3-2. 精神的な快は、肉体的快楽よりも持続するというが・・・
快楽主義では、快楽の中身(動物的か精神的か)とその持続性(刹那かどうか)がしばしば問題とされた。「せつなの快楽」というと食や性の動物的快楽になり、精神的人間的快は、刹那ではないと。
だが、知的な人間的精神の世界は、快楽を目的にして動いてはおらず、不快であっても、価値あるものの獲得・達成を意志する。快は、精神世界では、欲求達成に、ときに随伴するにとどまる。喜びや幸せという快は、肉体的感覚的なその場限りの快に比して、感覚を越えた知的想像的営みに属しているから、時間的には、感覚的刹那を越えたものにはなる。しかし、喜びや幸せの状態には、すぐ慣れて終わってしまう。獲得したものへの喜びは、その日ぐらいにとどまり、翌日は想起してももう喜べないぐらいである。反対(不快)の悲しみが永続的でありうるのに比して言えば、喜びは刹那にとどまる。
自然的にもたらされる快楽(麻薬で脳の快楽神経を直接刺激するのでなく)をじっくり味わうとしたら、快が(目的にならず)随伴するだけの喜びなどの精神的快では難しく、確実に快のもたらされる動物的レベルのそれになろう。とくに食の場合は、簡単・確実である。アメを口にして、そのとろける甘さをのど越しに堪能するといったことを反復するだけで、他のことをしながらでも、一日中でも、快楽にひたっておれる。食の快楽は、快楽ということでは、実質的には、他の快に比して確実でかつ持続性も大きいものにできる。快楽主義の「エピキュリアン」という語が食道楽を第一義としているのは正解である。
快楽主義では、快楽の中身(動物的か精神的か)とその持続性(刹那かどうか)がしばしば問題とされた。「せつなの快楽」というと食や性の動物的快楽になり、精神的人間的快は、刹那ではないと。
だが、知的な人間的精神の世界は、快楽を目的にして動いてはおらず、不快であっても、価値あるものの獲得・達成を意志する。快は、精神世界では、欲求達成に、ときに随伴するにとどまる。喜びや幸せという快は、肉体的感覚的なその場限りの快に比して、感覚を越えた知的想像的営みに属しているから、時間的には、感覚的刹那を越えたものにはなる。しかし、喜びや幸せの状態には、すぐ慣れて終わってしまう。獲得したものへの喜びは、その日ぐらいにとどまり、翌日は想起してももう喜べないぐらいである。反対(不快)の悲しみが永続的でありうるのに比して言えば、喜びは刹那にとどまる。
自然的にもたらされる快楽(麻薬で脳の快楽神経を直接刺激するのでなく)をじっくり味わうとしたら、快が(目的にならず)随伴するだけの喜びなどの精神的快では難しく、確実に快のもたらされる動物的レベルのそれになろう。とくに食の場合は、簡単・確実である。アメを口にして、そのとろける甘さをのど越しに堪能するといったことを反復するだけで、他のことをしながらでも、一日中でも、快楽にひたっておれる。食の快楽は、快楽ということでは、実質的には、他の快に比して確実でかつ持続性も大きいものにできる。快楽主義の「エピキュリアン」という語が食道楽を第一義としているのは正解である。