どこまでも手段・踏み台にとどまる忍耐

2017年07月28日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-2-3. どこまでも手段・踏み台にとどまる忍耐 
 忍耐は、目的の手段である。手段のなかには、その目的に向かうことをせず、それ自体が目的になるようなものもある。食や性の営為は、目的は栄養摂取、子供づくりであろうが、昨今は、それは、背後に引き下がり、ときには、そういう目的をもたず、逆に本来の目的を排除・拒否することも多い。食は、手段であるよりそれ自体が目的となる楽しみで、大目的の栄養摂取にならないように、肥満しないようにとすることもある。性的営みも、本来は子供をつくるための手段である。それは、パンダや牛馬の種付けのように年に一二回で済む。あとは専らに楽しみでするのである。ときには、自然的目的の子供づくりを拒否し、妊娠しないようにとまでして、これを楽しむことになる。手段でなく、目的となってしまうのである。
 食や性の営みでは、それが手段であること、目的論的であることは、しばしば崩れる。だが、忍耐は、どこまでも手段であることにとどまり続ける。それ自体が目的になることはない。目的は忍耐の苦痛甘受のそとにある(猛訓練での忍耐は、その労苦の生産物という目的のないものになるが、ここでも、心身の能力開発という目的をそとに持つ)。忍耐は、そのそとの目的のために役立つ手段・犠牲であり、踏み台にとどまる。手段と目的が忍耐のもとでは、はっきりしている。忍耐の苦痛甘受は、専らに手段であって、目的を実現するための媒介に徹する。食や性では、現在をむさぼりがちだが、ひとの忍耐は、つねに未来を生きる。


忍耐の目的は、「苦痛には限りがあり、報われる」と励ます 

2017年07月21日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-2-2. 忍耐の目的は、「苦痛には限りがあり、報われる」と励ます 
 かりに、苦痛の現在のみがあって、この苦痛が有限であることが分からないのだとすると、耐えがたさはどんどん大きくなろう。「あと二日我慢すれば済む」というのとちがって同じ苦痛の持続であったとしても、「際限のないこと」と感じられた状態では、その忍耐はよほど辛くなる。癌の末期状態で激痛の続くようなことがある。生きている限りは、もう安楽な状態にはなれないのだと諦念する。あとは、激痛を短くするために安楽死を選ぶというようなことになる。食の場合なら、快であるから、これを一生続けていく必要があるということは少しも苦ではない。日々の楽しみであり、この食の営為をやめたいと思うようなことにはならない。だが、苦痛の場合は、これが永遠に一生続くのかと思えば、暗澹とした気持ちになる。
 忍耐は、苦痛を甘んじて受け入れ続ける。それだけだと、長い苦痛の持続においては、耐えがたさが増すばかりである。だが、ひとの忍耐は、目的を設定することにおいて、この苦痛甘受を慰め励ます。まず、目的達成までの有限の間の限られた苦痛であると、苦痛の限度を示してくれる。さらに、目的は価値ある物事で、しばしば大いに快・愉快となることでもある。したがって、忍耐は、その快を実現するための苦痛・不快であると、苦痛甘受を、快に、未来の楽しみにと置き換えることを可能とする。
 目的・ゴールを知っているカメは、のろまでも、辛い道程の先には大きな褒美があると、首をあげて千年の先までを見定め、危険には首を引っ込め忍び耐えて、甲羅のうちで夢を育みながら、最後まで忍耐の歩みをやめない。だが、ゴールのことを考えないウサギの場合は、辛くなって立ち止まり、四囲の危険に耳を欹てても先は見ず、果てしのない苦痛だと感じると、忍耐をやめ、先に進むことを断念する。
 


損害・損傷のみとの覚悟ももっての忍耐

2017年07月14日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-2-1. 損害・損傷のみとの覚悟ももっての忍耐
 忍耐では「骨折り損のくたびれもうけ」をいう。忍耐するところには、かならず苦痛甘受の骨折りがある。生は、この甘受においてつらい思いをする。忍耐だけだとすると、苦痛・損害のみになるということである。したがって、安易に忍耐ははじめられない。損傷の苦痛は、未来に価値ある目的の実現を確信して甘受できるのである。
 かりに、目的活動の手段が、忍耐とちがって快なら、その目的が実現できなくても、快を享受できたのであり、その手段の実行を悔やむことはなかろう。食も性も手段のみが実現されて、目的の栄養摂取や子供づくりがかなわなかったとしても、その手段の快自体に文句をいうひとはない。だが、忍耐の場合は、目的が実現できなかったとすると、手段の苦痛だけが、マイナスのみがしっかり残るのである。
 目的が、どうでもいいようなものなら、忍耐はしないであろう。忍耐する苦痛は、できるならこれを避けたい辛いものである。そのつらい苦痛を受け入れても実現したい目的が忍耐では立てられている。自発的に忍耐するのは、そういう価値獲得にみあう苦痛だからである。他方、させられ強制される忍耐は、自身ではしたくないつらい苦痛だから強制されるのである。いずれにしても、忍耐では、目的の手段となる苦痛とその甘受は、覚悟してのみ受け入れられるような大きな苦痛であり、つらい甘受になるのである。
 忍耐は、「肉を切らせて、骨を切る」営みである。苦痛甘受の忍耐という手段は、まちがいなく、つらく生否定的なマイナスの事態である。「肉を切られる」のである。その非常の捨身の手段で、「骨を切る」目的が実現しないとしたら、切られて傷害を負って終わる。快適な食事という手段なら、栄養摂取の目的がならなくても、問題はない。だが、忍耐は、目的実現できなかったときは、無駄骨で散々な目にあうのである。
 


忍耐は、苦痛を介して未来・目的を目指す

2017年07月07日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-2. 忍耐は、苦痛を介して未来・目的を目指す
 ひとは、何をするにつけても、まずその目的を意識し、目的達成のために、それを可能とする手段を選んで行動をはじめていく。出かけるときはもちろん、家のなかでも動くときには、目的をもって動く。苦痛に忍耐するときも、同様に目的論的になることが多い。
 ひとの忍耐の、ほかの目的活動と異なった特徴は、手段としての苦痛の甘受にある。日々描く目的のその手段は、かならずしも苦痛ではない。体をきれいにするという目的のために、手段として風呂に入るが、この入浴という手段は、不快ではなく快楽の方に入るであろう。手段が快で、目的も快である。栄養を摂取するという目的には、食べることが必要である。食を手段として栄養摂取が可能となる。この食事という手段は、ときには、きらいなものを食べなくてはならないといういやな手段となることもあるが、多くは楽しみなのである。こどもをつくるという目的の手段としての性的交わりなど快楽の代表になるぐらいで、手段はかならずしも苦痛になるわけではない。だが、忍耐は、常に苦痛を媒介にしている。
 自然的には苦痛からは逃げたりこれを排撃したりするから、苦痛から逃げずこれを甘受するという忍耐は、優れて人間的なものとなる。ほかの動物では、もっぱら苦痛のみがあるというところでのその甘受はしないであろう。幼児でも、まだ、快不快にとらわれたままで、苦い良薬は、飲まない。それを手段とした病気治癒の未来の目的を描けないからである。苦痛(甘受)を手段とする忍耐の目的論的行動は、人間に固有の営為である。