苦は、生を覚醒し強化する

2019年11月28日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-4. 苦は、生を覚醒し強化する
 ひとも動物と同じく、自然的には、快を求め、不快・苦痛を回避することで生を維持している。快は有益、不快は有害を知らせる感情である。快は、有益なものごとの獲得のえさであり褒美であって、短期に終わる。逆に、不快・苦痛は、回避したい有害なものを感知していることで、有害な状態がなくなるまで通常長々とつづく。苦痛を感じなくなったのでは、その有害なものは除去されないから、警告の苦痛は、しつこく続く。快は短く、苦は長い。
 苦は、体験したくないもの、できれば回避したいものである。苦痛は有害なことを知らせるが、そういう有害状態はなしに済ませたい。それ以上に、その苦痛・不快自体が感じたくないマイナスの心的状態をもたらすから、この苦痛の感情自体が回避したいものになる。苦痛の原因は除去できないとしても、苦痛だけは回避したいということで、苦痛だけを無化する麻酔も求められる。
 しかし、苦痛を避けて快を感じえておればいいということにはならない。快はひとをそこにとどめ、生を停滞させた極楽に浸りこませるから、それ以上の展開がなくなる。生自体は、動いてやまないもので、ひとをふくめて動物は、動く物であるから、快ゆえに動かなくなると、その生はやがては衰滅する。苦は、その逆であり、苦痛の状態からひとをそのそとへと駆り立てる。苦がある限り、どこまでも苦のない状態を求め続ける。快を得て生は停滞し、苦をもって生は活性化する。欲求は、ひとを駆り立てるが、その欲求不充足は、食欲や呼吸欲のように、不快・苦痛である。その不快度が大きいほどその欲求は人を強く駆り立てる。かりに欲求自体が快なら、それの実現へと向かうことなく、その欲求(の不充足)にまどろみ停滞することであろう。呼吸欲の不充足が快なら、この快のとりこになった者は、まどろむどころか、安楽な死に至る。
 快は生を眠らせ、苦痛は、生を覚醒する。寝ているものを起こすには、苦痛刺激を与えればよい。苦痛・不快は、ひとを眠りの状態から覚まし、苦痛のない状態へと駆り立ててやまない。現状が不満・不快なものは、そこにとどまることを潔しとせず、その状態からの脱出・飛躍を試みる。苦痛が大きいほど、飛躍への力は大きくなる。電気刺激は、小さければビリッと気づく程度だが、その電圧を上げれば、まさに電撃に打たれ跳び上がってこの苦痛から逃れようとする。精神的な苦痛があれば、それの解消のために、必死となる。それが経済的な貧困での苦悩なら、必死で働くとか、お金の入る方法の工夫へと英知を傾けることとなる。
 行き過ぎた不快・苦痛は、その生にダメージを与えて、死を頂点とする生否定的状態をもたらすが、ほどほどの刺激となる苦痛は、生を鼓舞する。身体への苦痛は、身体に抵抗力をつけさせ、生の能力を向上もさせる。逆の快・安らぎは、これのみがつづくと生はまどろみ休みつづけて体力も落としていくことになる。適度の不快・苦痛は、生にとって、それを維持・促進したり能力を高めるために必須ということになる。



強いられる忍耐も人間的自由のうちのこと

2019年11月21日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-3-3. 強いられる忍耐も人間的自由のうちのこと
 奴隷は、生殺与奪の権をもつ支配者のもとに苦痛を忍耐する。ここで忍耐をしないとしたら、それは、辛苦の甘受を拒否することであり、辛苦を回避し逃げ回り、あるいは、これを排撃し攻撃的態度をつくることであろう。だが、そういうことをすると強力な支配者から、手ひどい懲罰・暴行をうけ、より辛い状態に、ときには、虐殺されることともなる。無謀な忍耐拒否ということになる。そう想像できる奴隷は、よりましな、マイナス状態の小さい方へと計って、辛苦の受け入れ、忍耐をすることにと向かう。それは、無抵抗・従順な、辛苦の受け入れである。隷属状態の自発的な、自らに由る、いうなら自由をもっての受け入れである。この強いられた忍耐は、その受け入れを、自らに由って決意している点では自由意志のもとにあるし(死を賭して拒否することも可能)、苦痛・辛苦を回避・攻撃する自然的対応を超越している点で自分の自然から自由になっているのである。そのことで、破滅を阻止する。  
 場合によっては、奴隷状態からの解放という自由をとることも可能である。支配者からの逃走のチャンスがあると思えば、その解放の自由にと動く。攻撃的にでて自身は殺害されるかも知れないという不安・恐怖をいだくことであろうが、これを乗り越えての自由への挑戦である。そういう解放(逃走や攻撃)への意志の自由をうちに持ちつつの、蜂起の機会をうかがいつつの、さしあたりの奴隷的苦痛の甘受であれば、その強いられている忍耐は、支配者からの自由もうちに有しつつの人間的自由になるといえるであろう。 

自然必然と人間的自由との葛藤

2019年11月14日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-3-2. 自然必然と人間的自由との葛藤
 ひとは、自然的身体を土台にして生きる。個我のもとでは、快不快の感情があり、この感情・感性にしたがってする営為も多く、ひとの尊厳をなす理性的精神が常に主導できているわけではない。感性的自然と理性的精神の葛藤・対立も少なくなく、できるだけ後者のもとに生きねばと心掛けているのがひとであろう。
日頃は、快不快の自然のもと、ひとも自然存在として生きている。自由とちがい、必然的な展開であるから、理性は、あゝすべきか、こうすべきかと思い悩むことはなく、楽である。だが、自然に従うことで自分たちに有害な事態も生じる。そうならないようにと理性はこれを導こうとする。しかし、感性的自然の方は、快にひかれ、苦痛回避の衝動をもってふるまい、簡単には理性にしたがわない。感性の方が勢いをもっておれば、理性のいうことはきかない。両方が対立し葛藤となる。
 ひとの忍耐は、理性が苦痛を個我に甘受させるものだが、感性的自然の快不快の押すものが強ければ、簡単にはいかない。理性の忍耐が自由であるのは、「自由でありうる」という可能性であって、現実に、これが自由にしていけるかどうかは、感性的自然の強さと理性的意志の強さのぶつかり合いの中で決着がつけられることで、理性の自由の勝利が保証されているわけではない。禁煙の忍耐は、理性意志が喫煙欲を抑圧して自由にするものだが、その欲求・衝動はたくみである。その感性的欲求におされ、理性のうちに感性への寝返り・裏切りも出て、禁煙の忍耐の自由が敗北して禁煙に失敗することは、少なくない。
 忍耐の苦痛甘受という自由は、束縛・強制から解放されている程度が種々あって、一様ではない。苦痛からの自由・解放は、完全に苦痛を無化・抹殺する(麻酔など)自由があるし、苦痛自体からは逃れられないが、これを甘受しつつも苦痛から生じる回避衝動という自然反応については、これを抑止しこれに従わない自由もある。忍耐の多くはこれになろう。あるいは、苦痛から逃げながらも、苦痛に一歩距離をおいて、その気になれば苦痛など好きなようにできるのだと、自由の可能性、自由の能力をいうようなこともあろう。この、可能性として自由でありうるというのが、失敗を繰り返しつつのダイエットとか禁酒・禁煙を思うときの一般であろうか。

ひとの超自然の忍耐は、苦痛から自由になっている

2019年11月07日 | 忍耐論2(苦痛甘受の忍耐)
2-4-3-1. ひとの超自然の忍耐は、苦痛から自由になっている
 忍耐してもしなくても感じる苦痛にちがいはない。だが、感性的には同じく苦痛にとどまるが、忍耐する者は、理性意志を堅持して、苦痛と一体的にはならず、これを突き放している。ひととして、理性存在として、苦痛から自由になっている。
 自然的には苦痛からはひとも逃げる。苦痛回避の衝動に従って苦痛は回避する。だが、ひとの忍耐は、必要と思えば、これから逃げないで、苦痛を受け入れ続けることができる。内面においては、苦痛に自然的反応をもち、これを回避したいともがく。だが、忍耐するひとは、これを抑圧して苦痛回避の自然衝動を拒否して、これから自由になって苦痛を受け入れ続けて、これを踏み台として大きな人間的目的を達成しようとする。苦痛を超越してこれに縛られず、理性は、おのれの目指すものを自律的に実現していく。苦痛と快の自然の強制から自由(消極的自由)になり、理性的自律の自由(積極的自由)の世界を忍耐は展開することができる。自分で自由に行動の目的を設定して自律的にことを始め、これの手段として自然を制御して自由にし、その目的を実現していく。苦痛を回避せず快を抑制するという超自然・反自然の忍耐は、ひとが、自然を超越した自律自由の尊厳をもった存在であることを証する。
 ひとも、動物と同様か、それ以上に、感性的自然の苦痛は、自身のうちに感じている。だが、各個我の全体を担うものは理性的精神のもとにあって、これは、自分の感性的苦痛を手段・踏み台にできる。通常は、動物的感性の快不快の支配下にありその奴隷にとどまっているとしても、必要なところでは、その感性の自然的動物的な展開を抑止しつつ、この自然から自由になり、この快苦のそとに、うえに積極的な自律自由の世界を作り出す。苦痛のみでなく、快の欲求からも自由になってこれを不充足にとどめて、この自然を超越する。