大胆・果敢の勇気のひとにも、強(こわ)い危険なものは怖い。

2012年10月31日 | 勇気について

5-8-1.大胆・果敢の勇気のひとにも、強(こわ)い危険なものは怖い。
 大胆・果敢の勇気は、危険なものに対決し攻撃的にふるまう。おびえ臆することの反対だから、その勇気には、恐怖はないかのようである。だが、危険なものに関わるのだから、それへの恐怖を伴っている。自転車に大胆な勇気を出すのは、まだ乗るのが危なくて、これが怖い人に限定される。
 自然的には、危険に恐怖すると、恐怖するままに逃走等の態勢をとる。だが、ひとは、自然を超越でき自律的で自由をもった存在として、必要であれば、勇気を出し、逃げず恐怖に距離をおき、これに忍耐できる。さらに、この恐怖させる危険なものを積極的に排撃する振る舞いに出る。怖い危険なものは、当然、強(こわ)い存在なのだが、怖さを抑え恐怖の束縛を脱して、ひとはこの強いものに対決する勇気を出す。その勇気ある対決には、危険なものを乗越える強い力を発揮することが必要である。その勇気ある対決の強力な闘志が大胆さであり、果敢さである。
 大胆・果敢の攻撃的勇気も、危険なものを対象とする以上、恐怖をふまえる。しかし、大胆・果敢に攻撃的に気を集中させるほどに、受身の恐怖は気に留まらなくなり、恐怖は薄れていく。攻撃していて反撃にあい危険となれば、新規の恐怖をいだく。それは、そこが危険で防御すべきところで、大胆・果敢にこちらから反撃すべき目標ともなることを知らせるものである。この恐怖も、反撃に踏み切れば消失していく。

 


放胆-大胆・果敢を解き放つ-

2012年10月30日 | 勇気について

5-8.放胆-大胆・果敢を解き放つ-
 勇気は、危険への恐怖を忍耐し制御する。だが、それだけでは危険なもの自体は放置されたままとなる。勇気は、さらに、この危険なものを排撃する必要がある。危険と対決する大胆さ・果敢さの勇気がそれを進めていく。恐怖忍耐の勇気は、こころのうちに留まったものであるが、大胆・果敢の勇気は、恐怖から解き放たれて、そとに、危険の実在世界に飛び出して、積極的能動的に危険なものと対決する。こころ(=「胆」)は、妨げなく解き「放」たれると、撃破すべき危険なものが目の前にあれば、おのずと攻撃的に「放胆」に、大胆に果敢になっていく。
 かみつきそうな猛犬の前では恐怖し、殴りつけるような大胆さは持ちにくい。恐怖は、ひとのこころを萎縮させ、攻撃的になることを妨害する。だが、その猛犬が鎖でつながれていることが分かって恐怖が消失すると、とたんに勇敢になって大胆となり、場合によってはこれを果敢に殴打することもできる。
 恐怖の重石がとりのぞかれたら、こころは、自由闊達をとりもどす。萎縮し臆して自己規制していたブレーキを解いて、攻撃は果敢になる。ひとを含めて動物には、生保存のための闘争的な本能がある。誰も殴られたくはないが、有害で気障りなものを懲らしめ殴ることは、欲求ともなる。殴り返される恐怖がなければ、排撃すべき危険なものへは、生が活発なら、おのずと放胆に、大胆に果敢に対処していくことが可能となる。


忍耐は、よく考えてしないと、我慢のし損となる。

2012年10月29日 | 勇気について

5-7-6.忍耐は、よく考えてしないと、我慢のし損となる。
 忍耐の苦は、慣れると、苦でなくなることが多い。強い刺激には感覚は感度をさげて慣れる。暗闇からでた当座はまぶしいが、すぐに慣れてくる。辛苦を感じるのは、それが生に有害なためであったろうが、慣れて鈍感になって、ときには過剰適応してしまい、生に大きなダメージを受けても平気で忍耐できてしまう。忍耐強いひとが過労死するようなことになる。
 死を賭しても忍耐する価値のある場合もあろう。侵略軍と戦う戦士の勇気に求められる忍耐は、崇高である。だが、貪欲な経営者に酷使されて過労死するのは、無駄死である。忍耐は、手段である。よく考えてしないと、骨折り損のくたびれもうけとなる。
 勇気の忍耐は、主として恐怖・不安という強い不快の甘受にある。その結末が時に死ともなる危険と恐怖に耐える。その忍耐で得られるもの・目的をしっかりと洞察して、忍耐する価値があることを合理的に計算しているのでないと、我慢のし損となる。火事のなかへ万年筆を取りに入る価値はない。しかし、子供が取り残されているのなら、勇気を奮い起こし、恐怖に耐えて、猛火に飛び込むことも必要となろう。
 勇気は、高い人物評価をもたらすので、虚勢をはり威勢のいい振る舞いに出たくなることもある。だが、合理性を欠いた忍耐・勇気は、無用である。威勢よりは理性を尊重しなくてはならない。「臆病者!」と罵倒されようとも、匹夫の勇、小勇には与せず、理性的な大勇に心を配ることである。「大勇は、怯なるがごとし(大勇若怯)」(蘇東坡)ともいう。


恐怖への忍耐は、その目的や利害しだいで、大きく変わる。

2012年10月28日 | 勇気について

5-7-5.恐怖への忍耐は、その目的や利害しだいで、大きく変わる。
 忍耐は、辛苦を甘受して忍び、快・欲求を抑制して耐える。それによって、大きな価値獲得が可能となるからである。忍耐は、手段であり、その目的・獲得される価値の大きさに見合うものでなくてはならない。ハンカチが河に落ちても、これを取り戻すために飛びこむことはない。だが、子供が落ちたのなら、凍りつくような水の中にでも勇気を出して飛び込む。
 そこでの忍耐の辛さと、得られる価値を比較して、得られるものが大きければ、それだけ忍耐のし甲斐があることになり、より長くより大きく忍耐できることとなろう。はるかさきの目的になると、先の見通しのきく人と否とで、忍耐の意義は、異なってくる。はるかを見通すひとは、他のひとより根性・忍耐力にまさることがなくても、忍耐できるが、そうでない者は、忍耐する意味が見出せない状態では、そう長くは我慢できないであろう。
 その苦に見合うものが得られるのかどうかの利害を計算して、忍耐する。忍耐の苦と、得られるものの価値の差し引き計算をする。息を止める忍耐でその賞金が千円だったら、1、2分で我慢の限界になるが、賞金一億円だったら、5分を超えてでも失神するまで辛抱できることであろう。
 勇気を出し、恐怖への忍耐の度合いを高める必要があるのなら、そのことでなる目的・意義・利を幾重にも描きだすことである。直近のそれらに限ることはない。勇気は、高い人物評価をもたらす。おのれの尊厳を誇示することにもなる。それらも思えば、忍耐するに力がはいることであろう。


忍耐の経験は、堪(こら)え性や根性をつちかう。

2012年10月27日 | 勇気について

5-7-4.忍耐の経験は、堪(こら)え性や根性をつちかう。
 勇気の核心は、恐怖の忍耐にある。恐怖を制御でき臆することがなければ、大胆・果敢の攻撃的勇気を出すこともたやすくなる。勇気の忍耐は、恐怖の不快を甘受しつづけ、その逃走衝動等を抑圧しつづけて耐える。理性は、恐怖を抑圧し小さくして心のうちに押し留め、何事もないかのように平然とかまえて、忍び、耐え続ける。恐怖は、動物的なものも社会的な高度なものも同様の心身反応をとり、それらへの勇気も同様の対応をとるから、ひとつのことでの恐怖への忍耐は、そのひとの勇気全般の能力を高める。
 つらいことに耐える経験を繰返すと、それに適応し慣れて、楽に平静に受け止められるようになり、ひとは、よりよく忍耐することのできる能力を養う。負荷を与え鍛えれば筋肉は大きく強くなる。こころも同様である。病原体に対する抗体のように、心も、恐怖などの辛苦に耐えるなかで、自身に精神的な抗体をつくりだす。強い我慢力ができ、辛抱への粘り強さが磨かれてくる。忍耐を重ねる中で、堪(こら)え性とか、根性といった忍耐力が養われる。
 忍耐力は、生まれつきのものではない。自分が必要に応じて育てるものである。辛苦に耐え、これに挑戦する積極的な経験が忍耐力・根性を作り出す。受苦受難の風雪に耐えて根性は、不撓不屈のねばり強い意志をつちかう。それは、受苦における強さにはとどまらない。強(こわ)いものに耐えて負けじ魂をやしない、攻勢的な不屈の闘志ともなる。