快楽主義は、自然主義ではない。

2013年06月28日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-2-1. 快楽主義は、自然主義ではない。
 自然主義は、不自然で無理の多い禁欲主義を否定する。快楽主義も、快楽への欲求を禁じる禁欲主義を自分の敵と見て拒否する。反禁欲主義として、快楽主義と自然主義は一致する。食と性に関しては、その身体的自然の欲求は、快楽への欲求になり、自然を尊重する自然主義と快楽を目的とする快楽主義は一致する。だが、多くの場合、自然主義と快楽主義は別の道をとる。
 自然主義は、人為を排して自然を尊重する。快適な人工を避けて、苦労の多い自然においてできるだけ生きようとする。快楽主義は、人為・自然を問わず、快楽を至上の目的とする。苦労・不快の多い自然の生活は好まない。自然主義者は、大自然の中で野生的な生活をし、快楽主義者は、歓楽の都会で淫楽の生活をするといったイメージになるであろうか。
 希望とか幸福への欲求は、苦労をもっての価値ある物事の獲得をめざすが、自然主義は、そこでは、無理な高望みなどはせず、自然な成り行きにまかせるといったものになろう。快楽主義は、快楽が目的だから、希望達成のための苦労は避けようとするだろう。希望という欲求では快楽は目的にはならない。自身にとっての至高の価値ある物事を目的とし、苦痛・苦労はその手段として不可避となる。希望達成には快など伴わなくてもよい。快楽主義の目指す快楽はそこには見出しにくい。


自然主義(穏やかな快楽主義)と積極的快楽主義

2013年06月22日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-2. 自然主義(穏やかな快楽主義)と積極的快楽主義
 ひとも動物的自然のもと、快・不快(おいしい・まずい)の感情にしたがって生きる。おいしさ(のど越しの快楽)をもたらすものは、栄養のあるもので摂取することが好ましいものである。逆に、まずいものは、しばしば腐敗していたり食べ物ではないものであって、この不快なものの拒否は生体を保護する。自然本性にしたがって、つまりは快を求め不快を避けるという自然主義としての快楽主義で、動物的生は維持されている。類の維持も、性的快楽にしたがう自然的な欲求のもとに可能となっている。
 ひとは、その自然本性にしたがって、食もさして過多にならず、性的にみだらでもなく、健やかな生を維持できていることが少なくない。この自然に素直な自然主義は、快を求めるといえばそうだから、消極的な穏やかな快楽主義である。快楽への欲求を抑圧したり禁じたりしなくても、健やかな生を維持できているのであれば、節制も不要ということになる。
 これに対して、この快楽享受にことさらに執着して、これを人生の目的にする快楽主義は、積極的な快楽主義ということになろう。高級な精神的人間的な営為があるときも、これを無視して、人間的生の底辺の快楽の方にと流れるのである。幸福への願いといった高級な欲求では、恵みの確保が目的となり、それには、しばしば苦労などの不快が伴い、かつ幸福が得られたとしても快でないこともある。快は、目的にはならない。快楽を目指して動くのは、食と性の動物的レベルの欲求である。積極的な快楽主義がひたすらに快楽追求に生きるということは、動物的な存在に己をしばりつけているのである。あるいは、快楽中枢を直接刺激する麻薬などによって快楽の虜になるのであれば、快楽の奴隷にと成り下がるのである。


もって生まれたものの個人差は、節制でも大きいが・・

2013年06月15日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-1-1. もって生まれたものの個人差は、節制でも大きいが・・
 いくら過食しても肥満しないひとがいる。反対に、「水を飲んでも太るんだから」となげくひともある。前者は、節制しないのにスマートで、後者は、節制に努めてもなかなか報われない。性の問題では、美形の偏重に、そうでない者は悔しい思いをする。もって生まれた個人の資質、その差異・差別はどうしようもなく、天に向かって苦言を呈したくもなる。
 食の節制は、一度失敗しても決定的なことにはならず、いくらでもやり直しがきく。だが、性の場合は、そのあり方をまちがうと、自分のみならずひとの人生をも狂わせ、一生を棒に振ることも生じる。もっとも、その多くは、狭義の性的な節制の範囲外のもの、つまり、動物的な性欲自体ではなく、もっと人間的に高級な精神生活のレベルでのトラブルである。恋愛・希望となり、嫉妬・絶望となってのもので、性欲が基礎にはなっているが、その生理自体を原因とするトラブルではない。が、性欲は人間関係をふまえて精神世界にまで影響を及ぼしており、そこに繰り広げられることも広義には性の節制の話となりうる。
  いずれにしても、天与のもの、所与のものは、運命・宿命として受け入れて各人生の大前提とする以外ないが、なかにはその天与の大きな相違・差別を変える試みをするひともある。天に抗して栄養吸収の効率を悪くする薬を飲むとか、性的なものでは容貌を変えることもある。しかし、痩せ薬を飲むことは節制ではない。節制は、天に逆らった後の話で、意志をもっての努力のレベルの問題になる。


自然体でうまくいっているひとでは、節制はいらない。

2013年06月08日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2-1. 自然体でうまくいっているひとでは、節制はいらない。
 自然的欲求には本来、自らを制御する機能が備わっている。食欲では、満腹してくると満腹中枢が働き始め、自動的に食への欲求をなくしていく。食欲には何といっても、おいしさ(のど越しの快楽)であり、これに引かれて、満腹してもさらに過食してしまうのだが、それでも度を過ごして摂取していると、快でなくなり、さらに過ぎると嘔吐までもよおすようになる。
 性欲の場合、多くの動物では、出産・生育の都合に合わせて発情するという自然的な制御がある。ひとでは、これがほとんど働かない状態にあり、制御は、性欲のそとから理性的に行うことが求められる。だが、性的な交わりは、人間関係の基本にかかわることとして、帰属する社会からの強い抑制圧力が加わっていて、日頃は個人の意志において制御しなくてはとまで思わなくても済んでいる。夫婦であっても、当の社会に生きる中でおのずと形成された抑制があって、羞恥心という形をとって、公衆の面前での抱擁やキスにはブレーキがかかる。
 もって生まれ、育った環境によって身についたものをもってして、健やかで、ことさらに節制のいらないひともある。だが、旺盛な生の欲求と恵まれすぎた環境のもと、おいしいもの、快楽をもたらすものがあると、ついこれをむさぼり快楽主義的になりやすく節制を心がけることが必要となるひとも多い。


快楽と欲求への接し方-快楽主義・禁欲主義と、中庸の節制

2013年06月01日 | 快楽への欲求を理性的に抑制(節制論3)

2. 快楽と欲求への接し方-快楽主義・禁欲主義と、中庸の節制
 節制主体の理性は、動物的な根本欲求の食欲・性欲を制御しようとするが、この快楽を求める欲求に対しては、快楽主義と禁欲主義の相対立する極端な考え方がある。節制する理性は、その両極端の中間で中庸をとる。
 ひとの自然に備わっている快楽への欲求と、不快なものへの回避欲求によって、われわれは、ことさらに意識しなくても自然的動物的にうまく生きている。快楽(おいしいもの)を求めることで自ずからに生の促進(栄養摂取)がなる。この自然的欲求充足に生きておればいいのだと、快即善とみなすのが快楽主義である。だが、過度の消費をさそう社会においては、快が善とならず、食の快楽追求では栄養過多・肥満といった悪しき生の状態をもたらしてしまう。 
 他方、ひとは自然を超越した理性存在であって、快・不快で動く動物的な欲求を超越する必要があると禁欲主義を求める立場がある。快楽は悪で、禁欲こそが善だと主張する。確かに、快に引かれ不快を避けていたのでは、不快・苦を契機に含む人間的営みでの喜びや希望などは得がたいものとなってしまう。だが、禁欲を徹底して食欲・性欲を禁じて絶つことは、個体の生の維持を困難にし、類の存続を危ういものにしてしまう。
 節制は、この快楽主義と禁欲主義の中間をいく。快楽への欲求をほしいままにはさせず、これに制限を加えて節する。かつ、快楽と欲求を根本的に禁じて禁欲生活をというのではなく、生の維持に一致した適正な限度までは、その快楽・欲求を肯定する。