2-4-4. 苦は、生を覚醒し強化する
ひとも動物と同じく、自然的には、快を求め、不快・苦痛を回避することで生を維持している。快は有益、不快は有害を知らせる感情である。快は、有益なものごとの獲得のえさであり褒美であって、短期に終わる。逆に、不快・苦痛は、回避したい有害なものを感知していることで、有害な状態がなくなるまで通常長々とつづく。苦痛を感じなくなったのでは、その有害なものは除去されないから、警告の苦痛は、しつこく続く。快は短く、苦は長い。
苦は、体験したくないもの、できれば回避したいものである。苦痛は有害なことを知らせるが、そういう有害状態はなしに済ませたい。それ以上に、その苦痛・不快自体が感じたくないマイナスの心的状態をもたらすから、この苦痛の感情自体が回避したいものになる。苦痛の原因は除去できないとしても、苦痛だけは回避したいということで、苦痛だけを無化する麻酔も求められる。
しかし、苦痛を避けて快を感じえておればいいということにはならない。快はひとをそこにとどめ、生を停滞させた極楽に浸りこませるから、それ以上の展開がなくなる。生自体は、動いてやまないもので、ひとをふくめて動物は、動く物であるから、快ゆえに動かなくなると、その生はやがては衰滅する。苦は、その逆であり、苦痛の状態からひとをそのそとへと駆り立てる。苦がある限り、どこまでも苦のない状態を求め続ける。快を得て生は停滞し、苦をもって生は活性化する。欲求は、ひとを駆り立てるが、その欲求不充足は、食欲や呼吸欲のように、不快・苦痛である。その不快度が大きいほどその欲求は人を強く駆り立てる。かりに欲求自体が快なら、それの実現へと向かうことなく、その欲求(の不充足)にまどろみ停滞することであろう。呼吸欲の不充足が快なら、この快のとりこになった者は、まどろむどころか、安楽な死に至る。
快は生を眠らせ、苦痛は、生を覚醒する。寝ているものを起こすには、苦痛刺激を与えればよい。苦痛・不快は、ひとを眠りの状態から覚まし、苦痛のない状態へと駆り立ててやまない。現状が不満・不快なものは、そこにとどまることを潔しとせず、その状態からの脱出・飛躍を試みる。苦痛が大きいほど、飛躍への力は大きくなる。電気刺激は、小さければビリッと気づく程度だが、その電圧を上げれば、まさに電撃に打たれ跳び上がってこの苦痛から逃れようとする。精神的な苦痛があれば、それの解消のために、必死となる。それが経済的な貧困での苦悩なら、必死で働くとか、お金の入る方法の工夫へと英知を傾けることとなる。
行き過ぎた不快・苦痛は、その生にダメージを与えて、死を頂点とする生否定的状態をもたらすが、ほどほどの刺激となる苦痛は、生を鼓舞する。身体への苦痛は、身体に抵抗力をつけさせ、生の能力を向上もさせる。逆の快・安らぎは、これのみがつづくと生はまどろみ休みつづけて体力も落としていくことになる。適度の不快・苦痛は、生にとって、それを維持・促進したり能力を高めるために必須ということになる。
ひとも動物と同じく、自然的には、快を求め、不快・苦痛を回避することで生を維持している。快は有益、不快は有害を知らせる感情である。快は、有益なものごとの獲得のえさであり褒美であって、短期に終わる。逆に、不快・苦痛は、回避したい有害なものを感知していることで、有害な状態がなくなるまで通常長々とつづく。苦痛を感じなくなったのでは、その有害なものは除去されないから、警告の苦痛は、しつこく続く。快は短く、苦は長い。
苦は、体験したくないもの、できれば回避したいものである。苦痛は有害なことを知らせるが、そういう有害状態はなしに済ませたい。それ以上に、その苦痛・不快自体が感じたくないマイナスの心的状態をもたらすから、この苦痛の感情自体が回避したいものになる。苦痛の原因は除去できないとしても、苦痛だけは回避したいということで、苦痛だけを無化する麻酔も求められる。
しかし、苦痛を避けて快を感じえておればいいということにはならない。快はひとをそこにとどめ、生を停滞させた極楽に浸りこませるから、それ以上の展開がなくなる。生自体は、動いてやまないもので、ひとをふくめて動物は、動く物であるから、快ゆえに動かなくなると、その生はやがては衰滅する。苦は、その逆であり、苦痛の状態からひとをそのそとへと駆り立てる。苦がある限り、どこまでも苦のない状態を求め続ける。快を得て生は停滞し、苦をもって生は活性化する。欲求は、ひとを駆り立てるが、その欲求不充足は、食欲や呼吸欲のように、不快・苦痛である。その不快度が大きいほどその欲求は人を強く駆り立てる。かりに欲求自体が快なら、それの実現へと向かうことなく、その欲求(の不充足)にまどろみ停滞することであろう。呼吸欲の不充足が快なら、この快のとりこになった者は、まどろむどころか、安楽な死に至る。
快は生を眠らせ、苦痛は、生を覚醒する。寝ているものを起こすには、苦痛刺激を与えればよい。苦痛・不快は、ひとを眠りの状態から覚まし、苦痛のない状態へと駆り立ててやまない。現状が不満・不快なものは、そこにとどまることを潔しとせず、その状態からの脱出・飛躍を試みる。苦痛が大きいほど、飛躍への力は大きくなる。電気刺激は、小さければビリッと気づく程度だが、その電圧を上げれば、まさに電撃に打たれ跳び上がってこの苦痛から逃れようとする。精神的な苦痛があれば、それの解消のために、必死となる。それが経済的な貧困での苦悩なら、必死で働くとか、お金の入る方法の工夫へと英知を傾けることとなる。
行き過ぎた不快・苦痛は、その生にダメージを与えて、死を頂点とする生否定的状態をもたらすが、ほどほどの刺激となる苦痛は、生を鼓舞する。身体への苦痛は、身体に抵抗力をつけさせ、生の能力を向上もさせる。逆の快・安らぎは、これのみがつづくと生はまどろみ休みつづけて体力も落としていくことになる。適度の不快・苦痛は、生にとって、それを維持・促進したり能力を高めるために必須ということになる。