勇気の恐怖(抑制)と大胆は、節制の快・苦の二元性に対応。

2011年05月30日 | 勇気について
1-6-1.勇気の恐怖(抑制)と大胆は、節制の快・苦の二元性に対応。
 食の節制では、快楽(おいしさ)を節することが中心になるが、感情としての快楽は他方に不快・苦をもち、節制は、不快(まずいもの)を健康に必要なら受け入れる態度をもつ。同様、勇気の場合、単に恐怖(不快)の抑制のみではなく、それに対応する感情(快系列)等も配慮すべきであろう。アリストテレスは、恐怖に並べて「大胆さ」をあげた。
 食の節制の場合、快楽(おいしさ)の無自体は、不快(まずさ)にはならない。苦いもの酸っぱいもの、嘔吐をもよおすものが、快と対立する形で積極的に存在していて、これに食の節制は配慮することが必要となる。勇気の恐怖の場合、恐怖(不快)の反対は、ひとつには恐怖のゼロ・無の安らかさ(快)があろう。これは、恐怖を無化した安心の状態で、これはこれで人生にとって大切な感情となる。だが、受動の恐怖の反対ということでは、積極的には、攻勢的加害の心の構えがある。怒りの感情がその代表になる。勇気は、勇士(戦士)の徳として、恐怖を抑えた単なる安心にとどまるものではなく、危険な事物の排除をする積極的に攻撃的なものでもなくてはならない。この能動的な構えは、感情的対応にとどまらず、理性の意志をもっての攻撃・攻勢の姿勢でもあろう。
 勇気のもとでの反恐怖の攻撃的感情としての怒りでは、おそらくは、アリストテレスのいう中庸が求められるべきである。過度の怒りは、原始的に退行した状態となって、見境のない短絡的な感情爆発に終わる。さらに、反恐怖には理性的意志の積極的攻勢的な姿勢があり、勇気は、理性のもとに雄雄しい闘魂をもち、闘争精神に燃える。この強い意志をもった闘魂が、大胆さ・果敢のうちにある。これは、怒りへの中庸とちがい、知力・精神力を尽くして最大・最高の闘魂を発揮した大胆さ・果敢さでいいようにも思えるが、どうであろうか。あるいは、勇気の大胆・果敢という契機は、感情的レベル(怒り・優越心・大様さ等)では中庸を維持し、意志・理性のレベルでは、最高の働きをもって構成されるべきなのかも知れない。

勇気を中庸ととらえたアリストテレス

2011年05月27日 | 勇気について
1-6.勇気を中庸ととらえたアリストテレス
 闘う者、勇士の徳である「勇気」は、大胆・果敢さが極大で、恐怖が極小・ゼロになることをもって、最大の勇気となるように一見思える。だが、アリストテレスは、これをほかの節制などの徳と同様、「中庸」に求めた。ほどほどの大胆、ほどほどには恐怖をということである。
 勇気の大胆さ・果敢さが極端になって、無謀・暴勇になると、見境のないことになって、激怒がそうであるが、破壊してはならないものまでも攻撃して破壊してしまう。徳となる勇気には、正確に攻撃できる理性的冷静さがいる。自分の足を刺す蚊をつぶすのにハンマーを振り上げるような愚かなことをしてはならない。怒りの感情などにまかせて無謀に攻撃するのではなく、ほどほどに中庸にということである。他方、大胆さを欠いて、ぐずぐずしたのでは、攻撃はならない。優柔不断・無気力・弱腰では、たたかれ後退し打撃を受けるだけとなり、たたき戦うところに成り立つ勇気は見る影もない状態となる。無謀でなく弱腰にならず適切な程度において、大胆に、果敢になるべきなのである。
 恐怖は、危険なものへの反応だから、これがないと、危険の意識そのものがおろそかになる。危険なもの・恐ろしいものには、恐怖すべきである。それがゼロでは、不感症・鈍感になって対応を誤る。断崖絶壁では足がすくむ方がいい。ただし、過剰に反応したのでは、腰を抜かしたりパニックになったりして、冷静に適切な形で対応することができなくなる。臆病でなく、かつ鈍感にとどまることなく、ほどほどの恐ろしさをもつことがいる。
 勇気は、「恐怖と大胆とについての中庸」だとアリストテレス『ニコマコス倫理学』は論じる。恐怖について、これは必要だが、冷静な対応ができるように、ほどほどに中庸にと。攻撃的な面では大胆・果敢にだが、これも過ぎると無謀となるから、ほどほどに適正に中庸にと。

戦う面からは、大胆・果敢が勇気になる。

2011年05月23日 | 勇気について
1-5.戦う面からは、大胆・果敢が勇気になる。
 勇気は、たたかいの場にいう。危険への恐怖に忍耐することがまず必要だが、うちなる恐怖に耐えるだけでは、外にある(恐怖をもたらす)危険自体は、危険なままである。勇気ある者は、その恐怖抑制でこころを冷静に保ちながら、つぎには、肝心なこととなる、禍いをもたらす危険なものの排撃にと進まねばならない。恐怖をもたらすほどの危険なものには、よほどの決意をもってかかる必要がある。その攻撃的姿勢の構築に大胆さ・果敢さが求められよう。勇気は、積極的には、この攻勢的な果敢さにある。勇気は、たたかいの美徳である。 
 毒蛇が部屋にいるのを発見すると、その危険に恐怖反応をする。勇気は、これを抑えて、平気になれるのでなくてはならないが、それだけでは、なお勇気には欠ける。それだけなら、「動じない」「肝が太い」と言われるにとどまる。平気になるだけでは、恐怖は去っても、肝心の危険な毒蛇自体は去っていないのである。勇気は、禍いをもたらす危険なものと闘い、これを排撃するところまでいくべきである。毒蛇を捕らえてこれを戸外に排除する積極的な行動に進む必要がある。
 その行動へと大胆さ・果敢さをもって進むとき、危険な対象は、対抗的に一層危険な形に出てくることであろう。毒蛇は、威嚇の姿勢をとり、飛びかかり、毒を吐きかけるなどの新規の危険をもたらす。大胆で果敢な勇気は、はじめの危険=恐怖のみでなく、さらに、この新規の危険への新規の恐怖を抑制・忍耐しつつ、危険の排撃へと勇往邁進することになる。
 「大胆で、命知らず」と勇敢な戦士を形容するが、その果敢な勇気は、能動的で積極的攻勢的なものとして、恐怖への忍耐である消極的な(受身の)勇気とは区別されよう。が、前者は、同時に常に恐怖を前提にし、後者、恐怖の忍耐を踏まえているというべきである。「命知らず」の勇士は、死の危険に臨んでいるが、この危険は、感情的には恐怖の反応をもたらす。恐怖を心底にもっての、危険に立ち向かう果敢な攻勢的勇気ということになろう。危険のない(したがって恐怖のない)圧倒的強者は、「勇気」をもってはげますことは不要である。勝ち目のなさそうな弱者を「大胆に、果敢に、勇気をもって!」とはげます。かれには、戦う姿勢をもてば常に危険な(恐怖すべき)場面がまっている。果敢・大胆の勇気も、「危険への」攻勢的勇気として、(危険への)恐怖とそれへの忍耐をもっているというべきであろう。

恐怖するところで勇気を出す。

2011年05月20日 | 勇気について
1-4.恐怖するところで勇気を出す。
 勇気が求められるのは、禍いに遭遇したり、闘いでダメージを受けたりするような、危険が想定される場面になる。危険に対しては、ひとは、恐怖の感情をもって対応する。恐怖は、危険なものへの防御・予防感情で、これがあるから、おのずからにして、危険なものからの危害を避けて身を保護することが可能となるのである。危険なものへの恐怖がなかったら、おそらくいくつ命があっても足りないことであろう。だが、過度の恐怖にとらえられると、冷静で的確な対応ができなくなる。恐怖にパニックになったり逃走するのでは、戦えなくなる。勇気は、この恐怖を抑制して、冷静な対処に努める心の構えである。
 勇気は、恐怖あってのものである。恐怖がなければ、勇気は影を薄くする。へびが怖くないものには、勇気は無用であろう。怖いから勇気が求められるのである。高いビルの外壁にある非常階段から緊急脱出するとき、「勇気を出して」と励ますのは、高所恐怖のひとに限られる。高所の平気なひとに対しては、「あわてず足元に気をつけて」ぐらいになる。恐怖があっての、恐怖に対しての勇気である。
 恐怖心を抑えることだけですべてが済むものなら、それで「勇気がある」ことになる。だが、恐怖のもとになる危険の排除が求められている場合、そこまでいかないと、「勇気がある」とは言いにくいであろう。へびの怖いひとが、それを見て恐怖心を抑ええているとしても、へびをつまんで外にだすことが求められているのであれば、見ることができているだけでは勇気には欠ける。それをつまむ積極的な行動にまで進んではじめて「勇気ある」者となるであろう。高所の非常階段でぶるぶる震えている者が、目を瞑って恐怖をおさめただけでは、まだ「勇気がある」とはいいにくい。下へと降りる行為に出るべきならば、それにチャレンジする気力を奮い起こして、足を踏み出してやっと「勇気を出す」ことになるのではないか。

戦いでも、「頑張れ!」にとどまり、「勇気を!」とはならないことも。

2011年05月17日 | 勇気について
1-3.戦いでも、「頑張れ!」にとどまり、「勇気を!」とはならないことも。
 闘(たたか)いは、「たたきあい」である。たたかう相手=敵をたたき打撃を与えて勝敗を決するのであり、優勢になったり、劣勢になったりして、たたき攻撃し、たたかれダメージをうけあう。
 圧倒的に力あるものと、極端に劣勢なものの間のたたかいでは(たとえば、格闘技日本一のものと、モヤシのようにひ弱な青年の格闘)、「勇気」が必要なのは、前者ではないであろう。前者は、優勢で相手にひたすら打撃を与えうる闘いになるが、そこでは「勇気を出せ」とは言わない。応援するとしたら、「がんばれ」というにとどまる。優勢でも、やる気がない場合は、相手を攻撃することになっていかない。それを鼓舞するときには、「勇気を出せ」となるであろうか。攻撃へと奮い立たせようというのだが、戦う気になれば、なんら危惧することもなく圧倒的に攻撃できて勝利できるのだとしたら、やはり、「勇気を」とはいわないのではないか。せいぜい、「ファイト」「がんばれ」と尻をたたくぐらいであろう。
 闘いで「勇気を出せ」といわれるのは、むしろ、劣勢で、たたかれて攻撃されている方であろう。劣勢な方は、もう闘いをやめたい逃げたい、闘いの姿勢をとるとそこを攻撃されるので、戦う姿勢もとりたくないといった臆する状態になることであろう。このとき、攻撃されダメージを受けるのを我慢して耐え続けろという場合、励ますには、「勇気をもって耐えろ!」ということになろう。劣勢だが負けじ魂・闘魂を発揮して攻撃に出ることを求めるとき「勇気をだせ!」と鼓舞する。
 戦う気力がなくても圧倒的な強者には「勇気を」とはいわないが、劣勢の弱者については、かれが臆して戦う意欲を喪失し無気力状態に陥っている場合は、おそらく、鼓舞すべきならば、「勇気を出せ」と肩をたたくことであろう。「勇気」は、勇士のものだが、圧倒的に強い勇者がではなく、むしろ、劣勢で危険な場面に遭遇する戦士が抱くべきものになりそうである。危険に臆しつつもこれに挑戦する姿勢をもつ場面に勇気をいうのであろう。