各自の「権利」(法・分)を守ることとしての正義

2013年03月30日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-3. 各自の「権利」(法・分)を守ることとしての正義
 あるべきこと・法(=正しいもの=正義)に合っておれば、自分のしていることは、正義(=正しいこと)になる。だが利害がからむところでは、エゴ・欲を出して、おのれのあるべき分・法を超えて自分の方にと、いわば不正を働きたくなる。本来の自分の持ち分(法)を越えてもと、欲をだす。皆がそうするから、結局は、自分の持ち分・自分の権利(jus=法)を確保することに落ち着く。正義(justitia)は、各自の分・権利(jus)を各自に帰すことだというローマ法での正義の定義となる。
 自分の権利・分を守ることが正義であり、その分を越える越権が悪・不正になるが、自分の分を守れず不正を被る場合も、ここでは悪とみなされる。自分の分を奪われて不正を許していたのでは、情けない劣等存在に堕す。米国で銃をもってでも自分を守ろうというのは、「不正は許さない、権利の侵害は断固排除する!」という、たくましい正義の精神に発する。日本の泣き寝入りのように、不正を被るのを我慢しようというのは、多くの民族では、不正をする者と同様に悪とみなされる。不正・侵害に毅然と対応して権利・分を守ることがあって正義は達成される。権利擁護とともに、義務の堅持も正義となる。義務の義は、道理・正しいこと、正義の義である。やりたい事ではないが、なすべき正しいことが義務である。つらい負担であってもそれを引き受けなくては正義は貫かれない。
 エコロジーの方面で、自然存在に「権利」を帰すことがある。各生物には生きる本来の場・固有の領分があり、その固有の生き様・本分、法(jus権利)があると論じる。その分・権利の維持に、自然自体における正義・正しさを見ることもある。


法のもとでの「平等」としての正義

2013年03月23日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-2. 法のもとでの「平等」としての正義
 正義は、広義には、正しいことを指す。が、それは、狭義には、利害対立の厳しい世界での、不正・不法を排除した合法・遵法を意味する。さらに、その狭義の利害対立の場の正義のあり方として、古来、平等が、みんなを均しくあつかうことが言われてきた。
 差別・平等は、比較されるもの同士を、えこひいきのある扱いにしたり、これらを無差別に同等にあつかうことである。もし比較されるものに本質的な違いがあるのなら、いずれ「正しい」正義の扱いは、差別扱いをすることになろう。無差別・同等にするのが正義だという根底には、比較されるものがその本性において同等・対等だという了解がある。あるいは、ひとは、利害対立の場において、本来的に、対等に張り合う能力を持ちあわせているということである。ひとは、その尊厳をになう自律理性において同一であるのみか、腕力等の能力においても似通っている(酷似しているから何ごとでも競技・競争になる)。しかも、その想像力をもって相手自身になることができ、相互に均しい存在として了解しあってもいる。
 利害を競う場では、自分の得になるようにと張り合う。みんながそういう振舞いをすると、最終的には、事態をスムースにすすめるには、ひとが本質的に対等・同等な存在なのであれば、みんなが同じように損得をする点でまとめることであろう。利害対立のもとでは平等・対等を正しいこと・正義とするに至る。償いでも等しさが原理となる。「眼には眼を!」の報復律(lex talionis)である。まずは元通りにと均しいもので償う。が、それが不可能なら、同一の価値物を奪い(損害を与えて)、「歯には歯を!」で溜飲を下げ、正義は、同等・平等をもって決着をつける。


適法、法に合った「正しさ」としての正義

2013年03月16日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4.正義は、徳か。
4-1. 適法、法に合った「正しさ」としての正義
 正義は、正しい義(すじみち)、正しいことである。正しいとは、道理や法に「合っている」、道を外していないということであろう。1+2=3が「正しい」というが、それは、これが十進法(四進法以上)の法則に「合っている」、あるいは、イクオール(=)の前後が「合っている」「一致している」ということである。
 その正しいこと、法(則)に合致するというきわめて広義のことばが、なぜ、狭義の正義において使用されるのであろう。狭義のとは、「不正は許されない。正義を守れ!」という、厳しい利害対立の世界での正しさ、つまり、なにが正しいかを厳格に定めている法律世界での正しさ・正義である。
 利害の厳しく対立する世界では、不正は許されず適法・合法が必須で、正しさが一番きわだつところである。他の方面でなら、正しくなくても許容されることがある。食を節する正しさ(=節制)を守っていないひとなど町中に満ち満ちている。あるいは、自然物は法則をはずして不正状態になることはないから、正・不正が問題にならないようなこともある。
 だが、利害対立の厳しい場面では、正しさ、適法かどうかは重大な問題である。法から外れてでも出来れば利を得たい。損害を被る側は、当然これを許さない。その外れは、懲罰をもって厳しく糾弾される。正・不正は、利害対立の場では、つねに注目の的となる。正しさ・正義というと、なにはおいても利害対立の場に集中するので、狭義には、ここでの正しさを指すことになっているのであろう。


大勇では、理性制御がしっかりしている。

2013年03月09日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

3-6. 大勇では、理性制御がしっかりしている。
 勇気は、悪しき目的のもとでは、悪へとひとをそそのかし先導して、悪の尖兵自体となる。さらに、目的が悪でないとしても、見栄・虚勢を張るためだけに使うのでは、せっかくの勇気も、愚行となり、匹夫の勇、小勇に成り下がる。
 ひとの勇気は、理性で恐怖を制御するものとして理性的であるが、その理性使用は、恐怖抑制に注がれるのみでは、悪用を阻止したり無用な使用を制止する大局的な視座はもてない。勇気のそとに超越して理性は、これをさらに強く確実にリードすることがいる。大勇は、大局的な見地からの理性の制御をもったものになる。
 勇気は、悪行の促進に使われてはならない。虚勢を張って大怪我をして、「あの蛮勇なかりせば・・」とあとで軽薄な小勇を後悔することがないようにもしたい。それには、臆病、卑怯といった非難にも平然と勇気をもって対処できることである。「大勇は、怯なるが如し」である。
 ひとは、勇気をもつことで、危険・恐怖に対処するに大きな力を発揮できる。だが、それを何に対して出すのかについての制限は、勇気の恐怖忍耐・大胆さ・果敢さのうちにはかならずしもない。くれぐれも悪用・誤用には注意しなくてはならない。自律的な理性の確固とした制御のもと、小勇に堕すことなく、大勇にと心がけておくことである。


勇気は、悪に使えば、邪悪な凶器そのものとなる。

2013年03月02日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

3-5. 勇気は、悪に使えば、邪悪な凶器そのものとなる。
 節制は、動物的欲求を理性的に制御することで、誰が節制しようとも、おおむね善に向かうことになろう。だが、勇気は、悪の企図のもとに発揮される場合、その悪を確実で大きなものにする。節制は、自分を節し制するのであれば、周囲に迷惑はかけないが、勇気は、攻撃的になって周囲に関わる。勇気をもっての悪行は、その悪を勇気の分だけ凶悪にする。
 勇気は、攻撃・破壊に優れた力を発揮する鋭利な刃物である。善用も悪用もされる。万引きを思い立った者は、勇気を悪の尖兵とする。見つかったらどうしようという不安や恐怖を抑圧して、その勇気は、ためらいをすて決断・実行へと踏み出して、万引きを率先する悪しきものとなる。
 「勇敢な奴じゃ!」という評価をするとき、善行をそう言っているとは限らない。勇気の向かう危険は、悪事を企てるところには頻出する。山賊も海賊も、とくにその首領となるようなものは、まちがいなく勇敢である。勇気は、攻撃的であり、悪のもとでは、悪しき凶器にとなりかわる。
 勇気が悪の手段になることなく、徳として、善の手段にとどまるためには、いうまでもなく、善目的のみに使用すればよい。勇気は、使い方しだいでは凶器に変じる。大局を見て善目的を見定めて、勇気の誤用・悪用をさけられるようにと、理性が全体をリードできなくてはならない。