忍耐は、よく考えてしないと、我慢のし損となる。

2012年10月29日 | 勇気について

5-7-6.忍耐は、よく考えてしないと、我慢のし損となる。
 忍耐の苦は、慣れると、苦でなくなることが多い。強い刺激には感覚は感度をさげて慣れる。暗闇からでた当座はまぶしいが、すぐに慣れてくる。辛苦を感じるのは、それが生に有害なためであったろうが、慣れて鈍感になって、ときには過剰適応してしまい、生に大きなダメージを受けても平気で忍耐できてしまう。忍耐強いひとが過労死するようなことになる。
 死を賭しても忍耐する価値のある場合もあろう。侵略軍と戦う戦士の勇気に求められる忍耐は、崇高である。だが、貪欲な経営者に酷使されて過労死するのは、無駄死である。忍耐は、手段である。よく考えてしないと、骨折り損のくたびれもうけとなる。
 勇気の忍耐は、主として恐怖・不安という強い不快の甘受にある。その結末が時に死ともなる危険と恐怖に耐える。その忍耐で得られるもの・目的をしっかりと洞察して、忍耐する価値があることを合理的に計算しているのでないと、我慢のし損となる。火事のなかへ万年筆を取りに入る価値はない。しかし、子供が取り残されているのなら、勇気を奮い起こし、恐怖に耐えて、猛火に飛び込むことも必要となろう。
 勇気は、高い人物評価をもたらすので、虚勢をはり威勢のいい振る舞いに出たくなることもある。だが、合理性を欠いた忍耐・勇気は、無用である。威勢よりは理性を尊重しなくてはならない。「臆病者!」と罵倒されようとも、匹夫の勇、小勇には与せず、理性的な大勇に心を配ることである。「大勇は、怯なるがごとし(大勇若怯)」(蘇東坡)ともいう。