精神的な快は、肉体的快楽よりも持続するというが・・・

2010年07月31日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
3-2. 精神的な快は、肉体的快楽よりも持続するというが・・・
 快楽主義では、快楽の中身(動物的か精神的か)とその持続性(刹那かどうか)がしばしば問題とされた。「せつなの快楽」というと食や性の動物的快楽になり、精神的人間的快は、刹那ではないと。
 だが、知的な人間的精神の世界は、快楽を目的にして動いてはおらず、不快であっても、価値あるものの獲得・達成を意志する。快は、精神世界では、欲求達成に、ときに随伴するにとどまる。喜びや幸せという快は、肉体的感覚的なその場限りの快に比して、感覚を越えた知的想像的営みに属しているから、時間的には、感覚的刹那を越えたものにはなる。しかし、喜びや幸せの状態には、すぐ慣れて終わってしまう。獲得したものへの喜びは、その日ぐらいにとどまり、翌日は想起してももう喜べないぐらいである。反対(不快)の悲しみが永続的でありうるのに比して言えば、喜びは刹那にとどまる。
 自然的にもたらされる快楽(麻薬で脳の快楽神経を直接刺激するのでなく)をじっくり味わうとしたら、快が(目的にならず)随伴するだけの喜びなどの精神的快では難しく、確実に快のもたらされる動物的レベルのそれになろう。とくに食の場合は、簡単・確実である。アメを口にして、そのとろける甘さをのど越しに堪能するといったことを反復するだけで、他のことをしながらでも、一日中でも、快楽にひたっておれる。食の快楽は、快楽ということでは、実質的には、他の快に比して確実でかつ持続性も大きいものにできる。快楽主義の「エピキュリアン」という語が食道楽を第一義としているのは正解である。

達成感情としての快

2010年07月24日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
3-1. 達成感情としての快
 快楽は、生を駆り立て促進する。だが、その促進は、快楽の達成直前までに終わる。快楽は、「褒美」であって、それ自体は、生促進に資するものではない。それを求める過程に生の促進がなっていたのである。「おいしさ(快)」自体には栄養はなく、これに引かれて、「甘いもの」を飲み込もうとするところに栄養の摂取がなっていたのである。性の快楽も、それ自身には生殖能力はない。快楽を得ようと異性と結ばれるところにのみ、生に資する生殖がなる。
 快楽の享受自体は、むしろ、生にとり否定的なものになる。その快にのめり込む間、生は無防備になり、危険をもたらす。快楽に自己閉鎖するので、生は、放置され、停滞する。
 「いいことをした」と、出される褒美が快楽であり、その褒美を享受すること自体は、生にとり、停滞的で、短時間の享受に終わるのがふさわしい。犬やオットセイが芸を覚えてうまくやったとき餌をもらうのと同じである。いつまでも餌を堪能させてはもらえない。はやく次の快楽(「おいしさ」)に向かって動く(新規の「栄養物」の獲得)方が生促進には好ましいから、快楽は刹那に終わることにと傾く。
 もっとも、激痛軽減のための(麻薬などの)快楽は、長く効く方が合理的である。褒美でなく、癒しの手段としては、長く大きい方がよい。宴を盛り上げる酒の快楽は、相当に長く続けることができる(酒等の麻薬は、褒美として出た快ではなく、脳内の快のセンサーを直接つついて数値を上げるもので、この快は、生促進を示すものではない。が、緊張や苦を軽減させる点では生促進に資する)。

快は、生促進の根本センサー

2010年07月17日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
3. 快は、生促進の根本センサー
 ひとは、動物一般がそうであるように、苦しみを避け、快を求めて日常生活を送る。苦しみ・痛みは、そこに障害があることを示している。痛みを避ければ、傷つくことがさけられる。逆に、快適であることは、それが、その生のために有益で生促進的になっているというサインであり、センサーとなる。お湯が「気持いい」と感じられるのは、その温度が熱すぎず冷たすぎず適度で身体に有益だということである。快不快は、生の促進・維持に不可欠である。
 食欲における、快不快としての「おいしさ」「まずさ」は、その生にとって、摂食の基本センサーとなる。栄養にならない砂や石油は、「まずい」から「のどを通らない」ことになる。栄養として求められる塩や砂糖は、「おいしい」ものと感じられて摂取へとむかう。
 食欲とその快不快の感情がないとしたら、われわれは、常々意識して有益・有害の判断をしながら食べなくてはならず、たいへんである。第一、おいしいものを求める食欲がなかったら、食事そのものを忘れることになり、生は、早晩、破綻することであろう。食欲とその快不快があるからこそ、生きねばと意志していなくても、半ば自動的に、日々、生は維持可能となっているのである。
 生殖など、そこに快楽がなかったら、だれがこれを求めるであろうか。食事は、食欲とその快がなくても、生きるには不可欠だから、ときには吐き気をおさえながらでも胃に栄養物を送り込むことであろう。だが、性欲とその快楽がなかったら、社会的に強制するものがないかぎり、だれも生殖活動には参加しなくなることであろう。性行為に快楽があるから、人類は滅亡せずに済んでいるのである。

「美味しさ」も「幸福感」も「気持よさ」も、快としては同じだが・・・

2010年07月10日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2-5. 「美味しさ」も「幸福感」も「気持よさ」も、快としては同じだが・・・。
 「おいしい」といい、「しあわせ」というが、これらは、快楽系列の感情としては、同じである。だが、いずれも「気持いい」とは言わない。酒に酔っての快感も社会生活の喜び・楽しさなども、「いい気分」「気持いい」という一般的快表現にできる。が、高級な精神の快の代表である「幸福感」になると、「気持いい」では反省的知性が欠如している感じになる。また、ケーキを食べての快は、「おいしい」のであって、これを誰も「気持ちいい」とは感じない。性の快楽やギャンブルに勝っての快は、「気持ちいい」とはいうが、これにケーキと同様の「おいしさ」を感じることはない。
 酒とたばこは、「おいしい」「うまい」といい、かつ「気持ちいい」という。それらが「うまい」のは、口にする点で食に類似したものがあるからであろう。たばこの場合、ニコチンによる痺れ感覚は「うまい」のではなく、「気持ちいい」のだが、口を通していることにおいてか「うまい」ともいう。酒も、「気持ちいい」酩酊について、「うまい」「おいしい」と表現することがある。酒の価格は、口先の「おいしさ」(味覚)で決まるので(肝心の酩酊の快楽はほとんど価格に無関係)、特に高価格の酒を出されたときには、これを賛美することが必要になるのである。
 快楽は、一般的には、「心地よい」「きもちいい」「こころ、よい(快い)」と、こころの好ましさ・良さ(快さ)で表現する。そのうち食の快楽のみは、独自的な「おいしい」をもってする。個体の生命維持にとって食は別格なのであろう。他の快楽なら「きもちいい」と目をつむったりして全身が無防備になる。が、食の場合、のどに由来するこの快楽は全身の反応にはならず、しみじみ味わう特殊場面以外では、目をつむることもない。動物は、生維持のため、警戒しつつも、食欲充足を優先する。ひとの食でも、ほかの領分を快楽反応にまきこまないようにしているのであろう。精神のレベルにいう幸福感は、時に快を随伴するのみで快不快から超越的である点で、「気持ちいい」と一緒にしてもらいたくないといったところであろうか。

脳内麻薬による快楽の生理

2010年07月03日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2-4. 脳内麻薬様物質による快楽の生理
 欲求の充足に、快楽が生じるが、脳内では、それに伴う生理的過程をもつ。A10神経は、快楽神経ともいわれ、視床下部から大脳新皮質にまで分布していて、ドーパミンを快楽物質として分泌するという。受け入れたい甘い物がのど越しに味覚と触覚を刺激したり、暖かい等の生理的に好ましい刺激を皮膚がうけると、脳は緊張解除の命令を身体に出し、かつ、脳内麻薬(ドーパミン)を視床下部などの担当部位に分泌して快楽を感じさせる。知的反省において、自分の状況を恵まれていると把握し充足の反応をすれば、大脳に同様の分泌がなって、ほのぼのとした快楽である「幸福感」を生じるわけである。
 脳内麻薬は、心身の苦しみ・痛みを軽減するためにも出ることがあるという。マラソンのランナーズハイでは、鎮痛のために脳内麻薬のエンドルフィンを脳自身が分泌するというが、それは一種の陶酔状態を生む。ただし、多くの苦痛・苦悩では、そう簡単には痛みを麻痺させるほどの脳内麻薬は分泌されない。外からのモルヒネなどの麻薬の投与に頼ることになる。
 モルヒネとかヘロイン等の麻薬は、脳の中で脳内麻薬様物質の代りをする。宴会などで快適さを増すのに、脳を心地よく麻痺させる酒は、効果的である(酒は、味覚を楽しませる面では、食の快楽(おいしさ)に属するが、その中心となる快楽は、酩酊であり、これは、脳に直接作用してこれを心地よく麻痺させる麻薬に属する)。そとからの快楽物質の投与が常用化すると(中毒になると)、脳は、自身でドーパミン等を分泌しなくなってしまい、麻薬(酒も当然入る)がきれると、禁断症状が出るようになって、心身に苦悶をもたらすという。われわれの脳は、常日頃より、自身の出す脳内麻薬をもって心の穏やかさを保っているようである。立っていて座れたら、楽であり、起きていて寝たら、気持ちいい。このごく日常の苦と楽の落差にも、ささやかに脳内で何らかの快楽物質が分泌されているのであろう。