苦しみの成立過程

2022年04月26日 | 苦痛の価値論
2-4-4. 苦しみの成立過程  
 痛みは、自身の思い・営為とは無関係に受傷で発生する。だが、苦しみは、欲求等の思いがあって成り立つことで、自身の在り方次第で相当に異なってくる。多くの場合、痛みとちがって、はじめから苦しいということはない。はじめは、楽であったり、難なく受け止められるもので、それが次第に苦しいものに変わってくることが多い。
息は、止めることで苦しくなるが、はじめは、息したいという欲求がほとんどないから、苦しさはゼロである。だが、しだいに苦しくなっていく。息しよう、息したいという意思が思いのままになれば、楽であるが、これを抑止されることになると、意思が通らず、抑圧を感じ始める。若干不愉快・不快となろう。息する意思を抑止し阻害するものの圧力を不快と感じ始める。それが強くなっていく。だんだん呼吸欲求が切実になり、息することを阻害している状態が苦しいものとなっていく。胸とか喉あたりが、痛みではないが何か詰まっているというか動きたいのに動けないといった感じで苦しくなる。息したいという衝動よりも、その苦しさを解消したいという衝動の方が大きくなる。
 生理的欲求の場合は、その欲求が徐々に切実になって苦しみを生じそれが大きくなるのが普通だろうが、受験とか恋愛などでは、その思いが突然拒まれるのであり、即、絶望的状態になり苦悩するのだろうから、一挙に苦しみに叩き込まれる。絶望の発生とともに、一斉に、抑鬱・悶え・焦燥などの心的反応をもち、身体的に萎縮等の反応をもつ。一日中そうなるわけではなく、これを意識したときに苦しみを味わう。スポーツに熱中しているときなどは、絶望の事態を思うことなく、したがって、苦悩することも停止しておれるであろう。苦しさは感じないとしても、その絶望のもとにある生全体は、楽しまず陰鬱の状態に落ち込んでしまう。しかし、精神的社会的なものでも、貧困などのように徐々に切実になるのなら、徐々に苦しみが大きくなろう。恋愛でも、一挙に失恋となるのではなく、片思いを深めて恋焦がれるというような場合は、苦しみは、生理的な苦しみと同じように、徐々に苦しみが大きくなることであろう。

だんだんと深まる苦しみ

2022年04月19日 | 苦痛の価値論
2-4-3-3. だんだんと深まる苦しみ
 痛みは、損傷を受けると即これを感じる。損傷を拡大しないためには緊急の対応が必要であり、痛覚刺激は、即、脳にと届き、痛みとなる。痛みの感情は、瞬時に萎縮・緊張などの反応をもって対応する。だが、苦しみは、様相を異にする。苦しむことになる前の段階があるのが普通で、はじめは苦でなく楽であるようなものも多い。それが、生の展開のなかで、思うようにならず妨害・阻害が感じられるようになると、苦しいこととなっていく。しかも時間とともに欲求等への不充足感は大きくなるから、苦しさは、漸次的に大きくもなっていく。
 痛みは、生の自己修復の機能のもとに損傷が修復されていくことが多かろうから、そういう場合、だんだんに小さくなっていく。だが、苦しみは、欲求に基づくものであれば、時間とともに、その思いは募り、大きくなるであろうから、その場合は、抑えられた思いとともに、苦しみは、より大きなものになっていくであろう。かつ、思いが満たされることになったら、痛みが損傷の徐々の修復で徐々に小さくなるのとちがい、即苦しみは消失する。尿意など、はじめは、苦でもなんでもないが、抑止しているとだんだんと尿意は大きくなり、苦しみも切迫的に大きくなっていく。かつ、放尿すると即、苦しみは消失する。
 精神的な苦しみでは、悲しみなどは、だんだんと苦を大きくするが、絶望とか不安は、突然の希望剥奪とか危険可能性の突発といった場合、徐々に苦しみを深めていくのではなく、突如、奈落の底に叩き込まれるようなことになろう。その絶望・不安が持続すれば、もちろん、心身の疲労困憊の度を高めていくから、さらにその苦しみは耐えがたさを増していく。その苦しみは、絶望や不安の解消で、即消失して安楽となる。
 痛みは、自身の思いでは変わらない。痛みとならないためには、損傷をなくする必要がある。損傷は、多くはそとからやってくるもので、当人の意志を超えた客観的なものとしては、思いでこれを変えることは通常はできない。だが、苦しさは、自身の思い次第では、苦でなくなることも多い。生理的な欲求は、簡単には変えられないだろうが、社会生活での欲求の引き下げは難しくはない。欲求・思いを変えることで、欲求への妨害・障害は消えるから、そこに生じていた苦しみはその原因を失って消えていく。片思いの苦しみは、気を他に移せるなら、即消失する。

受動の痛みと能動の苦しみ

2022年04月12日 | 苦痛の価値論
2-4-3-2. 受動の痛みと能動の苦しみ
 痛みの感情は、何もせず意思しないところでも、受傷して生じるもので、受けた損傷にその痛みでもって気づき、それに緊急の対応をとるものとして、受動的で防御的である。まずは、痛みを生じる事態からの逃走・回避の反応をとる。損傷をもたらす加害物からは逃げるのが一番である。痛みは、生じてしまった損傷にはそれ以上の被害を防ぎ、損傷部の保護のためにと受け身の反応をする。受動的に対応する。痛めば、緊張し萎縮して、さらなる加害に備える。能動的営為のもとでも痛みを生じるが、痛みを抱く場面自体は、受傷を感受してのものとしては受動的ということになろう。
 苦しみは、何かを意思して欲求・衝動を抱くところに生じるのが普通で、能動的営為のもとに抱く。意思することへの妨害・阻害が生じる場面で、これに対抗的になって感受するものが苦しみであろう。これを乗り越えるために一層の苦しみを受け入れるか、これへの挑戦を断念して引き下がる。引きさがれば苦しみはなくなる。苦しみは、妨害感受の受動面を有するが、能動的な思い・営為をやめれば妨害は消え、苦しみも消えるから、基本的には能動的営為下の能動的反応となる感情であろう。
 痛みとちがい、苦しみは、自身の欲求や衝動といった能動的な思いが阻害されて感じるものだが、実際の行為を意識するよりは、その能動的思いがぶつかる妨害・阻害の感受にいだく。その能動的な思いを行為にまで進めての「辛さ」とは区別されるべきであろう。「息苦しい」と、「息し辛い」「息し難い」は、ちがう。息苦しいは、呼吸欲求が阻害されてもがきもだえる主観的状態である。だが、息し難(にく)い、息し辛(づら)いは、「し」難い、「し」辛いであり、「する」こと、行為について言う。息する行為が困難であることを「し辛い」「し難い」は語る。二つのうちでは、「し難い」の方が、より客観的に困難さを語るものになろう。これに対して息苦しさは、妨害に出合ってのその主観的な感受の様態・感情を語る。

強いられる痛み、自らに由る苦しみ

2022年04月05日 | 苦痛の価値論
2-4-3-1. 強いられる痛み、自らに由る苦しみ
 痛みは、多くが外からもたらされる。うちでの内臓等の痛みにしても、自身の意思は通じず、強いられた痛みということになろう。痛みは、意思を超えたところから強いられて発生する損傷への痛みである。その損傷に対して生は防御のために火急の対応をしなくてはならない。それには、何といってもその傷ついたことを自覚する必要がある。この緊急の事態発生を知らせるのが痛覚刺激をもってする痛みである。
 他方で、苦痛には、苦しみがある。これは、生の能動的営為のもとに生じているものであろう。その生の衝動とか欲求の形をもっての能動的な営為が(しばしば外に向かって)動くとき、スムースにいかないことが生じる。衝動・欲求といったうちの思いが発現しようとして妨害され、この妨害に拒否的反応をもってするのが苦しいという感情である。この苦しみは、外傷の痛みのように、そとから襲来するものではない。うちに衝動等の思いがあり動きが出てきて、それを思いのままにさせない阻害物が立ち現れての反応である。うちの思いがなければ、阻害するものは、したがって苦しみは生じないであろう。生は、高度になるほど多様多彩な営みをして内外のものに関わり、その生の思いを通そうとするから、高度な生ほど苦しみを多くもつことになる。
 仏教では、この世は、苦しみの世界、「苦界」だという。「痛界」とはいわない。そとから痛めつけられることはあるのだが、それは、現に生を得て成功裏に存在しているものにとっては、この世界の本源的な事態ではない。世界は生をはぐくみ支えてくれるものである。だが、自身がもつ衝動等の思いを世界に向かって通そうとすると、これは簡単ではなく、種々の妨害・阻害物が立ち現れてくることで、その阻害を感じ取りこれに反発するところに苦しみが生じる。いうなら、煩悩という思いをいだくことで、世界はそれへの妨害物として現れてきて、苦しみの世界をつくる。妨害物として現れる世界は、冷たいといえば冷たいのであるが、煩悩をもって世界に関わろうとしなければ、苦しみは生じない。苦しみの根源は、自身のうちの思い・煩悩にある。自分が生み出しているのがこの苦界ということになる。
 苦しみは、自分次第である。欲求・思いがその根源であれば、苦しみは自己自身のうちにあるものとして、自らに由るものとして自由に出来る度合いが大きい。耐えがたい苦しみならば、阻害と解することになる自分の思い、欲求を取り下げれば、苦からの解放が可能となる。生理的欲求の制御は、そう簡単ではなかろうが、精神的な世界での欲求は、多くが自身の思い方次第で変えられる。欲望肥大になっている現代のことだから、これを小さくして、そういった類いの苦から解放されることは難しいことではなかろう。