2-2-1-1. 直接的には傷害や妨害に忍耐するのではない
妨害があると、「妨害に忍耐する」という。だが、妨害が苦痛でないのなら、忍耐はいらないであろう。かりにこれが楽しければ、妨害でも忍耐はいらない。可愛がっている子犬が、足元で自分の歩くのを妨害するというような場合、楽しくはあっても、忍耐などいらない。妨害に忍耐するというが、その妨げるものが不快で、この不快に忍耐するのである。不快に忍耐するから、結果的に妨害に忍耐していることともなる。妨害といっても、その不快は多様であり、それに応じて忍耐も多様となる。妨害によって痛みが生じてこの痛みに忍耐するのみではない。妨害に立腹し、この怒りを抑制する辛さに忍耐するという場合もある。いずれにしても、忍耐は、直接的には、妨害自体にではなく、それで生じる苦痛・不快にするのである。
傷害も同様で、かりに傷ついても、痛まないのなら、忍耐無用であろう。ひどい傷で大いに痛んだとしても麻酔すれば、痛みを取り除けば、忍耐は無用となる。骨に傷害が生じていたとしても痛まないかぎり、忍耐の働くことはない。小さな傷でも、それが痛むのであれば、これには忍耐が必要となる。痛みが解消すれば、忍耐は無用となる。忍耐が直接対象にするのは、傷ではない。その主観における痛みである。
熱めの風呂に我慢するとき、その熱い湯自体に我慢するように感じる。だが、しばらく我慢していると熱さの苦痛はなくなる。そうなると、同一の熱い湯であるにもかかわらず、忍耐はいらなくなる。熱さではなく、熱さによって生じた苦痛に忍耐していたのである。