千の天使がバスケットボールする

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~美の巨人たち~熊谷守一「雨滴」

2010-02-03 22:30:33 | Art
今日はとても寒い一日だった。
立春を過ぎても厳しい日々が続くが、ネオヤナギの冬芽を見かけると自然は春の準備をはじめていることに気がつく。一粒一粒の小さな紅い芽は、青い澄んだ冬の空に向かってきりっとした表情だ。よく見ると、同じような色、同じような形の冬芽は、同じようであって当たり前だが実はどれひとつ同じものはない。1分眺め、5分見つめ、1時間観察したらそれぞれの冬芽はどういう表情で、どんな風におしゃべりをはじめるのだろうか。見ること、じっと観察すること、感じることがひろい宇宙を感じさせられるということを教えられたのが、美の巨人たちの一枚の絵、熊谷守一の1961年作「雨滴」だった。テーマーは「見る」こと。

明治13年、熊谷守一は岐阜県の片田舎で生まれた。小学生の時は、肝心の授業よりも窓から一枚一枚落葉する葉を観察することに熱中するこどもだった。画家となって見ることにこだわった守一らしいエピソードだ。先日亡くなった動物行動学者の日高敏隆氏は、小学生時代に軍事訓練になじめず毎日蝶を追いかけては教官から死ねとまで言われて自殺まで考えたが、理解ある担任の教師の熱心の親へ説得で昆虫学者への道をすすむことができた。守一は、市長の息子として学校では優遇されたが、画家への志は商人にしたいという両親の反対にあう。それでも上京して、東京美術学校に進学する。

ネコヤナギの冬芽ではないが、早くから守一の才能の芽は周囲からも認められて画家への成功の道が開かれていたにも関わらず、見ることに厳格にこだわるあまりにどう見てよいのか、どう描けばよいのか混迷して故郷で6年間肉体労働をして過ごす。やがて大正6年、秀子と結婚して再び上京。次々と生まれてくる子供たちに囲まれて家庭的には幸福だが、生活は困窮する。彼は稼ぐために絵筆をとるタイプの画家ではなかったのだ。不幸にも再び絵筆をとったのは、次男の死に接してこの世に何も残せなかった息子を思って、せめてもの死顔をとキャンパスに向かった。やがて絵を描くことに夢中になって失った尊い命よりも対象として次男、陽の姿をとらえている自分に気がつき、筆をおいたという。昭和7年、豊島区に広い手入れのされていない森のような庭のある家に引っ越しする頃になると、ずっと植物や草木を見つめ続け自然や生物と対峙してきた画家の絵に、赤い輪郭線が表れ、のっぺりとした画風にかわっていく。学生時代は、まるでドラクロワのような自画像「蝋燭」を描いていた守一だったが、リズミカルでまるで唄うようなおなじみの絵に。

終戦直後に、今度は長女を失うと、守一は簡潔した線と色彩、そして表情のない家族の顔でその悲しみを表現した。晩年は、殆ど外出せずに、小さな庭が彼の見る対象のすべてとなった。精一杯生きている小さな昆虫、草花、小動物たちの生命の輝きを絵筆ですくいとってキャンバスに表現する守一の絵。そんな日々の中で生まれたのが、雨滴だった。木の板にぬられた黄土色の泥水。決して美しい景色ではないのに、そこに落ちて花の冠のように広がる雨滴。番組では、この雨粒が泥の中に落ちて広がる様子をハイテクな処理方法で映したのだが、人間の視覚でとらえることが不可能な様子を守一は見事に再現していたことに驚かされる。が、しかし、私はそんな彼の超人的な観察眼よりも、その観察が感性の湖に滴のように落としてのびやかに広がった、雨滴がまるでそれ自体生き物のような動的で音楽を感じさせるユーモラスさで選んだのが、今夜の一枚。笑っているような、泣いているような、おしゃべりをしているような滴たち。シンプルさの中に、聞こえる楽しい歌だった。


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