忍耐する者は、ときに、自分を変えない頑固者のことがある

2018年06月29日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6-1. 忍耐する者は、ときに、自分を変えない頑固者のことがある 
 忍耐している者は、実は、自分をゆずらず変えない強情者・頑固者という場合がある。それに不快をいだいている自己を変える気がない、いうなら、未熟な自分をそのままに固守しているのである。その自分を変えれば、そのことに不快・苦痛を感じることはなくなるものが結構ある。強情に自分を変えないでいることが苦痛を生じて、これに忍耐しているのだとしたら、そういう未熟な自分は変えて、忍耐無用とするべきではないか。「我慢している自分は犠牲に耐えているのであり、辛抱強い、できた人間なのだ」と思い勝ちだが、かならずしもそうではない。自分を変えず譲らない強情者・エゴイストだからこそ無駄に忍耐している場合が相当にある。
 給食で、きらいなニンジンを我慢して食べる子は、我慢できない者とちがって、えらい。だが、もっとえらいのは、ニンジンのきらいなことを克服してこれを美味しく食べられるようにと忍耐無用にと成長することである。ニンジンを無理して我慢して食べるのは、感心だが、まだ、未熟者にとどまっているのである。その未熟を成熟へと成長させるのは、その忍耐である。忍耐を通して、欲求の在り方も変えてしまい、忍耐しなくてもいいようにと自分が成長するのである。
 「忍耐させられる」という強制は、不愉快なことであるが、意外にこれが自身を高めるためのありがたい強制であることが多い。子供を強制して忍耐させるのは、成長を願うからである。その強制を受けることのなかった者は大人になって自制心成長不全のパラサイトの「若旦那」になって、他人はもちろん自分をも苦しめることになる。我儘な若旦那になってからでも遅くはない。強制される苦痛・辛苦から逃げず忍耐を重ねれば、やがて自制心もしっかりして、見違えるような好人物になりうる。


忍耐は未熟者を変えていく 

2018年06月22日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-6.忍耐は未熟者を変えていく  
 忍耐は、苦痛と感じるものごとに対してする。苦痛と感じないなら、忍耐することはない。軟弱な者には苦痛で忍耐がいるが、強者は、なおこれを苦痛とせず忍耐など無用となることがある。正座に慣れているものは、これを苦としないから、正座することに忍耐などいらない。だが、正座になれていないものは、すぐに足が痛くなるから、顔をしかめながら苦痛に我慢することとなる。忍耐・我慢するのは、優れているのではなく、逆で、軟弱だからだということになる。苦も忍耐も、そういう点から見れば未熟者の対応だといえる。かつ、多くの場合、未熟者の苦痛は、それに忍耐しておれば、正座の場合もそうであるが、やがて、それを苦としなくてもよくなり、強者にと生まれ変わりうるのでもある(成熟に資するものではない苦痛・忍耐も多い。歯痛に我慢したからといって、自分の歯の能力が向上することなどなかろう)。
 正座の場合なら、足がそれにおのずと慣れてきて、強いものに変身するから、何日か続けていると、忍耐無用となり、正座する方が楽にすらなっていく。だが、苦痛を感じる主体が頑固に自分を変えないような場合、引き続き忍耐がいることとなる。ニンジン嫌いの自分を変えなければ、いつまでもニンジンには忍耐することになる。苦痛を感じるのは、その主体が自身を変えないからで、我を張らず譲れば、苦痛であることをやめて、忍耐無用になることがある。怒りの忍耐など、自分が相手についての考え方を変えれば、怒りはただちにおさまり、我慢・辛抱など無用となる。怒りでは、しばしば、自分勝手な考えをして、「自分をなめている!」などと相手を邪推して、気障りなものと判断を下して、この気障りなものを排撃・撲滅しなくてはならないと、いきり立ち攻撃的に身体を反応させる。怒りに忍耐しているのは、そう邪推する自分を固持しているからである。自分の解釈を変えて相手のことを「鈍な奴だが、かなりの努力だ。苦労したな」と思い直せば、気障りどころか、体力がないのによく頑張ったものだと評価できる。そう思えば、そう自分が変われば、怒りの発生源がなくなって、怒りを抑える不快も消失する。我慢・忍耐など無用となりかわる。
 


日本人は辛抱強いといわれるが、いいことかどうか

2018年06月15日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-9-1. 日本人は辛抱強いといわれるが、いいことかどうか
 日本では、個我の低評価があって、個我を抑制し、周囲の全体(家族から国家まで)にあわせるといった忍耐が強く求められた。我田への引水が全体(村落共同体)の水配分に合わせることで成り立つようなところでは、個我を抑制して全体にあわせることは必須であった。あるいは、小さな島国で、かつ山々に囲まれて小さくまとまった各共同体的全体は、個を隅々までしばり、周囲にあわせてその都度「おれ」「先生」「お父さん」等々と位置付けて自分を意識させ、不変の個我をかたる唯一の第一人称(英語ならI)は出る幕がなく、独立不羈の精神は育ちにくかった。その全体に依存する精神は、いまも続いていることで、オリンピックでも、日本選手は、個人競技ではダメでも、団体競技では、しばしば入賞する。個は全体にうまく適合するようにと自身を抑制・忍耐できているのであろう。  
 その日本でも、最近は忍耐など無用、工夫で快適に、ということもしばしば言われる。さきの一億玉砕の戦争体験は、未曽有の忍耐体験であった。竹やりで戦車に立ち向かうというような無謀・無意味な忍耐を強いられた過去は重い。そういう非合理な忍耐は、確かに無用であり、有害な忍耐として拒否すべきことである。 
 苦難への挑戦に二つの道がある。ひとつは、苦難を受け入れてこれに忍耐することで、もうひとつは、苦痛解消の工夫をし飛躍できる道を探そうとするものである。後の道があるのに、前者、忍耐をとるのは、愚かしいことである。より良い快適な生へと向上する道をとれということになる。不合理・有害な忍耐はやめるべきである。無駄な忍耐ではないにしても、せっかく快適な向上の道があるのを、少し我慢すれば済むと、これに忍耐してということも多々ある。さらに悪い忍耐として目立つのが、辛苦を安易に受け入れることで創意工夫をないがしろにし、生の飛躍や向上を妨げることである。情報革命真っただ中の現在、快適に効率的に苦労なくできるものがどんどんできている。それが出来るようになっているものは、無駄に苦労、忍耐を続けることなく、利用し享受するのが時宜にかなったことである。 
 だが、よりよい生のためにどうしても乗り越えていくべき苦難・障害もある。それを避けて忍耐しない状態では、さきに進めないことがある。そういう忍耐は、ひきうける必要がある。苦痛を受け入れなくては高い価値が得られず飛躍のできない方面にと忍耐は振り向けるべきであろう。さらに、ひとの能力開発には、能力を眠り込ませる快では心もとなく、新規の高度の能力を目覚めさせ開発するには、艱難辛苦をもってする必要がある。忍耐は、そういうところでは、やはり、大いに価値をもつ。
 


忍耐を高評価するストア学派や宗教世界

2018年06月08日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-9. 忍耐を高評価するストア学派や宗教世界 
 忍耐の評価は、快楽や個我(の欲求)を高く位置づけるところでは低く、逆の場合に高くなるだろうと推測される。禁欲主義のストア学派では、忍耐は、高く評価された。パトス(個我の快不快・欲求)を超克したアパテイアをモットーとするストア学派では、さきに(1-2-2-1.)アリストテレスに関わってあげたエンクラテイア(抑制)やカルテリア(忍耐)は、生き方の中軸をなす概念になっていったという。 
 宗教は、現世の快楽を否定的にみて、逆の辛苦・受難を積極的に価値づけることが多い。宗教的な呪力を得るのは、苦行を通してであり、当然、それへの忍耐が求められた。キリスト教では、この世での不幸は、あの世での至福につながると見る。受難は、神の与えた試練であり、使命であるから、これへの忍耐は尊いものとなった。キリスト教世界の泰斗アウグスティヌスもトマスも忍耐をしっかりと論じた。いずれもpatientia(忍耐、我慢)とperseverantia(堅忍、辛抱)をあげて、後者(堅忍)は、信仰を堅持して人生をまっとうするよう人を支える崇高な、神からの賜物として特別視された(cf. Augustinus, A. ; De Patientia. , De Dono Perseverantiae. , Aquinas, Thomas ; Summa Theologiae.Ⅱ-Ⅱ. Qu.136,137)。このpatientia とperseverantiaは、宗教に特殊な忍耐ではなく、おそらく、現代日本の「我慢」と「辛抱」に相当するラテン世界での一般的な忍耐で、宗教色抜きでキケロはこの二つを列挙している(cf. Cicero, M. T. ; De Inventione.Ⅱ163-164.)。さらにキケロは、卓越した生き方は、苦痛や苦悩から逃げずどこまでもこれに立ち向かう忍耐(patientia)の堅持にあると、いわゆるスパルタ教育などをあげ、どんな苦痛もその気になればひとに忍耐できないものはないと読者を鼓舞している(cf. Cicero ; Tusculanae Disputationes.)。あるいは、キリスト教では、この世の受難に耐えての天国での至福をいうが、後期ストア学派のセネカは、ごく常識的に、この世の受苦受難に耐えることでこの世の強靱な存在へと鍛えられること、受難は当人が卓越した人物であることを実証するチャンスになる等と論じて、試練に挑戦する忍耐(patientia)を髙く評価している(cf. Seneca, L. A. ; De Providentia.)。 
 ただし、弱肉強食の西洋では、正義、勇気、節制等を枢要な徳とする倫理の主流からは、忍耐は、従属的なものと位置づけられがちであった。勇気は、国を守り支配する者の徳であり、節制は、有り余る富を独り占めした支配階級が快楽享受で過度になるので、これを制限し節するものであった。だが、富の享受から疎外された庶民は、洋の東西を問わず、節するものもなかったことで、いわずもがな、飢餓など辛苦に忍耐することばかりが求められた。
 


忍耐力は、「氏より、育ち」 

2018年06月01日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-8-1. 忍耐力は、「氏より、育ち」 
 頭のよさとか身体の能力は、生来的なものが大きい。だが、忍耐は、経験的に、必要に迫られてだんだんと身につけていくものになる。かりにその忍耐が遺伝子に関わるものであっても、それが忍耐力としての根性とかになるには(たとえば、心身に元々備わっているやる気ホルモンの分泌が顕著になるなど)、ふつうの者では眠っている遺伝子のその部分が苦痛体験をもって覚醒する必要があるのはないか。
 忍耐は、苦痛を甘受する。苦痛は、できれば避けたいもので、恵まれた環境であれば、より多く苦痛回避は可能となる。生来の能力として同じように忍耐する力はあったとしても、恵まれているものは、それを回避することができれば、その力を発揮する機会がない。だが、苦痛回避のできない境遇のものは忍耐を経験することで、その能力は発揮されて身につくことになる。おなじ遺伝子の「氏」(生まれ)であっても、その育つ環境によって忍耐力は身につくものとつかないままのものが生じる。
 一卵性双生児でも、別の環境に育てられ、一方は貧困家庭で新聞配達をすることが強いられるような場合、かれは、もうひとりの自分とちがい、眠いのを我慢し辛苦に耐える日々となり強い忍耐力を培うこととなろう(ただし、同じ高い音楽的才能をもっていても、かれは、その能力をのばすことは断念させられるだろう)。苦痛回避の衝動を抑制する意志の命令の神経回路が太くなり、アドレナリンなどのホルモンの分泌も忍耐力を高めるように適応して、欲求や衝動への意志の制御は熟達し強い自制心が形成されてくる。忍耐力に関しては、生来的に「氏(うじ)」のもっている能力も、辛苦に耐える経験を重ねなくては発現しない。忍耐力は、氏より育ちである。