直接的には傷害や妨害に忍耐するのではない

2018年12月28日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-2-1-1. 直接的には傷害や妨害に忍耐するのではない
 妨害があると、「妨害に忍耐する」という。だが、妨害が苦痛でないのなら、忍耐はいらないであろう。かりにこれが楽しければ、妨害でも忍耐はいらない。可愛がっている子犬が、足元で自分の歩くのを妨害するというような場合、楽しくはあっても、忍耐などいらない。妨害に忍耐するというが、その妨げるものが不快で、この不快に忍耐するのである。不快に忍耐するから、結果的に妨害に忍耐していることともなる。妨害といっても、その不快は多様であり、それに応じて忍耐も多様となる。妨害によって痛みが生じてこの痛みに忍耐するのみではない。妨害に立腹し、この怒りを抑制する辛さに忍耐するという場合もある。いずれにしても、忍耐は、直接的には、妨害自体にではなく、それで生じる苦痛・不快にするのである。
 傷害も同様で、かりに傷ついても、痛まないのなら、忍耐無用であろう。ひどい傷で大いに痛んだとしても麻酔すれば、痛みを取り除けば、忍耐は無用となる。骨に傷害が生じていたとしても痛まないかぎり、忍耐の働くことはない。小さな傷でも、それが痛むのであれば、これには忍耐が必要となる。痛みが解消すれば、忍耐は無用となる。忍耐が直接対象にするのは、傷ではない。その主観における痛みである。
 熱めの風呂に我慢するとき、その熱い湯自体に我慢するように感じる。だが、しばらく我慢していると熱さの苦痛はなくなる。そうなると、同一の熱い湯であるにもかかわらず、忍耐はいらなくなる。熱さではなく、熱さによって生じた苦痛に忍耐していたのである。

  

  


辛い懸垂は、苦痛にではなく、力むことに忍耐している感じだが・・

2018年12月21日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-2-1. 辛い懸垂は、苦痛にではなく、力むことに忍耐している感じだが・・
 懸垂では、そのはじめは忍耐無用で、意志は力を筋肉に入れて懸垂を実現する。忍耐なしでできるのだから、忍耐が懸垂をさせているのではない。だが、腕が思うように動かず辛くなってくると、懸垂をやめたくなってくる。そこでなおこれを持続するには、辛さに耐えて力を振り絞ることが必要になる。辛さに忍耐するのをやめると懸垂は終わる。この段階では、忍耐が懸垂を持続させるに大きな力となってくる。だが、いくら忍耐しても、おそらく、懸垂自体は、せいぜい、何回か伸びるだけであろう。あとは、どんなに懸垂しようと力んでも辛さの忍耐を持続させても、懸垂自体は、無理となる。無駄に辛さを忍耐するだけとなろう。忍耐は懸垂をさせる力をもっていない。もっと懸垂できるようにするには、忍耐力をいくらつけても無理なことで、腕を、その筋力を強くすることが必要である。
 では、忍耐は、懸垂でどういう働きをしているのであろうか。腕が辛くなり苦痛になると、その原因は懸垂にあるということだから、忍耐しない者は、苦痛回避のために、その原因拒否、懸垂中止に向かう。懸垂をやめれば、苦痛はなくなり忍耐無用となる。これに対して、忍耐は、この苦痛回避を抑制し苦痛を拒否しないで受け入れる態度をとる。したがって、(苦痛の原因の)懸垂の持続をさまたげないということになる。忍耐は、懸垂の持続を妨害する苦痛の動きを抑止して、懸垂続行を守るという役をする。
 懸垂自体の持続に忍耐は関与するが、それは、力んで腕を使うこと自体にではなく、そこに生じる苦痛を乗り越えていく苦痛甘受に発揮されているのである。苦痛発生で、もし忍耐がなければ懸垂を断念するのを、なお、苦痛のなか、腕が動かなくなるまで懸垂を持続させていくことを可能にする。辛い懸垂に忍耐するのだが、それは、懸垂持続自体に力を入れ力むことではなく、その辛さに耐えるということである。忍耐は、やはり、苦痛・辛苦にするのである。


忍耐は、自分の主観内の辛苦を対象にする

2018年12月14日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-2. 忍耐は、自分の主観内の辛苦を対象にする  
 忍耐は、同じ客観的な事柄について、人によって忍耐の対象であったりなかったりと曖昧なところがあるが、主観的には明確である。そこに苦痛・不快があれば、忍耐が成り立つ。「冷たい水を我慢する」「重い荷物に辛抱する」と、自分の外のものに忍耐するとはいう。だが、それら外のものが不快でなければ、あるいは快適であったとすると、「重い金の延べ棒」も「冷たい名水」も、忍耐は無用である。自分のものになる金の延べ棒は、重くて腕がしびれればしびれるほど、わくわくと愉快なことであろう。苦痛でないのなら忍耐はいらない。忍耐は、苦痛があってのものである。
 大怪我をした場合も、この怪我に忍耐するのではない。自分に生じた痛みにする。もし痛みがないのなら(戦場などではときにそうなる)、どんな大怪我であっても忍耐無用である。あるいは、忍耐しがたいことになったときには、苦痛を無化すればよい。確実に忍耐無用にできる。大怪我自体はどうなっていようとも、苦痛さえなくできれば、忍耐はいらなくなる。忍耐は、苦痛にするのであって、直接的には、その原因の傷にするのではない。
 そとに何もなくても、痛めば、これには忍耐がいる。炎症もなにもなく原因不明でも、歯が痛めば、この苦痛には忍耐がいる。妄想で痛みが生じても、ひとの携帯電話の電波が自分の脳を突き刺して痛めつけるのが妄想であっても、当人には辛いことで、日々忍耐して鬱憤をためる。対象がない無への不安でも、これに苦しむ者には、忍耐がいる。忍耐は、もっぱら自己内の辛苦・苦痛にするのであり、苦痛の有無はまちがうことはなく、どんな物でも、否、なにもなくても、苦痛があれば、これへの忍耐はありうることとなる。


動物になると、忍耐が言えるであろう

2018年12月07日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)

2-1-6-1. 動物になると、忍耐が言えるであろう
 動物には、苦痛の感覚・感情(心身の反応)がある。その苦痛をあえて選択し受け入れ甘受してという意識もあることであろう。動物は、忍耐しそうである。ただし、基本的には快不快のままに生きるのが動物で、不快からは逃げ、快適なものはより多く享受したいという自然的営為のもとにある。動物が忍耐する基本は、より大きな快なり苦痛のあることが並行していて、これを優先するために、手元の小さな苦痛の方は受け入れる必要があるという、快不快の自然的な選択においてなるものであろう。あるいは、欲求の場合、それを抑圧し忍耐するのは、より切実な大きな欲求があって、その実現には、小さな欲求や苦痛は無視せざるをえないという状況のもとで、この小さな苦痛・欲求不充足の甘受を選択し忍耐するのであろう。快不快で動かされる動物では、苦痛も、その甘受もあることで、忍耐は存在している。
 ひとの場合は、快不快の自然にしたがう動物としての忍耐をしつつ、さらに、その自然を超越した忍耐が可能になる。動物的自然から自由になりえていて、価値獲得の手段として必要と判断すれば、自在に苦痛を忍んで耐えることができる。理性がはるかな目的を自由に描いて、これのために現前の苦痛甘受が必須となれば、これを目的達成のために忍耐する。大きな苦痛と小さな苦痛の選択肢が現前にあったとすると、動物は、大きな苦痛を回避する。だが、ひとは、その先を見て、大きな苦痛を受け入れたなら、その犠牲に見合う価値あるものが可能となると判断したら、快不快の自然を超越して、大きな苦痛の方を選択する。