損傷発生にともなう痛みの場合

2022年10月25日 | 苦痛の価値論
3-2-1-4. 損傷発生にともなう痛みの場合   
 痛みは、損傷を知らせる感覚であり、その損傷が大きくなるとともに痛みも大きくなる。蚊が刺すと痛むが、その傷は小さいので、痛みも小さい。縫い針が刺さる場合は、それ以上の痛みとなる。釘でも刺されば、もっと痛む。蜂に刺されると、毒液が大きな痛みを生じさせる。マムシにかまれると、火傷のような痛みになるという。痛みは、損傷の質と量を知らせてくれる価値ある感覚である。その痛みの情報にしたがって、損傷への対処を、ひとは直ちに実行する。それへの回避・排撃衝動をいだいて対処する。痛み自体が回避反応(=反価値)をもった感情となることでもある。
 痛みと損傷は、相関関係にあるが、損傷持続時の痛みは、損傷の程度と一致しないことも結構ある。火傷とか擦り傷では、損傷持続に見合った苦痛の持続がある。化膿した場合は、痛みもだんだん大きくなるから、化膿を意識させ、価値ある痛みを思わせる。しかし、痛みと損傷が相関的にならないこともある。痛みは大きいけれども、損傷がないとか小さいということがある。ときに脳や神経の誤作動で痛みが生じる。
逆に、痛まないけれども、大きな損傷の生じていることもある。大きな怪我の場合は、意外と痛みは感じられないか、気にならない。痛まないのに損傷があったり進行しているという代表は、内臓の損傷であろう。自然的には、内臓が損傷しても対処の仕様がなく、痛みは無意味なことになるので、痛覚を持たない方が有利になるといった淘汰が進んだのであろう。大きな怪我で痛みが感じられないことがあるのは、ショックで全心身が異常な放心状態になって、平常の痛み感覚の情報など、放置されるのであろう(小さな擦り傷の痛みなども、ほかに意識が向いた時には、痛みは忘れている)。

痛みは、しばしば損傷の手前で働き始める

2022年10月18日 | 苦痛の価値論
3-2-1-3. 痛みは、しばしば損傷の手前で働き始める 
 痛みは、損傷を知らせる緊急情報である。それが痛みの本源的な働きであるが、損傷を阻止することが一番であるから、それがよりよく叶うようにと苦痛の在り方は、より敏速・過敏になっていったはずである。それに、よりふさわしい在り方は、痛みが、損傷と同時に生じるのではなく、可能ならば、損傷の始まる前に生じることであったろう。損傷がはじまってから痛むのでは、逃げられるとしても損傷を少し受けてしまう。だが、その直前に痛めば、損傷をゼロにできる。皮膚に、損傷するような圧力が加わるとすると、損傷発生の直前の圧力に痛みを生じるなら、これを回避するように動けて、損傷をゼロにできる。生の淘汰は、損傷の発生の手前で、過敏に敏速に苦痛が発生して、この苦痛の事態(損傷直前の否定的事態)を回避するようにと進んでいったことであろう。
 生保護をうまくするには、漸次的に損傷が生じる場合は、苦痛だけが生じている損傷直前の段階で、苦痛(発生の事態の)回避にと動くことである。それには、苦痛(感覚)に過敏になり、苦痛に、大きな感情的な不快を、大きな嫌悪感・焦燥感(感情)を持たせることである。回避・排除の感情的反応を痛みにもたせることで、苦痛発生とともにその回避への火急の動きが生じ得ることになる。1)損傷の手前の小さな痛み感覚の発生、2)もうすこし大きな痛みになって、損傷が生じそうな直前の段階に至っての、痛み回避の衝動(苦痛感情)発生、3)さらに進んで、ついに損傷発生という展開である。日頃の漸次的に損傷の発生していく事態においては、この2)の苦痛(苦痛感情=反価値)の段階で、その危機的な事態を回避しこれから逃げるという反応をもって、損傷をゼロに出来ていることが多いのではないか。1)の苦痛感覚は、損傷への情報をもたらすもので価値、2)の苦痛感情は、主観的には回避衝動となって嫌なもの・反価値で、かつ、損傷になることを回避、防止する点では、価値ということになろう。

苦痛(感覚)自体には、苦痛回避衝動はない

2022年10月11日 | 苦痛の価値論
3-2-1-2. 苦痛(感覚)自体には、苦痛回避衝動はない 
 苦痛は、損傷が生じたという知らせであり、その苦痛の感覚をふまえて、生主体は、損傷から身を保護するための反応をもって、損傷回避の衝動を発する。その衝動は、本源的には損傷回避に動くのであって、苦痛回避のために動くのではなかろう。痛みの感覚自体には、苦痛回避の衝動は存在しない。痛みの感覚へ生主体が嫌悪等の感情を生起させて損傷回避の反応となるのである。だが、痛みが感じられると、できるだけ火急に損傷回避のために動く必要があるので、痛みが生じると間髪を入れず回避反応が続き、痛みと回避反応は一体的になる。回避反応は、痛み自体の感情ということになり、したがって、痛み(感覚・感情)自体が回避し排撃したいもの、反欲求・反価値と感じられるようにもなる。しかし、痛覚に発する痛みの感覚そのものは、損傷を知らせるだけで、回避の衝動を含まず、したがって反価値ではなく、有益な情報、価値になろう。
 痛みの反対の快も似た事情にある。食でいえば、甘いものを価値とするが、もともとは、甘味は、味覚としては、それ自体は快感情とは別である。その甘味がのど越しにおいて触覚と結んで快感情、おいしさとなる。甘味(感覚)は、栄養あるもの(価値)の獲得となるのが普通なので、しだいに、甘味自体が即受け入れたいもの(快、価値)となったのであろう。
 苦痛と損傷の間でも、損傷・有害物が反価値として回避すべきものなのに、常に苦痛がそれに伴い、むしろ、意識においては先行するので、苦痛自体を回避することになっている。苦痛を回避すれば、損傷も回避されることが普通なので、しだいに、苦痛回避へと短絡的に動くことになったのであろう。苦痛は、損傷を知らせる有益な情報(感覚)となるもので、その限りでは価値である。しかし、苦痛(厳密には苦痛感情)は、回避反応と一つになったものとしては、感じたくない反欲求として現れて、反価値である。

苦痛のみの場合は、専ら反価値か

2022年10月04日 | 苦痛の価値論
3-2-1-1. 苦痛のみの場合は、専ら反価値か
 生に禍いとなるのは、なんといっても、その損傷である。それを知らせる苦痛は、これを知らせて回避を促す点では、生維持のための大きな価値である。だが、ときに、苦痛のみのある時がある。どこにも損傷はないのに痛みがある場合、損傷を知らせる価値としての苦痛ということではなくなる。
 苦痛が価値になるのは、損傷への対応を強制するということにあるのなら、純粋な苦痛は、嫌な回避したい感情でしかなく、もっぱらに反価値となる。損傷が生じたと緊急情報を発し、あるいは病気だと知らせるのが苦痛の価値である。見えない場所での身体の損傷は、とくに苦痛が頼りとなる。病院に行く気になるのは、苦痛が生じているからであって、それがないと多くの場合、重病でも気がつかずに、その重篤化を招くことになる。だが、損傷・病気でもないのに痛みの生じる場合がある。これは、その苦痛自体が治療すべき病気ということになっていく。はじめから終わりまでその苦痛は反価値であろう。
 しかし、損傷なしの純粋な苦痛でも、ときには、本人に価値をもたらすことがありそうである。覚醒を必要とするとき、苦痛を与えてすることがある。これは、覚醒の手段として有効であり、価値ある苦痛と見なされ得るであろう。損傷の生じない程度に苦痛だけを生じさせて、その苦痛をもって目を覚まさせる。目覚まし時計とか禅での警策は、損傷なしで耳や肩に苦痛だけを与えて覚醒をもたらす。その苦痛は、覚醒を促すという価値をもつ。とすると、純粋に痛みのみで損傷なしの場合も、勿論、感情としては反価値だけれども、価値となることがありそうである。
ストレッチで「痛・気持ちいい」という言葉を耳にするが、痛さが損傷をもたらさない程度の場合、心地よい刺激となることがある。嫌で回避したい苦痛自体が、快を生むことになるのだとすると、純粋な痛みも、その反価値の感情自体が、ときには、快(価値)の構成部分として、受け入れたいもの、価値となることもありそうである。