。古い革袋に新しい酒を入れる国ではない。米国自身への新たな道を示すようなこの映画で、78歳のクリント・イーストウッドは、本作で「アメリカ」そのものを体現した。米国を代表する俳優にして名監督にとって、アメリカは変化を遂げながらもいまだに愛すべき国。彼は「モア・パーフェクト・ユニオン」という夢を追うこの国の物語に、あらたに素晴らしい軌跡を刻んだ。だから、人々の心をつかんだのだろう。「グラン・トリノ」は特別で高級な名車ではないそうだ。

監督:クリント・イーストウッド
2008年米国制作

■アーカイブも
『チェンジリング』
「現代アメリカを観る」鈴木透著
「アメリカン・コミュニティ」渡辺靖著
「アフター・アメリカ」渡辺靖著
人種差別を超えたオバマ氏
オバマ氏は民主主義の勝利か

「リンさんの小さな子」フィリップ・クローデル著

2009-05-09 11:57:35 | Book
リンさんは、小柄で枯れたような老人。長く激しい戦争が続くあるアジアの小さな村から船に乗って、フランスと思われる国の港町にたどりついた。
腕にはほんのわずかな着替えと、妻と結婚したばかりの若いリンさんが写るセピア色の一葉の写真が入った古ぼけた軽い旅行鞄。そして鞄よりももっと軽い黒くて大きな瞳が可愛らしい赤ん坊を抱えている。リンさんの大切な孫娘、サン・ディウだ。

やがてリンさんは、難民宿舎に収容される。この異国の地では、リンさんの名前も”穏やかな朝”という意味をもつ赤ん坊の名前も誰も知らない。何故なら、知っている村人たちはみな戦争で亡くなったからだ。慣れない孤独な異国の地で、リンさんは懸命に孫娘の世話をやき、彼女のために必死に生きようとしている。食が細くいつもおとなしく、手のかからない小さなサン・ディウ。リンさんをじっと見つめるまだ赤ん坊のサン・ディウ。

そんなリンさんは、港町の遊園地のベンチで妻を亡くしたばかりのバルクという太った男と知り合う。孤独なふたりの心は、言葉が通じないまま静かに触れ合い、いつしか寄り添っていく。
「ボンジュール」
「タオ・ライ」
或る日、宿舎で友人に会うために外出するところだったリンさんを訪問する者がいた。難民事務所の女と通訳の娘だったのだが。。。

「ブロデックの報告書」では、小さな活字がびっしり繋がり、読書家にしかお薦めしにくい技巧を凝らした巧みなレトリックに心底感嘆させられたフィリップ・クローデルが、「リンさんの小さな子」では小学生でも読めるくらいの平易な単語、むしろシンプルに、読者をこどもに想定して言葉を厳選している。簡単な表現で、物語はとてもとても深く。そんな困難な芸当をこの作家は、可能にした。

私は、戦争を知らない。フランスと思える港町やリンさんの故国にも行ったことがない。リンさんやバルクのように、愛する配偶者や大切な家族を失っていない。それでも、悲しみと慈しみと深い愛情を、本書の一字、一句から心がふるえながら感じとることができる。文学の大きな可能性に希望を見出すこの珠玉のような美しい本を、物語を読んであなた自身の感性で感じていただきたい。こんなめったに出会えない素晴らしい本では、あえて感想は短く・・・。
ついでながら、表紙の絵は装丁にもこだわりをもつ著者自身の筆による。

「二人の友は歩きはじめる。森の中の道を下ってゆく。美しく晴れ渡った日だ。あたりには湿った土の匂いとプルメリアの花の香りが漂っている。苔は翡翠を縫いこんだクッションに似て、竹林は無数の鳥たちのざわめきに揺れている。リンさんは前を歩く。しょっちゅう振り返っては、躓きそうな根や危ない枝が飛び出ているのを友に言葉や仕草で教えてやる。」

■アーカイブ
『ブロデックの報告書』

『いのちの食べかた(OUR DAILY BREAD)』

2009-05-06 17:24:14 | Movie
先日、聞いた話なのだが、彼女の友人がイギリス人と結婚した。結婚した時はシティのビジネスマンだったのに、その後新郎は脱サラをして郊外の自宅に戻りヴァイオリン製作職人になってしまった。ある日のこと。食材がないとつぶやいた新妻の話を聞いたダーリンは、よし!とばかりに鉄砲をかついで庭に飛び出て見事にキジを射止めた。まな板の上にデンとのせられた血を流して絶命したキジに、新妻は失神したそうだ。

私はこの話をけっこう気に入っている。もっとも人ゴトだから笑い飛ばしたのだが、もし自分だったら失神しないまでも頭や手足を落とすことは、、、できそうにもない。(魚は大丈夫。その魚も怖くて切り身でないと料理できない人もいるそうだが。)けれども、菜食主義者でなければ、鶏肉を食べない人はあまりいないだろう。焼鳥片手に焼酎!はサラリーマンのおなじみの光景。私たち日本人が、1年間に食べる牛・豚・鳥の肉は約300万トン。けれども、それら食材を買うのは、スーパーやデパート、肉屋の店頭で清潔にきれいにパックされた切り身である。これらの素材は、どこからやってきたのか。食卓に上るステーキの元の原型の牛クンは、どうやって飼育されて、どうやって殺されて、どうやって解体されて、私たちの口に運ばれる運命にあるのか。

「いのちの食べ方」は、食材が安価になったことに疑問を感じたオーストリア出身のドキュメンタリー映像作家のニコラス・ゲイハルター監督が、2年間かけて食品生産工場で撮りつづけた作品である。音楽どころか、ナレーション、インタビューのたぐいはいじわるなくらいに見事にいっさいなし。鮮明で美しい色彩、完成された比率の構図。もっとも日常的の食材を扱いながらその現場はグロテスクで非現実的で、その対比をクールに撮った監督には、映像作家としての才能が感じられる。
次々に映し出される映像にある程度の覚悟?をしていたとはいえ、衝撃を受ける。生物系の研究室のような無機質な工場の棚の中にびっしり飼われている可愛いひよこたちがカゴに移され、そしてベルトコンベアーにのって大量に移動する。生きているひよこがベルトコンベアーに!、というだけでも驚きなのだが、どうやら彼ら彼女たちは予防接種を受けているようだ。ぴよぴよと小さなさえずる声と、機械が稼動しているかすかな音だけでしか工場の中には聞こえない。やがて成長してりっぱになった鶏は、またまた大きな機械で吸引されて”収穫”されて、実に効率よくベルトコンベアーにぶらさがりながら頭と脚を切られていく。次々に登場する魚、豚、牛たち。動物愛護者の方だったら怒りそうなショッキングな映像が続き、物語性もプロバガンダもメッセージ性もいっさいない。感情もなく、ただ食の生産現場の現実だけが短いシーンで羅列されていく。12歳未満のお子ちゃまは保護者の許可があれば観ることができるのだが、気弱な私のようなおとなでも思わず目をそむけてしまう場面もある。食欲がなくなること間違いなし。
これらの短い映像のつながりから感じるのは、次の3点に集約するだろうか。

①とにかく大量生産
②移民などの安価な労働力
③薬剤を使用した動物や植物を育てることの安定性と安全性

この3点をじっくり考えると、近未来への嫌な不安が残る。人類の歴史は殆ど飢えとの戦いだった。それが今、TOKIOは、世界に冠たる美食の街。賞味期限のきれた弁当や捨てた残飯は、年間11兆1000億円。けれども、世界では8億人の人が栄養失調状態であり、いまだに餓死する人が毎年900万人にものぼるという。原題の「OUR DAILY BREAD」は、「我ら日々の糧」という聖書の言葉である。たべること、そんなごくごく日常のことを考えさせられる映画である。

ところで、猟銃で撃たれたキジは、義理のお母様の見事な手さばきで羽を毟られ、こんがりと焼かれて無事に夕餉の食卓に登場した。一羽、一頭、一匹の解体作業は、その存在の重さに頭を垂れるが、次々とベルトコンベアーで片足を吊り下げられて運ばれるたくさんの豚の姿や口をあけてさばかれる魚には、ちょっとユーモラスさえ感じてしまった。そんな私は、不謹慎だ。。。
さて!今夜も、おいしくいただきます。

監督:ニコラウス・ゲイハルター監督
2005年ドイツ・オーストリア映画

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2009

2009-05-05 23:18:34 | Classic
今年で5回目を数えるラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭!テーマは「バッハとヨーロッパ」Bach is Back! バッハが時空を超えて帰ってくる!

毎年、GWは外出をしていて東京にはいないのだが、今年はひきこもり休暇にしようと思い、5月5日にようやく重い?腰をあげて有楽町の国際フォーラムに向かう。あいにくの雨、中庭のテントの屋根を叩く雨音が聞こえるのだが、それでも大勢の人々でちょっとした混雑ぶり。午後5時15分開演のコンサートは、国際フォーラムのAホール。会場の中に入って驚いたのが、通常のクラシックのコンサートホールではまずない広いキャパの席をうずめる観客の数。こんなに人が集まるのだ!!不況だの、観客動員数が落ち込んでいるだのささやかれるクラシック業界でも、「熱狂の日」と大々的に宣伝をかけ、安価な料金で気楽に祭り気分、でも一流の演奏家、45分~1時間程度のファーストフード感覚の演奏時間でも中身は”本モノ”で”ゴージャス”、しかも無料コンサートのおまけをつければ人はやってくるーーーっっ。

それは兎も角、舞台に一瞬現代のパガニーニかと目をみはる容姿の人物が登場する。ネマニャ・ラドゥロヴィチだっ。彼は小学生の甥が、リサイタルを聴いて好きになったヴァイオリニストである。髪はホームレスのようだが、なかなか魅力的な容姿・・・。ところが、彼がヴィヴァルディの四季から「春」を演奏すると、私はナイジェル・ケネディの「四季」を聴いて以来の衝撃を受ける。鮮明で活き活きとしていて躍動感に溢れ、ある時はまろやかでなめらかな音がころがり、とにかく圧倒的な個性と音楽性にすっかり興奮してしまった。私は何回聞いても「ネマニャ・ラドゥロヴィチ」の名前が覚えられず、その度に甥に教えてもらっていたのだが、本当にすごいヴァイオリニストだ。彼にあわせる(ついていく?)シンフォニア・ヴァルソヴィアが気の毒なくらいだ。

最後に登場したパヴェル・シュポルツルにも驚かされる。第2ヴァイオリン奏者が、タキシードに白い蝶ネクタイなのに、お隣のファースト・ヴァイオリンの方はシャツに黒いパンツ。ラフな服装は兎も角として、ヴァイオリンが目にもあざやなブルーなのだ!初めて見たこんな色のヴァイオリン。時代遅れのロッカーかカントリー歌手みたいなおじさんがバロック音楽を?それが、音も美しく正統派のヴァイオリニストなのである。

ブランデンブルク協奏曲の後は、4台のヴァイオリンのための協奏曲、最後に4台のピアノのための協奏曲と「4」がキーワードかと思えるプログラム構成で、華やかで素敵な演奏会だった。ジャン・ジャック=カントロフは眼鏡をかけ、すっかり板についた指揮者ぶりだったが、個人的には好きなヴァイオリニストなのでもっとヴァイオリニストとしての活躍をお願いしたい。

さて、来年2010年はショパンの年だそうだ。お楽しみ!!

---------- 09年5月5日  国際フォーラム --------------

ヴァイオリン: ファニー・クラマジラン、南紫音、
ネマニャ・ラドゥロヴィチ、パヴェル・シュポルツル
ピアノ: リディヤ・ビジャーク、サンヤ・ビジャーク、
クレール・デゼール、アンヌ・ケフェレック
シンフォニア・ヴァルソヴィア ジャン=ジャック・カントロフ(指揮)

ヴィヴァルディ:春
ヴィヴァルディ:4つのヴァイオリンのための協奏曲 ロ短調 作品3-10
J.S.バッハ:「ブランデンブルク協奏曲第1番」
J.S.バッハ:4台のピアノのための協奏曲 イ短調 BWV1065


いま憲法25条”生存権”を考える ~対論 内橋克人 湯浅誠~

2009-05-04 12:09:39 | Nonsense
5月3日は憲法記念日だった。日頃は、「憲法」を意識することがないのだが、昨日の内橋克人氏と湯浅誠さんのふたりの論客による憲法第25条をめぐる対論を放映したNHK「ETV」(心の図書館)は、再放送を希望したいくらいの好企画だった。
内橋克人氏は、76歳の経済評論家。エコノミストではなく評論家としてフリーの立場で長く活躍した方で、近年では小泉流の小さな政府、聖域なき構造改革、行き過ぎた市場原理主義による社会的コストが弱者への負担になると警鐘を鳴らしてきた。対する湯浅誠さんは「反貧困―すべり台社会からの脱出」という著書でもよく知られているが、反貧困ネットワーク事務局長、年越し派遣村の村長をつとめた青年の面影を残した40歳。私は昨年出版された「AERA」の「現代の肖像」で湯浅さんの存在を知ったのだが、東京大学大学院の博士課程退学という学歴と、たった1足の靴をはき潰しながらの1995年よりホームレスの支援活動とのギャップが強く印象に残っていた。初対面だというふたりの出会いは、内橋氏の湯浅さんをまるで息子のように肩に手をあててねぎらいといたわりを感じさせる仕草ではじまった。

憲法は、制定時に日本人自身のよって加えられた条文がある。

「第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

この条文は、法政大学学長の森戸辰男氏の発案によって採択された。森戸氏は、東京帝国大学を卒業して経済学部の学者になるも、社会主義よりの論文が危険思想であると糾弾されて休職処分になる。そこでドイツに留学した森戸氏はワイマール憲法の151条1項、「経済生活の秩序は、各人に、人たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合するものでなければならない」という規定に感銘して、帰国後は社会党の政治家になりGHQの草案になかったこの条文をねばって盛り込んだ。
所謂「生存権」を国民、個人の権利として明確化したこの条文は、社会のセーフィティネットを整備していく基準になったのだが、番組では1957年、国立岡山療養所に入所していた結核患者の朝日茂さんが月600円の生活保護給付金ではあまりにも低すぎると、憲法第25条に反すると厚生大臣を相手に行政訴訟を起こした「朝日訴訟」をとりあげた。病床で月600円でどうやって暮らしていけるのか、とせつせつと訴える朝日さんの映像はインパクトがあるのだが、結局、朝日氏の死亡によって残念ながら訴訟は最高裁で結論がでないまま終わってしまった。しかし、朝日訴訟後、生活保護費は増額した。この朝日訴訟で敗訴覚悟で原告側代理人を務めた新井章弁護士もインタビューにこたえて「生活保護の支給額が、労働者の最低賃金に連動する」ことに気がついた労働組合や労働者の支持を集めたという談話は、重要なことを示唆していると思われる。自分は働いているから生活保護とは無縁に思えても、全く関係ないわけではなかった。

昨年来の世界的金融危機で、失職する人が15万人に及ぶという。規制緩和、派遣労働法の改定で製造業までに広がった派遣社員。努力して真面目に勤務しても不景気になれば「派遣キリ」。そんなこと最初からわかっているではないか、自己責任、ともすれば、生活保護受給者を努力しないなまけ者扱いまでする風潮すらある。けれども、つい足をすべらして転落したら一気にどん底まで落ちていく「すべり台社会」から脱却して、誰もが人間らしい生活をできる「反貧困」へと語る湯浅氏の思想の方が圧倒的に説得力ある。「派遣ムラ」に身をよせる人々は、つい昨日まで働いてきた実績もあり、肉体労働にたる体力と健康があったのだ。それが、派遣キリで職だけでなく住居すらも失い、命すらもあやうくなっている。
路上で職を失ったホームレスを私達は見たいだろうか。彼らに生活保護を支給するよりも、働いて少しでも納税してもらう方が社会のコストから考えても効率的である。ひとごとと無関心でいても、失業者のコストは必ず私たち全体のコストにはねかえるはずだ。

そして、健康的で文化的な生活とは。朝日訴訟から実に50年。確かに戦後に比較したら清潔で豊かで高い教育を受けられる時代となったが、”誰もが”という前提が今ゆらいでいる。憲法25条の存在意義を問い直し考えることの多い憲法記念日だった。

■こんなアーカイブも
「縦並び社会」毎日新聞社会部
「日本の貧困と格差拡大」日本弁護士連合会

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【憲法記念日集会  『生存権』切実】(5月4日毎日新聞より)

六十二回目の憲法記念日となった三日、各地で開かれた集会では「生存権」が語られた。これまで憲法集会といえば「九条」が中心。ところが、格差の広がりで失業や住居を失う人が急増、「健康で文化的な最低限度の生活」が揺らいでいると憲法二五条がクローズアップされた。若者を中心に、参加者に生存権や憲法について聞いてみた。
東京都千代田区の日比谷公会堂で開かれた「生かそう憲法 輝け九条」には四千二百人が参加した。作家の落合恵子さんが「苦しむ人々に『全部あんたの責任よ』と言うことで済むのか。健康で文化的な生活を、私たちは営む権利を持っていたはず」と訴えた。

ノーベル物理学賞を受賞した京都産業大の益川敏英教授は講演で「憲法九条の改悪に向けての足音がする。日本人はそれほどばかじゃないので、やすやすとは許さないと信じている」と訴えた。

立川市の立川柴崎学習館で開かれた「市民のひろば・憲法の会」は、派遣切りや平和運動などがテーマ。市民団体「府中緊急派遣村」の東浩一郎さん(43)は「精いっぱい働いてきた労働者が会社から追われている。憲法は国民が国を律するための法。生存権の意味を見つめ直してほしい」と呼びかけた。

横浜市の保土ケ谷公会堂で開かれた集会では、東京都中央区の会社員、竹渕浩幸さん(32)は「失業などで生活が脅かされている人たちを孤立させないことが大事だ。集会を通じて連携することが必要」と強調した。

東京都新宿区の早稲田大学で、憲法の講演会を聴いた政治経済学部二年の村上弘美さん(20)は「下宿近くの公園や道路で、ホームレスの人がどんどん増えている。政府はもちろんだけど、民間団体が大きな力になれば」。同区の四谷区民ホールで、改憲派の国会議員らの集会に参加した会社経営者の男性(31)は「九条を改正して自衛権を確立しなければ、この国の将来が不安」と話していた。

◆社会全体の議論を
ジャーナリストの斎藤貴男さんの話 生存権がテーマになった集会が多いのは、憲法25条が重要なのに形骸(けいがい)化していると、年末の派遣村の映像がみんなに知らしめたからだ。しかし、生活保護などの問題に矮小(わいしょう)化せず、構造改革が生んだ不公正な社会の議論が必要だ。

◆教育格差も顕在化
佐藤司・神奈川大名誉教授(憲法学)の話 格差社会の到来が、生存権の重要性を高めている。これまで生存権の主要テーマは、年金や生活保護などだったが、高齢化社会の進展で介護の負担や劣悪な施設に苦しむ人たちの存在も浮き彫りになっている。

生存権は文化的な生活も保障している。憲法26条の教育権とも関連するが、貧困家庭の子弟が十分な教育を受けられない教育格差も顕在化している。多くの今日的な問題とかかわっているのが生存権だ。

『MILK』

2009-05-03 12:29:10 | Movie
米国初の黒人大統領が誕生した一方で、最もリベラルな州と思われていたカルフォルニア州では、住民投票によって同性結婚が禁止される法案が可決され社会問題になっているそうだ。自由の国アメリカと言われつつも、もともとピューリタンが移住した国でもあり、保守的なところもある。そんなアメリカで”ゲイ”を公言して、サンフランシスコ市政執行委員に選ばれ、ゲイだけでなく女性や有色人種などのマイノリティの権利、アイルランド系移民労働者の権利解放などを訴え続けてきたハーヴェイ・ミルクの最後の8年を描いたのが『ミルク』。

72年のニューヨーク。保険会社で順調に昇進を続けるミルク(ショーン・ペン)は、40歳の誕生日の日に地下鉄でひとりの男性に声をかける。これまで証券アナリストととして働きながら平凡な一市民として世間という群集に言わば隠れていたミルクが、後に恋人になる20歳年下のスコット(ジェームズ・フランコ)との出会いを通してカミングアウトして公職につき政治家になるも、活動なかば同じ執行委員だった同僚委員のダン・ホワイトによって射殺される。

「TIMES」で世界の100人に選ばれたこともあるミルクを知らなかった私は、鑑賞前はひとりのゲイの権利運動家の物語と予想していたのだが、その予想はよい意味で裏ぎられた。ミルクは、ある限られた人々、ゲイのためだけの権利を主張した政治家ではなかった。もっと率直に言い換えれば、ある特定の趣味・趣向をもつ人々ということになる。(偏見をまじえば、特定というよりも”特殊”な趣味になってしまう。)ミルクは、確かにゲイだった。1970年代のサンフランシスコでさえ、ゲイであることを公言することが、すなわちなんらかの迫害を受ける覚悟がいるのが、映画の中に効果的に配置された当時のドキュメンタリーでよくわかる。ガス・ヴァン・サント監督は、最初にモノトーンの警察官によって取り締まられるゲイたちの映像を入れて、ゲイが社会的には弱者の立場だったことをまず観客にすりこませて、金融業会で働くサラリーマンの髪形と背広から、ミルクの髪と髭をのばしたジーンズ姿に豹変することの意味を観客に考えさせる。やがて貯金が底をついてユリーカ・ヴァレー地区で彼らがはじめたカメラ屋「カストロ・カメラ」は、同性愛者やヒッピーたちの溜まり場となる。恋人スコットの影響で人生をかえたミルクが選挙運動に熱中するうちに、スコットのミルクから選挙民たちや支持者の「ミルク」になったことで、大切な同志やスタッフをたくさん得た一方で、彼らは失うものも大きかった。映画は、政治家としてだけでなく、人間ミルクも描いて点でゲイであるかどうか以前に、誰もが人を恋する感情のうちに翻弄され、喜び悲しむ体験と共鳴していく。

映画の中で最大のヤマ場が、元準ミス・アメリカで人気歌手だったアニタ・ブライアントとカリフォルニア州の州議会議員のジョン・ブリッグスによる「提案6号」をめぐる反対運動である。それは、「州内の公立学校から、同性愛の教師および同性愛者人権を擁護する職員を排除する」というまるで中世の魔女狩りを巻き起こすような法律である。かってのレッドパージのように、アメリカは今度はゲイの人々を公職から追放しようとしているのだった。当時のドキュメンタリー映像でひとりの女性聖職者が、「こどもたちが、自分とは違う価値観の人を受け入れる機会を失う」と反対していたが、全くその通りである。この映画が真価を発揮する運動である。日本は伝統的に御稚児という言葉や、「新撰組」の加納惣三郎の物語でもあるように、比較的同性愛には寛容である。同性愛者は、たまたま異性よりも同性を好きになってしまうだけであり、異常でも犯罪者でもない。ノーマルとは、何をもってしてノーマルと言い切れるのだろうか。自分とは違う趣味・趣向、価値観を受け入れることが、「文明の衝突」をさけるきっかけになるのではないだろうか。
ミルクはゲイだった。そんなこととは関係なく、有能で策士の部分をもつ政治家だった。没後30年たち、ミルクが残した功績や運動に素直に感動するのは、素材の魅力をいかした映画の力だけではないだろう。ミルクが闘った現実は、今日も根強い。

最後にミルクをはじめ、主な登場人物の実像が紹介されている。本物のミルクはユダヤ人らしい顔立ちだが、ショーン・ペンよりもずっとハンサムでチャーミングだったが、これまで硬派のイメージだったショーン・ペンがアカデミー賞受賞にふさわしい演技である。また他の俳優も実物によく似ていて、キャスティングが絶妙。

監督:ガス・ヴァン・サント
2008年アメリカ映画

『ハンナとその姉妹』

2009-05-02 12:23:02 | Movie
ウッディ・アレンである。好きな監督ウッディ・アレンの中でも評価の高い『ハンナとその姉妹』を初めて鑑賞したのだが、やっぱりウッディ・アレンだ。

1980年代、マンハッタンにある家族が恒例の感謝祭のパーティを祝っている。ホスト側の女優として成功しているハンナ(ミア・ファロー)の夫、芸術・芸能一家の中で最も?唯一?常識人で”まとも”と思われるエリオット(マイケル・ケイン)の告白から映画がはじまる。彼は、ハンナの妹、元俳優夫婦の両親の三女にあたるリー(バーバラ・ハーシー)の顔とグレーの地味なセーターに隠された未知の「おっぱい」の美しさに感嘆している。妻の妹でしょ。そんな道徳観を軽いジャズでもて遊ぶのがアレン流。ハンナは、子種がなくて気まずくなり別れた元夫のテレビプロデューサーのミッキー(ウッディ・アレン)を次女の売れない女優のホリー(ダイアン・ウィースト)に紹介(斡旋)し、彼らはデートをしたこともある。ちょっと日本人では考えにくいシチュエーションだ。
結局、エリオットは、プライドが高く厳格な年上の画家フレデリック(マックス・フォン・シドー)と同棲しているリーをホテルに呼び出すことに成功したのだったが。。。

宗教、人生、恋愛、こども、家族愛もアレンにかかれば軽妙洒脱でユーモアとウィットのエスプリの効いたセリフと演出で、上等の映画にしあがる。素敵な本屋、重厚な建築物、セントラルパークとニューヨークらしい景色が次々と登場するのも、みどころ。特に興味をひいたのが、彼らの住む家にある蔵書である。リーとフレデリックが同棲しているソーホーの自宅には蔵書が壁一面に並び、ハンナの家にもあちらこちらに本が整然と並んでいる。読書が生活の一部であることもニュヨーカーらしさなのだろうか。
それぞれに魅力的な三姉妹のキャラクターと服装もそれぞれの個性を表現していて、また職業との相関関係を考えさせられる。
長女のハンナは、長女らしく親の期待をかなえ人格的にバランスのとれた優等生。だからエリオットもリーに強烈に惹かれながらも、逆にハンナへの愛情が深まる。ネクタイを占めたブラウス姿の中年にさしかかったミア・ファローは、フランク・シナトラ、アンドレ・プレヴィン、そしてこのウッディ・アレンと才能溢れる男たちを次々とノックアウトしてきた永遠の妖精のような雰囲気がある女優だ。映画の中でも養子に体外受精児のこどもふたり、合計4人の母の身分でまだエリオットととのこどもを欲しがりせまる場面が私生活を彷彿させて、こんなしかけも楽しい。次女のホリーは、三姉妹の中では実は一番美人で色気があると私には思える。彼女のおしゃれは、いつも完璧。売れない女優で経済的に困っている設定なのだが、セレブ風スーツ姿もファッション雑誌からぬけでたような計算された衣装もコーディネートが抜群である。自由奔放でちょっといろいろな意味で軽い女性なのだが、女性として魅力的なタイプ。三女のリーは、いつもセーターかシャツにGパン姿。おしゃれには全くかまわないか無頓着なのが、芸術好きな一面を表現している。同棲しているフレデリックは、自由人の画家なのだが、逆に自宅で寛ぐ時もきっちり刈った短髪、明るい水色のベストに白いYシャツとまるで几帳面な銀行員のようである。いかにも、、、という人柄と生活にあったスタイルを装いつつも、ちょっと意表をつくようなはずし方をするのが、スノッブなニューヨーカー好み。

傑作なのは、ウッディ・アレン演じるミッキーである。彼は、病気恐怖症。どんなに小さなカラダの変調も、不治の病に結びつきたがるのだが、あれこれ悩んでユダヤ人にも関わらず、カソリック信者に改心しようとする。そんな彼が買物の紙袋からとりだしたのは、十字架、聖書、キリストの写真に、最後にとりだしたのが何故かパンとマヨネーズ。こんなお茶目な皮肉がうける。ミッキーは最終的にトルストイの「人生とは、結局無意味なことを悟ること」という名言のさとりに到達する。この映画は、英語で観た方が絶対におもしろいと感じつつ、字幕を見るのが情けなかった。
やっぱり、だからウッディ・アレン!

ウディ・アレン監督・脚本
1986年製作

■多作なアレンのこんな映画も
『タロットカード殺人事件』
『マッチポイント』
『メリンダとメリンダ』
『インテリア』