1-6-1.勇気の恐怖(抑制)と大胆は、節制の快・苦の二元性に対応。
食の節制では、快楽(おいしさ)を節することが中心になるが、感情としての快楽は他方に不快・苦をもち、節制は、不快(まずいもの)を健康に必要なら受け入れる態度をもつ。同様、勇気の場合、単に恐怖(不快)の抑制のみではなく、それに対応する感情(快系列)等も配慮すべきであろう。アリストテレスは、恐怖に並べて「大胆さ」をあげた。
食の節制の場合、快楽(おいしさ)の無自体は、不快(まずさ)にはならない。苦いもの酸っぱいもの、嘔吐をもよおすものが、快と対立する形で積極的に存在していて、これに食の節制は配慮することが必要となる。勇気の恐怖の場合、恐怖(不快)の反対は、ひとつには恐怖のゼロ・無の安らかさ(快)があろう。これは、恐怖を無化した安心の状態で、これはこれで人生にとって大切な感情となる。だが、受動の恐怖の反対ということでは、積極的には、攻勢的加害の心の構えがある。怒りの感情がその代表になる。勇気は、勇士(戦士)の徳として、恐怖を抑えた単なる安心にとどまるものではなく、危険な事物の排除をする積極的に攻撃的なものでもなくてはならない。この能動的な構えは、感情的対応にとどまらず、理性の意志をもっての攻撃・攻勢の姿勢でもあろう。
勇気のもとでの反恐怖の攻撃的感情としての怒りでは、おそらくは、アリストテレスのいう中庸が求められるべきである。過度の怒りは、原始的に退行した状態となって、見境のない短絡的な感情爆発に終わる。さらに、反恐怖には理性的意志の積極的攻勢的な姿勢があり、勇気は、理性のもとに雄雄しい闘魂をもち、闘争精神に燃える。この強い意志をもった闘魂が、大胆さ・果敢のうちにある。これは、怒りへの中庸とちがい、知力・精神力を尽くして最大・最高の闘魂を発揮した大胆さ・果敢さでいいようにも思えるが、どうであろうか。あるいは、勇気の大胆・果敢という契機は、感情的レベル(怒り・優越心・大様さ等)では中庸を維持し、意志・理性のレベルでは、最高の働きをもって構成されるべきなのかも知れない。
食の節制では、快楽(おいしさ)を節することが中心になるが、感情としての快楽は他方に不快・苦をもち、節制は、不快(まずいもの)を健康に必要なら受け入れる態度をもつ。同様、勇気の場合、単に恐怖(不快)の抑制のみではなく、それに対応する感情(快系列)等も配慮すべきであろう。アリストテレスは、恐怖に並べて「大胆さ」をあげた。
食の節制の場合、快楽(おいしさ)の無自体は、不快(まずさ)にはならない。苦いもの酸っぱいもの、嘔吐をもよおすものが、快と対立する形で積極的に存在していて、これに食の節制は配慮することが必要となる。勇気の恐怖の場合、恐怖(不快)の反対は、ひとつには恐怖のゼロ・無の安らかさ(快)があろう。これは、恐怖を無化した安心の状態で、これはこれで人生にとって大切な感情となる。だが、受動の恐怖の反対ということでは、積極的には、攻勢的加害の心の構えがある。怒りの感情がその代表になる。勇気は、勇士(戦士)の徳として、恐怖を抑えた単なる安心にとどまるものではなく、危険な事物の排除をする積極的に攻撃的なものでもなくてはならない。この能動的な構えは、感情的対応にとどまらず、理性の意志をもっての攻撃・攻勢の姿勢でもあろう。
勇気のもとでの反恐怖の攻撃的感情としての怒りでは、おそらくは、アリストテレスのいう中庸が求められるべきである。過度の怒りは、原始的に退行した状態となって、見境のない短絡的な感情爆発に終わる。さらに、反恐怖には理性的意志の積極的攻勢的な姿勢があり、勇気は、理性のもとに雄雄しい闘魂をもち、闘争精神に燃える。この強い意志をもった闘魂が、大胆さ・果敢のうちにある。これは、怒りへの中庸とちがい、知力・精神力を尽くして最大・最高の闘魂を発揮した大胆さ・果敢さでいいようにも思えるが、どうであろうか。あるいは、勇気の大胆・果敢という契機は、感情的レベル(怒り・優越心・大様さ等)では中庸を維持し、意志・理性のレベルでは、最高の働きをもって構成されるべきなのかも知れない。