W・A・モーツァルト生誕250周年というハレー彗星に遭遇したかのような記念すべき年にあわせて、我が愛するモーツァルトの音楽を聴いているのだが、巨匠イングマル・ベルイマン監督1975年スウェーデン製作のオペラ映画「魔笛」を観て、自分がモーツァルトの真実の姿から遠くにいることに気がつき焦燥めいた気分の落ちる。
ここは、エジプトのある森。大蛇に襲われ、気を失った王子を3人の官女が救い出す。よく見ればこの王子タミーノは、若く、スタイルもよくイケ面ではないか。彼女達は、この収穫を喜び早速「夜の女王」に報告する。そこへ、日本でいえば田舎の嫁飢饉にいるような道化師役・パパゲーノが登場して、女の子が欲しいと嘆き節を歌う。やがて正気を取り戻した王子に、官女たちは姫パミーナの肖像画を見せるが、王子は彼女の美貌にひとめぼれをする。古今東西、姫君は美しくなければならない。
「夜の女王」は娘にほれた王子の様子を見てコトが首尾よく運んだことに満足し、次に悪魔ザラストロに我が娘を奪われた母としての悲しみをせつせつと訴え、王子に救出を依頼する。救出できたご褒美は、勿論パミーナ姫。恋に萌える純粋な王子は、パパゲーノとともに3人の童に導かれてザラストロの神殿に向かう。手には、童たちから授かった魔法の笛「魔笛」と、パパゲーノには魔法の鈴。
映画の冒頭は、ベルイマンらしく趣向を凝らしている。「魔笛」の序曲の演奏が始まると、いかにも北欧の少女らしい顔立ちの聡明そうな表情が長く映される。やがて劇場でオペラの開幕を待っている様子だと理解する頃に、次々と他の観客の表情が音楽の旋律とともに挿入される。老いた顔、若い顔、男性、若い娘、老人、こども、老女、白人、黒人、東洋人、日本人、インド人、アフリカ人・・・幅広い年齢、さまざまな人種の人々がこの劇場に集い、一心にオペラの開幕をいまかいまかと待っているのである。モーツァルトのオペラ「魔笛」の。
モーツァルト映画の傑作「アマデウス」を観た時の「魔笛」の感想ではあるが、当時の音楽はその多くが宮廷音楽として貴族社会のものだったが、この「魔笛」は一般大衆相手の一座をひきいる俳優と歌手もかねた興業主エマヌエル・シネカーダに依頼されて作曲したモーツァルト最後のオペラである。きどった貴族相手ではなく、大衆相手のこのオペラの内容は単純。王子のひとめぼれの恋の成就と彼女をゲットするための試練なのだが、貧しい大衆相手のジングシュピール(歌芝居)には、謎と毒が盛り込まれていると思うのは、うがった見方だろうか。
就寝中の姫を襲おうとする奴隷頭モノスタトスの歌にこめられた、女ができないのは自分の黒い肌のせいという嘆き。彼女にふられるのは、肌の色でなく貴方の心のありようだと伝えたいではないか。そこへ「夜の女王」がやってきて復讐を誓う有名なアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」 がははじまる。玉がころがるような難技巧コロラトゥーラを披露して盛り上がる女王の歌は、娘への威嚇でもある。姫にとっては父であり、自分にとっては夫であるザラストロを刺すようにと命じて剣をおしつける「夜の女王」の豹変ぶりに驚きおびえる姫。おびえるのは姫だけではない。
悪魔とののしられたザラストロが、思慮深く娘思いのパパだったと理解するにつれ、ママ「夜の女王」の憎い夫謀殺案の手口には、夫婦の深い溝と憎しみに笑えるくらいに戦慄する。悪と善が完全に入れ替わる意外性は、このオペラに大衆をあきさせないおもしろみと、社会のシステムへの不満のガスぬきをも与えている。これは、現代でも充分に通用する。またこのあたりの母と娘の関係は、妊娠中の安達祐実さんと、ヌード写真集を出すというママのあり方を彷彿させる。
軽率で野卑だが本音を炸裂するパパゲーノと、真面目でいいつけをきちんと守る王子の対比。一度は、王子の心変わりを疑い、絶望のあまり剣で自殺しようとまで思いつめた姫の純粋さと底の浅さ。未来の婿殿の肝試しをする父としてのザラストロの威厳と絶対性の息の詰まる迫力、復讐のためだったら娘さえも道具とする女の凄みを感じさせる夜の女王。
あくまでも格調高く芸術作品に撮ったイングマル・ベルイマンの映画をきっかけに、モーツァルトを再発見し、オペラの魅力にめざめつつある、かもしれない。やっぱりオペラは、CDで聴くだけではね・・・。
*主催は長編オペラ映画を主に扱っているオリエント映画。会場は、銀座ブロッサムホール。
作曲 ‥‥ W・A・モーツァルト
監督 ‥‥ イングマル・ベルイマン
指揮 ‥‥ エリック・エリクソン
演奏 ‥‥ スウェーデン放送交響楽団および合唱団
歌手 ‥‥ タミーノ/ヨーゼフ・ケストリンガー(テノール)
パミーナ/イルマ・ウッリラ(ソプラノ)
パパゲーノ/ホーカン・ハーゲゴード(バリトン)
パパゲーナ/エリザベット・エリクソン
夜の女王/ビルギット・ノールディン(ソプラノ)
ザラストロ/ウールリグ・コール
ここは、エジプトのある森。大蛇に襲われ、気を失った王子を3人の官女が救い出す。よく見ればこの王子タミーノは、若く、スタイルもよくイケ面ではないか。彼女達は、この収穫を喜び早速「夜の女王」に報告する。そこへ、日本でいえば田舎の嫁飢饉にいるような道化師役・パパゲーノが登場して、女の子が欲しいと嘆き節を歌う。やがて正気を取り戻した王子に、官女たちは姫パミーナの肖像画を見せるが、王子は彼女の美貌にひとめぼれをする。古今東西、姫君は美しくなければならない。
「夜の女王」は娘にほれた王子の様子を見てコトが首尾よく運んだことに満足し、次に悪魔ザラストロに我が娘を奪われた母としての悲しみをせつせつと訴え、王子に救出を依頼する。救出できたご褒美は、勿論パミーナ姫。恋に萌える純粋な王子は、パパゲーノとともに3人の童に導かれてザラストロの神殿に向かう。手には、童たちから授かった魔法の笛「魔笛」と、パパゲーノには魔法の鈴。
映画の冒頭は、ベルイマンらしく趣向を凝らしている。「魔笛」の序曲の演奏が始まると、いかにも北欧の少女らしい顔立ちの聡明そうな表情が長く映される。やがて劇場でオペラの開幕を待っている様子だと理解する頃に、次々と他の観客の表情が音楽の旋律とともに挿入される。老いた顔、若い顔、男性、若い娘、老人、こども、老女、白人、黒人、東洋人、日本人、インド人、アフリカ人・・・幅広い年齢、さまざまな人種の人々がこの劇場に集い、一心にオペラの開幕をいまかいまかと待っているのである。モーツァルトのオペラ「魔笛」の。
モーツァルト映画の傑作「アマデウス」を観た時の「魔笛」の感想ではあるが、当時の音楽はその多くが宮廷音楽として貴族社会のものだったが、この「魔笛」は一般大衆相手の一座をひきいる俳優と歌手もかねた興業主エマヌエル・シネカーダに依頼されて作曲したモーツァルト最後のオペラである。きどった貴族相手ではなく、大衆相手のこのオペラの内容は単純。王子のひとめぼれの恋の成就と彼女をゲットするための試練なのだが、貧しい大衆相手のジングシュピール(歌芝居)には、謎と毒が盛り込まれていると思うのは、うがった見方だろうか。
就寝中の姫を襲おうとする奴隷頭モノスタトスの歌にこめられた、女ができないのは自分の黒い肌のせいという嘆き。彼女にふられるのは、肌の色でなく貴方の心のありようだと伝えたいではないか。そこへ「夜の女王」がやってきて復讐を誓う有名なアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」 がははじまる。玉がころがるような難技巧コロラトゥーラを披露して盛り上がる女王の歌は、娘への威嚇でもある。姫にとっては父であり、自分にとっては夫であるザラストロを刺すようにと命じて剣をおしつける「夜の女王」の豹変ぶりに驚きおびえる姫。おびえるのは姫だけではない。
悪魔とののしられたザラストロが、思慮深く娘思いのパパだったと理解するにつれ、ママ「夜の女王」の憎い夫謀殺案の手口には、夫婦の深い溝と憎しみに笑えるくらいに戦慄する。悪と善が完全に入れ替わる意外性は、このオペラに大衆をあきさせないおもしろみと、社会のシステムへの不満のガスぬきをも与えている。これは、現代でも充分に通用する。またこのあたりの母と娘の関係は、妊娠中の安達祐実さんと、ヌード写真集を出すというママのあり方を彷彿させる。
軽率で野卑だが本音を炸裂するパパゲーノと、真面目でいいつけをきちんと守る王子の対比。一度は、王子の心変わりを疑い、絶望のあまり剣で自殺しようとまで思いつめた姫の純粋さと底の浅さ。未来の婿殿の肝試しをする父としてのザラストロの威厳と絶対性の息の詰まる迫力、復讐のためだったら娘さえも道具とする女の凄みを感じさせる夜の女王。
あくまでも格調高く芸術作品に撮ったイングマル・ベルイマンの映画をきっかけに、モーツァルトを再発見し、オペラの魅力にめざめつつある、かもしれない。やっぱりオペラは、CDで聴くだけではね・・・。
*主催は長編オペラ映画を主に扱っているオリエント映画。会場は、銀座ブロッサムホール。
作曲 ‥‥ W・A・モーツァルト
監督 ‥‥ イングマル・ベルイマン
指揮 ‥‥ エリック・エリクソン
演奏 ‥‥ スウェーデン放送交響楽団および合唱団
歌手 ‥‥ タミーノ/ヨーゼフ・ケストリンガー(テノール)
パミーナ/イルマ・ウッリラ(ソプラノ)
パパゲーノ/ホーカン・ハーゲゴード(バリトン)
パパゲーナ/エリザベット・エリクソン
夜の女王/ビルギット・ノールディン(ソプラノ)
ザラストロ/ウールリグ・コール
ただの、”パ”の連続なのですが、実に愉快です。私もこの歌が大好きです。(時々、家で歌っています、オンチですが・・・××)このオペラを観ていると、本来だったら主役である勇敢な王子と美しい姫が、道化師に見える逆転現象を感じます。日本でいえば、浪速の庶民のパワーの勝利ともいうべきでしょうか。
>「悪党」にすらなにかしら愛情が注がれています
姫の寝込みを襲おうとする場面も、ユーモラスですよね。
URLをリンクしたオリエント映画は、このようなオペラ映画をよく上映しているようです。映画は本物オペラに比較してスケール感に欠けますが、歌手の表情がよく見えるので、私のような初心者には向いています。次回は、「フォガロの結婚」を見に行く予定です。何しろ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルでスザンナ役がミレッラ・フレーニー。(若い!)
フィガロ!大好き。カラヤンのザルツブルク音楽祭を録音したカセットテープ、何度も聞きすぎて本当にすり切れてしまいました。スザンナ役でミレッラが出ていたような??違うかな?なにせテープがもうないので・・・。
前奏曲が終わって、寸法を測る歌が始まるともうわくわくしてきます。「アマデウス」で、この曲のリハーサル場面があって、スザンナ役が正しい小節で入ってこられないギャグがあります。ちょと早く入っちゃうんです。なんか下手さがリアルでおかしい。
「コシ・ファントゥッテ」も面白い。馬鹿馬鹿しくて最高!デズピーナが可愛くて儲け役です。下手な主役級を簡単に食ってしまうのでうまいデズピーナは嫌われます。ああ、オペラ見たいなあ☆
最近思うのですが、モーツァルトの音楽は、先人が後世への人々に残した遺産のなかでも、特別な輝きをもっていると。年齢を重ねる度に、無邪気なモーツァルトに近づいているような気がするのです。単純なかってな思い込みかもしれませんが。女というものは、こうしたものです。
>フランス革命の挫折が反映してそうなっているのだと
少々意表をつかれました。なるほど、そういう印象もあるのですね。参考になりました。