現在を過去や未来と結んで忍耐できるのは、人なればこそ

2017年09月29日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-5. 現在を過去や未来と結んで忍耐できるのは、人なればこそ 
 ひとは、未来のために現在の苦痛をあえて甘受して忍耐する。過去方向にも、その負債には責任をとり現在の辛苦の忍耐をもって返済をしていくことであろう。ひとは、高度の精神世界を構築して過去への記憶と未来への想像の能力をもって、持続する自己同一の個我として生きる。未来の己のために現在を手段とする自己の忍耐をもって生きるし、過去の自分の行為には、今の自分と同一であることを踏まえて責任をとっていく。
 いま犠牲を払って苦痛甘受の忍耐をする「骨折り」は、現実にある事態だが、未来の目的価値は、なお存在しない想像上のことで、かならずしも実現しない。「くたびれもうけ」に終わる可能性もある。そうならないようにと、苦痛に見合う価値の実現になるようにと計算しつつ忍耐の犠牲を払う。巨大な目的(価値)の現実化が保障されているのなら、苦痛甘受はこれを目指して、普段とは全く異なる大きな苦痛をひきうけることともなる。
 過去の負債・負い目の場合は、その負債に見合うだけの返済へと苦痛甘受をする。通常、その負債が確定しているから、それに見合うものを償う(という目的をもっての)忍耐になる。過去を向いた忍耐だが、時間のなかに展開する忍耐は、未来向きに過去のことも片づけることになり、過去の重石をだんだんと未来において軽くしていくことになる。
 未来のために忍耐するにせよ、過去のマイナスに責任を負って忍耐していくにせよ、自己同一の自分があってのことである。もし、不変の自己の持続ということがなければ、そういう自己意識がなければ、いまはない過去や未来のために現在を犠牲にするという忍耐はできないであろう。いまの自分の犠牲で未来の自分が輝くという自己実現への思いが、命がけの忍耐を引き受けさせる。過去の自分との同一性があればこそ、負債を返済しなくてはと苦労もするのである。


本質的に過去向きの忍耐も言われるべきであろうか 

2017年09月22日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-4-1. 本質的に過去向きの忍耐も言われるべきであろうか 
 忍耐は、未来に成果をだすために苦痛の甘受を手段とし踏み台にしていく。過去の清算も未来向きになって、その忍耐の成果をもって少し負債を減らせるという、未来への意識を抱きつつの忍耐である。だが、かりに明日がないという場合を考えるとどうであろう。普通の未来向けの目的意識のもとでの忍耐はやめるであろう。犠牲のみがあって、成果のないことが確定しているのであれば、無駄になる犠牲は払わない方が賢明なことである。
 負債の返済は、どうなるであろうか。おそらく、明日がなくても、今日の忍耐・犠牲は払うことであろう。過去の負債を少しでも減らして終わりたいと思うのではないか。ということは、過去の清算のような場合の忍耐は、未来向きではなく、根本的には過去向きになった忍耐になるのであろう。マイナスのままでは終われない、少しでも負債を、負い目を小さくして最期を迎えたいということである。もちろん、これも目的論的な営為である。過去の負債返済という目的(過去のことだが、返済は直近ではあれ未来に実現されるはずのもの)をもって現在の苦労・辛苦を手段としていくのである。
 自分の明日はないとしても、過去の自分が現在の自分と同一であるという、自己同一、自分がなにものであったのかの、尊厳ある理性存在としての自同性がある。それが、その負債の返済ということにおいて、ひととしての責任を背負い続けて最期を迎えるという姿勢において、保てるのである。周囲も自同性を求める。「借りたときの俺と、今の俺と何の関係があろう」とうそぶいて借金返済を拒否したら、かれは、みんなから袋叩きにされるだろう。そして、抗議すると、「なぐったときの俺たちに言ってくれ。第一、殴られたお前と今のお前と何の関係がある」と嘲笑されることになる。


忍耐は、未来の目的より、過去の因果にとらわれることも

2017年09月15日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-4. 忍耐は、未来の目的より、過去の因果(原因)にとらわれることも 
 忍耐は、瞬時に終わるものには言わない。時間的持続をもって忍耐は展開される。未来方向に持続する苦痛を甘受し続けていく。したがって、未来に描ける目的があってのことが多くなる。だが、自然の災害などの苦痛は、さしあたり現在のそれを受け入れる以外手がないと諦念して忍耐するのである。漸次未来に復興を描いて目的を後づけできるとしても、未来や目的を意識することなしの忍耐である。そういう忍耐のなかには、意識は、過去に主として向かっているものもある。 
 事故や災害による辛苦の場合、あるのは辛苦と忍耐のみで、未来の目的はなしで始まるが、ひとは、自身にそういう害悪がもたらされたとき、反省をする。どうしてこんな忍耐をさせられることになったのかと。反省は、よい結果が出たときにするのではなく、ほとんどが、思わしくない現在について、さかのぼってその原因を、過去を明らかにしていくのである。
 自分の借金返済に苦労するのも、過去に忍耐するという意識であろう。マイナスを踏まえて、これをゼロにと回復するなかでの苦痛であり忍耐である。苦痛の甘受はそこでも時間の経過のもとでなされるのだから、未来への意識をもっている。おそらく、月末になれば、給料で過去の借金のうち5万円を返せる、マイナスをそれだけ減らせて肩の荷がおりて軽くなると、その月末を描いて目的意識的に耐えていくのであろう。過去への意識は、忍耐を駆り立て、未来の返済の目途が忍耐を励ますといった忍耐になろうか。


忍耐には、不定の未来への漠然とした目的も多かろう

2017年09月08日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3-4. 忍耐には、不定の未来への漠然とした目的も多かろう
 少々の苦痛ならばこれが続いていても、へこたれることなく忍耐できる。だが、激痛が持続するとか、つらい状態が果てしなく続く捕虜・奴隷の生活になると、その眼前のつらさに耐ええなくもなってくる。忍耐をやめて暴発し反抗して殺されたり、あきらめて消極積極の自殺もすることになる。そういうとき、未来に希望を描ければ、解放の可能性などの漠然としたものであっても目的を描ければ、耐えることに意味・価値を見出して、よりよく忍耐できることである。
 日頃の些細な苦痛とこれへの忍耐では、ことさら未来(目的)に注目することはなさそうだが、意外に多くの場合、なんらかの目的を描いているのではないか。苦痛では自暴自棄になるより、忍耐する方がましな結果をもたらす、ということが反復されると、なにか苦痛になることがあると、まずは、忍耐するのが一番とだんだんと刷り込みがなされてくる。無駄に抵抗したり暴発して散々な目にあうことを繰り返せば、「ちょっと我慢すればすんだのだが・・」と後悔して、忍耐放棄の自暴自棄だけは、やめよう、今回こそは、まずは我慢してみようとなる。それで未来に安寧な状態、よりましな状態が可能になるのだと楽観的に、漠然と目的を描くわけである。その忍耐が無用となれば、そのときになって、暴発でもすればいいのである。騒ぎ立て抵抗する方がいいとか、逃げる方がましと思えてくれば、忍耐をやめることにもなろう。耳鳴りに即効的な治療があるとか薬が売りに出されたと知れば、無駄に忍耐することはやめる。だが、そうでないのなら、さしあたり、我慢しておくのが無難(穏やかな明日という目的)となるのである。
 


自然的無目的の忍耐も後づけで目的化する

2017年09月01日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3-3. 自然的無目的の忍耐も後づけで目的化する
 ひとが忍耐する場合、典型的には目的を描きその不可避的な手段として苦痛の甘受をする。だが、そとから強制される場合とか、降ってわいたものなど、目的を描くことはなく、突然の苦痛の出現とこれの甘受という、未来の目的などなしの無目的の忍耐になることも多い。蜂に刺されて激痛に忍耐するとか、朝からけたたましいセミの声など、そうである。自然的な災害への忍耐は、苦痛・辛苦にはじまる。突如襲来した辛苦に、避難の方法も見つからず、下手に動くとマイナスになりそうで、さしあたり、じっとその受難を耐えるのである。
 だが、そういう自然的な災害への苦痛の忍耐も、目的を後づけはできる。おそらく、長く続く辛苦と忍耐には、目的を描き出していく。未来の目的が引きつけることで、現前の辛苦と忍耐をよりよく耐えていけることになるのである。その未来の目的は、積極的な目的であることもあろう。被災してこれの片づけをするなかで、復興のプランを描きだして、これの実現へと現前の辛苦を忍耐する。その一歩一歩を復興プランの実現と位置付けて、辛苦甘受を支えていく。
 消極的な目的定立もする。蜂に刺されての激痛の忍耐では、毒液をポイズンリムーバーで抜き出したらむやみにつつかず「我慢、我慢」で、やがて痛みのない安寧の状態になるのだと未来を描いてこれへと時間に耐えていく。現在の激痛が永劫つづくかもというような事態では耐えがたいが、時間とともにだんだん治るのだ、穏やかな状態が復活できるのだと前向きであれば、忍耐はしやすくなる。暴風雨に「ここでじっと我慢しておれば、やがて天気は回復する」と、むやみに騒がず事故を起こさないことに限るというような場合もある。無目的にはじまることへの後づけの目的設定である。