勇気も大勇は、ことに忍耐力に優れている

2016年12月30日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-3-3. 勇気も大勇は、ことに忍耐力に優れている
 忍耐は、苦痛から逃げず快楽にのめり込まず、快不快に生きる自然・動物のおのれを脱して、自然超越の自由を実現する。忍耐は、自然感性を抑圧・支配して人間の尊厳の証をする。これに対して、獰猛なだけの勇気は、動物本能の支配下にあり自然に埋没している。そういう勇気よりは、忍耐の方が、自然支配・自己支配の人間的尊厳にふさわしい心構えになるといえよう。
 忍耐を知らない、獰猛さを単純に発揮するだけの猛勇では、犬死を招きかねない。獰猛なだけの野獣は、か弱い腕をもった者の猟銃で必殺となる。忍耐できねば簡単に挑発にのるであろうから確実に急所を狙えるところまでおびき寄せて、それまでは急かず引き金を引かないという忍耐をもって、簡単に撃ち殺すことができる。獰猛なだけで忍耐力に欠けた猛勇の敵を打ち負かすには、理性をもった初年兵に、よい武器を与えるだけで十分である。なお、獰猛の勇は、自分の恐怖に忍耐できない弱虫の可能性もある。攻撃に出れば、恐怖は、その反対の姿勢だから、無化されるのである。
 勇気が稀有の振る舞いで、凡庸な忍耐にまさり、したがって勇気が徳目になるというのは、もっともなことである。勇気は、身の危険が迫って抱かれるもので、多くの者は危険と恐怖からは逃走する。命のかかわることであれば、勇気は、誰でもがもてるものではない。もてなくて普通である。だが、忍耐は、万人に可能で、日々、些事の忍耐はみんながしていることである。忍耐は、いたるところにある小石で、勇気は、まれに見いだされる宝石である。しかし、忍耐との優劣は、獰猛の勇との比較では決まらない。冷静な理性意志を堅持し類いまれな忍耐をもった大勇であってこそ、難局を乗り越えて大きな危険を排撃できるのであり、この大勇こそが、徳としての勇気にふさわしいものであろう。
 


英雄の勇気、奴隷の忍耐という見方もある

2016年12月23日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-3-2. 英雄の勇気、奴隷の忍耐という見方もある
 弱肉強食を是とするひとのなかには、勇気は勇士が勝利するためにいだく高貴な道徳で、忍耐は、劣等の弱者が敗北に抱くものとみなすことがある。忍耐は、戦う勇気をもてず泣き寝入りしたり屈辱に我慢をつづけること等として、なさけないものだと蔑視される。強力な相手から脅され攻撃されたとき、勇気ある者は、これに怯まず挑戦する。が、それがないものは、戦わず黙って引き下がり辛抱する。忍耐は、勇気のない軟弱な者の振る舞いとなる。戦う勇気をもてず、「死ぬのはこわい」と強者に這いつくばり、敗者・奴隷になって忍耐することにと逃げるのである。
 勇気あるものは、危険に平然として、これの排撃のために勇猛果敢に戦う。優秀な強者が勇気をもつのであり、劣等で攻撃されてじっとしているのが、忍耐する者になる。勇気は、卓越した勇士・英雄のもので、忍耐は、弱虫・奴隷のものということになる(もっとも、弱者の忍耐は、忍耐せず無謀に自暴自棄的に抵抗して殲滅されて終わるよりは、命あっての物だねと捲土重来を期して奴隷となり臥薪嘗胆するのであれば、賢明な対処法である。その惨めな恥辱を耐えうるほどの者は、いずれ雪辱を果たすことが可能ともなる)。
 それは、節制と忍耐のちがいとも重なる。節制は、富を過剰に有した裕福な者がその快楽享受に過度になるのを少し制限しようというもので、忍耐の方は、貧者が飢えを我慢するものになる。こういう優勝劣敗・弱肉強食のなかの勝者・強者の価値基準からすると、忍耐は、敗者・弱者の規範(勇気を高貴な徳の中心におき獰猛さを賛美する者からいうと、「奴隷道徳」)にとどまり、優秀な者が勇気や節制の徳をもつということになる。


身近な忍耐とちがい、勇気は、非常時の大業になる

2016年12月16日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-3-1. 身近な忍耐とちがい、勇気は、非常時の大業になる

 勇気は、悪人もしばしばもつ。海賊・山賊の首領は、類い希な勇気なくしてはつとまらない。善行とちがい悪行は、しばしば排撃され攻撃されるから危険に遭遇することが多く、危険に平然と対処できる勇気が必須である。忍耐も善のみでなく悪の営みにも見られる。同じように悪行にも発揮される勇気と忍耐であるが、勇気は、徳目にあがるけれども、忍耐は、挙げられないのが一般である。

 勇気は、まれなもので卓越していることがはっきりしている。みんなが恐怖し逃げるところを、逃げず恐怖を耐え忍んだ、群を抜いたものである。山賊・海賊の勇気も、直接に目的にし意志することは、危険とその恐怖に対してひるまず平然と忍耐しつづけることである。それがもたらす悪行自体とは一応、切り離して捉えることができる。その勇気が、類い希で卓越したものとしては、悪行とは区別されつつ高く評価されるのであろう。極悪の盗賊であっても勇気ある振る舞いに出れば「極悪人ながら、天晴れなやつ!」といいたくなろう。悪人の勇気は悪をもたらすものとしては唾棄されるが、その勇気自体は、凡人にはまねのできないことで、卓越した英雄的な振る舞いとみなされて徳目となるのであろう。

 だが、忍耐は、恐怖への忍耐のように大きな類い希なものも含むが、多くがだれにでもできる凡庸なものである。悪人の一般的な忍耐でも、忍耐自体は、辛苦を甘受することとして、悪行とは区別され得る。が、その忍耐は、誰にでもできることで、そのことはかならずしも高く評価されるものにはならず、悪行の一環として悪に染めて見られるのであろう。泥棒するために高い塀を辛抱してのぼるとしても、アイガー北壁を登るのとちがって、それぐらいのことは、その気になれば誰にでもできることなのである。

 勇気は、命を賭ける等の危険・恐怖に立ち向かわねばならず、勇気をもてなくても非難されることは少ない。だが、忍耐の場合は、通常のそれは、じっとして苦痛を甘受するだけであれば、大なり小なりできるのが当たり前で、忍耐できないものは、軽蔑される。忍耐は、出来て当たり前(ゼロ)で、出来ないと軽蔑される(マイナス)。勇気は、出せなくて普通で(ゼロ)、出せたら尊敬される(プラス)。
 


勇気も忍耐も悪事に加担するが、勇気は徳目に挙がる

2016年12月09日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-3. 勇気も忍耐も悪事に加担するが、勇気は徳目に挙がる
 徳目となる節制や正義は、善目的をもってするものとして善的手段となり、悪も目的としうる忍耐とは区別される。だが、勇気は、徳目にあがるが、忍耐と同じく、悪を目的とすることが結構ある。では、なぜ、勇気は徳目にあがり、忍耐はそうではないのであろうか。
 忍耐は、苦痛・不快を対象にして、毎日いたるところに出くわすもので、できて普通のものが多い。凡人にもできねばならないことである。だが、勇気は、凡人がしり込みするところで発揮されるのである。危険への恐怖を耐えてするもので、忍耐をうちに含むが、それは大きな忍耐であり、凡人には、死の恐怖に対する忍耐など、至難のこととなる。その大きな忍耐を含む勇気は、たとえ悪の行為であっても、類い希な卓越した振る舞いとして、畏敬の念をもって見られ徳目にあがるのではないか。
 勇気は、凡人がしり込みし恐怖に負けて逃走するところで、これを抑制して耐え、おのれを危険にさらして、怯むことなく大胆に果敢に危険なものの排撃に挑戦する。いのちを賭けて英雄的振る舞いをする。その英雄的で類をぬきんでていることにおいて、畏怖され特筆に価する当為となり、徳目となるのであろう。だが、ふつうの忍耐は、多くの場合、凡人・万人にできることで、悪事においては、その忍耐も悪として醜い下衆のものと唾棄されるのである。


忍耐は、する前にするべきことがたくさんある

2016年12月02日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-3-2-3. 忍耐は、する前にするべきことがたくさんある
(忍耐の価値の算定) 忍耐は、苦痛を甘受する。自らの引き受ける忍耐は、それに見合う価値あるものの獲得を見定めていなくては、骨折り損となるだけである。せっかくの犠牲である。目的を高く掲げて、悪を避け、天に恥じないものでありたい。いやな「させられる」忍耐も自分のためになるものがある。
(忍耐なしの代替の道) 忍耐は、辛いことで、楽な道があるのなら、それを選ぶべきである。視野を広げれば、別の道が見えることも多い。したければ忍耐はいくらでもある。いじめ(犯罪)に忍耐することはない。忍耐するのなら、羞恥や鬱憤の暴発を我慢して、ことを公にし、いじめの排撃(心身の鍛錬とか警察等への相談)のために使うべきである。
(効果的な忍耐の仕方の探求) 忍耐も効果的なやり方がある。がむしゃらなトレーニングは、効果があがりにくいのみか、心身を傷めることになりかねない。合理的で省力的な方法をさがすことがいる。自分をつぶす忍耐ではなく、自分を鍛え自制心を育てるなど自己形成に資するような忍耐を選びたい。
(忍耐の限度を知ること) 自らがはじめる忍耐の場合、苦痛と傷害の程をよく見て忍耐の限度・忍耐中止を決断できねばならない。忍耐していると苦痛にも慣れるから、限度を超えて無理が平気になることがある。命をすり減らすほどのものなのかどうか、撤退すべき限度とその方法を考えておかねばならない。
 耐えられなくなり自暴自棄になって元も子もなくする前に、限度になる手前で、冷静に成果を確保してしばらく休憩するような自身への配慮もいる。辛い懸垂は五回が限度だったとしても、休憩を入れれば二十回はおろか五十回でもできる。
(忍耐貫徹のための工夫) 忍耐をはじめることは誰にでもできる。禁煙の忍耐など、たばこを吸う者ならみんなできる。何回でもできる。だが、これを貫徹して成功に導くには、苦痛甘受を無理やりに持続させるのだから、創意工夫をし、頭をつかわなくてはならない。
 忍耐に際しては、苦痛から逃げない超自然存在としての自分に誇りをもち、目的とそれへの歩みを具体化して一歩一歩前進を確かめる等、継続のための知恵がいる。苦痛甘受の忍耐は、肉を切らせて、骨を切る。さきを見通す深慮遠謀がなくては、肉を切られて終わる。
(違ったやり方、工夫、中断等を常々意識) 苦痛にとらわれると外が見えなくなる。重ねた苦労を無駄にしてはと無理もする。疲労困憊して理性が麻痺することもある。無駄・有害な忍耐と分かったら、わが身を痛めつけている忍耐のこと、(やめる自由があるものなら)直ちにこれを中止しなくてはならない。自分の忍耐のそとに立って、醒めた目でこれを時々は見直していく余裕を残しておきたい。