2-4-4. 苦しみの成立過程
痛みは、自身の思い・営為とは無関係に受傷で発生する。だが、苦しみは、欲求等の思いがあって成り立つことで、自身の在り方次第で相当に異なってくる。多くの場合、痛みとちがって、はじめから苦しいということはない。はじめは、楽であったり、難なく受け止められるもので、それが次第に苦しいものに変わってくることが多い。
息は、止めることで苦しくなるが、はじめは、息したいという欲求がほとんどないから、苦しさはゼロである。だが、しだいに苦しくなっていく。息しよう、息したいという意思が思いのままになれば、楽であるが、これを抑止されることになると、意思が通らず、抑圧を感じ始める。若干不愉快・不快となろう。息する意思を抑止し阻害するものの圧力を不快と感じ始める。それが強くなっていく。だんだん呼吸欲求が切実になり、息することを阻害している状態が苦しいものとなっていく。胸とか喉あたりが、痛みではないが何か詰まっているというか動きたいのに動けないといった感じで苦しくなる。息したいという衝動よりも、その苦しさを解消したいという衝動の方が大きくなる。
生理的欲求の場合は、その欲求が徐々に切実になって苦しみを生じそれが大きくなるのが普通だろうが、受験とか恋愛などでは、その思いが突然拒まれるのであり、即、絶望的状態になり苦悩するのだろうから、一挙に苦しみに叩き込まれる。絶望の発生とともに、一斉に、抑鬱・悶え・焦燥などの心的反応をもち、身体的に萎縮等の反応をもつ。一日中そうなるわけではなく、これを意識したときに苦しみを味わう。スポーツに熱中しているときなどは、絶望の事態を思うことなく、したがって、苦悩することも停止しておれるであろう。苦しさは感じないとしても、その絶望のもとにある生全体は、楽しまず陰鬱の状態に落ち込んでしまう。しかし、精神的社会的なものでも、貧困などのように徐々に切実になるのなら、徐々に苦しみが大きくなろう。恋愛でも、一挙に失恋となるのではなく、片思いを深めて恋焦がれるというような場合は、苦しみは、生理的な苦しみと同じように、徐々に苦しみが大きくなることであろう。
痛みは、自身の思い・営為とは無関係に受傷で発生する。だが、苦しみは、欲求等の思いがあって成り立つことで、自身の在り方次第で相当に異なってくる。多くの場合、痛みとちがって、はじめから苦しいということはない。はじめは、楽であったり、難なく受け止められるもので、それが次第に苦しいものに変わってくることが多い。
息は、止めることで苦しくなるが、はじめは、息したいという欲求がほとんどないから、苦しさはゼロである。だが、しだいに苦しくなっていく。息しよう、息したいという意思が思いのままになれば、楽であるが、これを抑止されることになると、意思が通らず、抑圧を感じ始める。若干不愉快・不快となろう。息する意思を抑止し阻害するものの圧力を不快と感じ始める。それが強くなっていく。だんだん呼吸欲求が切実になり、息することを阻害している状態が苦しいものとなっていく。胸とか喉あたりが、痛みではないが何か詰まっているというか動きたいのに動けないといった感じで苦しくなる。息したいという衝動よりも、その苦しさを解消したいという衝動の方が大きくなる。
生理的欲求の場合は、その欲求が徐々に切実になって苦しみを生じそれが大きくなるのが普通だろうが、受験とか恋愛などでは、その思いが突然拒まれるのであり、即、絶望的状態になり苦悩するのだろうから、一挙に苦しみに叩き込まれる。絶望の発生とともに、一斉に、抑鬱・悶え・焦燥などの心的反応をもち、身体的に萎縮等の反応をもつ。一日中そうなるわけではなく、これを意識したときに苦しみを味わう。スポーツに熱中しているときなどは、絶望の事態を思うことなく、したがって、苦悩することも停止しておれるであろう。苦しさは感じないとしても、その絶望のもとにある生全体は、楽しまず陰鬱の状態に落ち込んでしまう。しかし、精神的社会的なものでも、貧困などのように徐々に切実になるのなら、徐々に苦しみが大きくなろう。恋愛でも、一挙に失恋となるのではなく、片思いを深めて恋焦がれるというような場合は、苦しみは、生理的な苦しみと同じように、徐々に苦しみが大きくなることであろう。